十 センパイの秘密(前)
「……和平工作、だと……!?」
「そう。もしかすれば貴殿も故国へ帰れるやもしれぬ。悪い話ではないでしょう? 宋国皇帝陛下。いえ、いまは元・皇帝陛下でしたか」
「……何が望みだ」
「実は我が息子が、貴殿のご息女をひどく気に入りましてね。名はなんだったか、たしか、趙珠珠と言ったか──」
「……和平と引き換えに、余の娘をそなたらに売れと……!?」
「皇女と引き換えにご自身の地位と泰平の世を手に入れられるならそう高い『取引』ではないかと思いますが?」
「……我が国の安寧を乱したのはそちらだろうに……」
「はて、何か申されましたかな? 拒んだところで、貴殿のご令嬢たちに待ち受けているのは娼館行きの運命。それに比すればいくぶん温情──」
「
「……おっと」
「ぐうっ……!」
「てっきり絵ばかり描いている軟弱文人と思っておりましたが……掴みかかろうとするのは勇ましい限り。ですが……ご自分の立場というのをご理解なされてない」
「ぐあああっ……!!」
「敗けたんですよ、あなたは! 日頃蛮族と蔑んでいた、我々に!」
「うぐっ! かはっ……ゲホ、ゴホッ……」
「……将軍、お戯れはそのくらいで」
「わかっておる、殺しはせぬ。この男にはまだ利用価値がある──しかしながらですね陛下、あなたに選択肢なぞ、最初からない! 我々の指示に従うしかないんですよ、そうして地べたに這いつくばって、ね!」
「くそっ……娘たちよ……すまぬ……すまぬ……」
──世界史の本を読んでいると、さまざまな立場というのが知れる。
たとえば『靖康の変』。
『宋』にとっては、『蛮族』として侮っていた女真族に首都を落とされ、皇帝やその一族がほぼ全員連れ去られるという屈辱的な惨敗に外ならない。
一方、女真族の国家『金』にとっては自分たちを見下し続けていた『中華』に圧倒的な勝利を収めた栄光の歴史として刻まれている。
歴史というのはひとつの見方で単純にわかった気になれるものじゃない。同じできごとでも立場の違いによって、その捉え方も大きく変わってくる。わずかながらでも勉強という行為をしてみて新たにわかったことだ。
歴史に詳しい人たちからしたらごく当たり前のことなのかもしれないけど……なんでこのできごとが起こったのか、という問いをひとつの正解としてテストに書かされることに慣らされた僕には、たったこれだけのことがひどく衝撃的だったんだ。
かつては
モンゴルに滅ぼされるまで中国の北半分を支配しおよそ120年続いた。
『皇女』に対する想いもあって『宋』にどうしても肩入れしてしまうんだけど、彼らにだって立派な歴史がある。
一方の栄光は、一方の没落。
一方の正義は、一方の悪。
ページをめくればめくるほど、その歴史をどういう風に自分の中で飲み込んでいくべきか、悩ましくなる。
本を近くに置いて閉じ、寝転びながら天井を見上げた。
「……何が正しいのかな。わからなくなるな……」
1週間。短いようでとても長かった。
日曜こそ外へと足を運んだものの、基本的にはずっと本を読んで過ごしていた。こんなに1冊の本に向き合った読書体験は久しくなかった。
当然1回目を通したくらいじゃ本当にわかったとは言えないんだろうけど、少なくとも前よりは確実に『皇女』の生きた時代を理解できたと思う。
当番もなかったから、図書室に行く強制イベントも発生しなかった。
返却に行ったあの日少し顔を出したのは例外として、実質2週間ものあいだまったく図書室に通わなかったのは、もしかしたら入学以来はじめてかもしれない。
放課後。図書室へと足を運ぶと、いつもの先輩がお出迎えしてくれる。
「やあ。まさか本当に1週間まったく来ないとはね……それだけ真摯に本に向き合ったようだね。じゃあ、確かに。返却承ったよ」
「ありがとうございます」
「──それで? 調べたいことはわかったのかな?」
「い、いえ、それがですね──」
「『洗衣院』については書かれていなかった──だろう?」
──?!
なんでこの人まで!?
不敵に微笑む金目先輩が、今この瞬間に限ってはとても恐ろしく感じる。
「なんで私がそんな言葉を知っている? って顔だね」
場所を移そう、って促されるまま、図書室奥の書架へ。
図書室とその事務室の奥にあるこの場所は、貴重かつ高価なため普段図書室の表に出さないたぐいの蔵書を収めているんだけど、委員の僕たちでさえそうそう足を踏み入れない。
流れるような手付きで内側から鍵をかける先輩。
薄暗くて少し不気味な部屋に、なぜか他人の秘密を知っている可能性が非常に高い人物と二人きりだ。ひょっとして、これ、けっこうヤバい……?
すぐさま逃げようとしたが……
先輩は腰ほどの高さまで脚を上げて通せんぼする。
「……そんなに怖がらないでくれ。なにも取って食おうってわけじゃない」
「で、でも……」
この状況、身構えるなってほうが無理って話だよ……!
脚を下ろし態勢を整えると、やおら話を進める先輩。
「驚かせるような真似をしてすまないね。ただ、これは私としてもあまり公にはしたくない。だが──そろそろ君には教えておいたほうがいい頃合いだと思ってね」
「な、何を……?」
固唾を呑んで先輩の言葉を待つ。
「私の、えね、という名前は基本的にひらがなで表記する。が、本来は漢字を当てている。さあ、2週間にわたってみっちりと歴史のお勉強をした下級生くん、ここでひとつクイズといこうではないか。さてこの『えね』という名前──地名を元にしたものなんだが、さて何に関係する地名でしょう?」
「え、ええ……?」
な、なんでいきなり……そんなこと言われてもわかるわけが……
い、いや、ある。心当たりが……
地名で、読み方によっては日本語で『えね』と読めないこともないものが、ひとつ。でも、もしそれが正解なんだとしたら……
「お、さすが優秀な後輩だ。答えはすぐに思い浮かんだみたいだね。それならさっそく答え合わせだ。今の地名だと
そう。会寧。これは調べていく途中で出てきた地名だ……
あの時代の首都だったらしい。でもそれは『宋』じゃなくて──
「そう、かつて中国を『宋』と分け合った──『金』の首都」
汗が全身の穴という穴から湧き出て止まらないような感覚。
生きた心地がしない。
思えば『金』が名字についている時点でそういう想像をすべきだった。
うかつだった……
間違いない。金目先輩は『皇女』と同時代の人だ……!
「さあ勉強熱心な図書委員くん、もう一問、答えてもらうよ。『金目』というのも、『向こう』での名前を少しいじったものでね。アナグラム、というやつになっている。さて、それでは私の『向こう』での名前は? これにも心当たりがあるのではないか?」
脳内をぐるぐるしたいくつもの想定の中でも最悪も最悪だ。
歯ぎしりが止まらない。顔面が青ざめるのが自分でもわかる。
……覚えがあるなんてもんじゃない。
『こいつ』は……
「
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