四.散華



 霞ヶ城十万石。

 城内に留まるは、降伏を快しせずに主戦を唱える、家老・丹羽一学。加えてごく少数の藩士たち。

 怒涛の如く押し寄せる敵軍。そして、新しい時代への大波。

 その波に最後まで抗い、この日、正午を前に霞ヶ城は炎上した。

 真昼の高い蒼穹を黒煙に染め尽し、唸りを上げて燃え盛る終焉の火は、城を枕に自尽した重臣たちが自ら放ったものであった。

 あくまで奥羽を討たんとする薩長への、最期の矜持。

 我が身惜しさに他の奥羽諸藩を裏切って帰順することは、二本松藩の武士にあるまじき行為だったのだろう。

 己の信ずるところの士道を貫き通し、徹底抗戦の意思を些かも曲げることなく、撃ち、撃たれ、斬り合い、そして自決した。

 城を落とされ、敗北した二本松藩の者は、次々と斃れていく。

 人は死に、城下は灰燼に帰した。

 両軍が干戈を交えた山野は落莫たるものに変わり果て、そこを吹く風も蕭条とした音色を立てていた。


     ***


「どうじゃ、助かりそうか、その子は」

「いや、一向に熱も引かんがです。今夜を越えるかどうかも……」

 朦朧と歪む脳裏に、そんな話し声が響いた。

 身体は燃え盛る火のように熱く、全身に激痛が走る。息すらままならない苦しさゆえに、篤次郎は己がまだ生きていることを知った。

 傍で交わされる声がぼんやりと聴こえるが、それが一体誰のものなのか。それを確かめようにも、瞼は火にくべた鉛のように重く熱く、ほんの僅かに押し上げた先は厚い靄がかかっていた。

 味方に助けられたのならば、これ以上ないほどに安堵出来る。

 だが、もし敵兵ならば――。

 こんなところで寝ている場合ではない。

 慕い続けた師・銃太郎が斃れた今、その弟子である自分が仇を討たずして誰がするのだ。

 手も足も無数の銃弾に撃ちぬかれ、体は叫ぶような軋みを上げた。

 横たえられたのが戸板の上か、或いはどこかの屋内なのか、節々に固い板が擦って気の狂わんばかりの激痛が走る。

 だが、痛みはかえって篤次郎の敵愾心を煽り立てた。

「銃を……」

「おお、気が付いたか!?」

「しっかりせい。ここが分かるか?」

「銃を寄越せ……っ!」

 先の会話の声が何事か話しかけたが、篤次郎は渾身の力で怒鳴った。

 ここがどこであろうと、傍にいるのが誰であろうと、どうでも良いではないか。

 ただ敵を倒すこと以外に、今、何が重要だというのだろう。

「隊長の、若先生の仇を討つんだっ!!」

 全身の痛みに逆らうように、篤次郎は一層激しく叫ぶ。

 銃を求めて空を彷徨い伸びる篤次郎の腕には、滴るほどに血の滲む晒が巻かれ、その傍らに付き添う男の目は、憐憫に満ちて細く歪められていた。


     ***


 そこは二本松城下の寺に、臨時に設けられた野戦病院であった。

 二本松藩の者が君側の奸と呼んで憚らない、薩長土肥をはじめとする西軍が設置したものだ。

 篤次郎は瀕死の重傷を負いながらも不思議に一命を取り留め、その一角に運び込まれていたのである。

 その傍らには黒い筒袖に赤い獅子頭の敵将が、魘される篤次郎を案じ続けていた。

「こんなわらべまでもが、戦に出とるとはのう……」

 あの時、銃撃を加える前に、そこにいるのが子どもばかりであることに気付けなかった。

 もっと早くに子どもたちの集団だと気付いていれば、銃撃などしなかっただろうに。

 よほど兵に窮していたと言え、まさかこのように年端もゆかぬ子どもを戦場に出すとは思ってもいなかったのだ。

 勝算など無いに等しいことは、恐らく二本松の者たちも判っていただろう。それでも尚、寡兵で戦い抜いた誇り高さは称賛に値する。

 だが、瀕死の重傷を負って尚、敵を倒さんとするこの少年の悲壮さは、目を覆いたくなるほどであった。

「落ち着け、もう戦は終いじゃ」

 銃を求めて身を捩る篤次郎を宥めるが、まだ落ち着く様子はない。

 床に押し戻そうと掴んだ細い腕には、銃創からの出血がさらに滲み出て、巻いた包帯を赤々と染め抜いていく。

「敵は、敵はどこだ!!」

「もうええが、落ち着け! 隊長殿は立派に戦死なされたんじゃ。おまんの死なぞ、隊長殿は望むまい。今は大事を取るんじゃ」

「う、るさい……! 銃を、弾を寄越せ!」

 乾ききった篤次郎の唇が矢継ぎ早にまくし立てると、傍らの一兵がつつと進み寄った。

「広田隊長、この様子では暫く落ち着かんでしょう。この後、会津への行軍もあることです、お休みになられたほうが……」

「いや、おれはいい。もう暫く付いちょってやりたい」

「しかし……」

 しつこく食い下がろうとする部下に手の甲を振って見せ、声なく下がれと命ずる。そうされれば部下の兵は従うほかになく、すごすごと引き下がった。

 兵が下がれば今度は、病院にと借りた寺の者が近付いた。看護婆として臨時に働かせている者だ。

 激しく身を捩るためか夥しい血を含んだ晒が弛み、傷口が露わになっているのを黙々と巻き直し始める。

「婆さん、この子はどこの家の子じゃ」

 この地の者ならば知るだろうと尋ねたが、老婆も判断しかねたようで、皴深い顔を歪めて首を捻った。

 知らぬか、と一つひっそりと息を吐いたが、広田はふと考えを改めた。

 瀕死の重傷に苦しむ少年の面影は、きっと平素のそれからは遠く想像も及ばないものなのかもしれない。

 混濁した意識の中でも尚、銃をよこせと懸命に声を枯らすその姿は、一層痛ましいものだった。

 まだあどけない少年は、笑えば花も綻ぶような可憐さであろうに。

「なんと健気なことじゃ……」

 その額には、埃と血に汚れて襤褸布のようになった白木綿の鉢巻が貼り付いている。

「早う傷を治せ。元気になれば、おれの養子に来んがか。おまんのような勇敢な童は、こんなもんで死んだらいかんのじゃ」

 激痛と未だ衰えぬ戦意に苦悶する様を見守りながら、広田は懸命に声をかけ、励ました。

 だがそれは、苦悶する篤次郎の耳には一切届くことはなかった。


     ***


 敬愛する師の仇も討たずして、どうして死ねよう。

 たった一つの本懐すら遂げられずに、何が一人前の二本松藩士なのだ。

 母の字で認められた「二本松藩士、岡山篤次郎」という衣服裏の字を思い、篤次郎は魘されながら歯噛みした。

 篤次郎の重い眼裏には、見送りに立った時の凛としながらも何処か物憂げな母の姿が浮かぶ。

 初陣だ、晴れ舞台だとはしゃいで家の門を出たのは、つい昨日のことだった。

 そんな近い過去が、今は遥かに遠い日のことのように感じる。

 母は無事にしているだろうか。

 城下に敵軍が雪崩れ込むより早くに、落ち延びることが出来たのだろうか。

 もう二度と生きて会うことはない。そう覚悟を決めて家を出たはずが、今はひどく恋しかった。

 叶うならばもう一度、母に会いたい。

 母はきっと、篤次郎はもう帰らぬものと思っていることだろう。

 会えたとしても、この体たらくを目の当たりにすれば、情けないと叱りつけられるかもしれない。

 主君のために捧げた身ならば、何故潔く斬り込んで死なぬ、と。

 物心ついた頃からそう教えられ、今日まで来たのだ。

 それがあえなく敵弾を受けて斃れたと知れば、母はどう思うのだろう。

 もし再び会えたなら、母はどんな顔で迎えてくれるのだろう。

 どう思われても良い、如何に叱りつけられようと、母に会えるのならそれでも良いと思った。

 傍で語りかけていたはずの何者かの気配も、今まだそこにいるのか、いないのか。

 それすらもう、分からなくなっていた。

 誰とも知らぬ付き添い人でも、一人置き去りにされるよりは、いてくれたほうが嬉しいものなのだと痛感する。

 たった一人で自分の命の限界を迎えるのは、ひどく寂しいと思った。

 朦朧とする意識を必死に奮い立たせようとするが、抗えば抗うほどに体力は失われていった。

 ――仇を討てずとも、若先生は許してくれますか?

 ――それとも、師の首級すら手放した駄目な弟子だと叱られてしまうでしょうか?

 ――ここで力尽きても、母上は褒めてくださいますか?

 ――よくやったと、微笑んでくださいますか?

「母上……」

 声になるかならぬかという声を絞り出すと、もう何の影も見えなくなった篤次郎の瞼から一筋、涙がこぼれた。

 篤次郎のこめかみを伝い、乾いた血を含んだ朱の涙がぱたりと落ちる。

 ほんの小さなその音とともに、篤次郎の痛々しいほどに微かな鼓動が最期の一拍を打ったのだった。

 時は夕刻。

 城を焼いた黒煙が、漸く収まりかけた頃のことだった。


     ***


 その後、土佐藩士・広田弘道は遺体の身に着けた呉絽の着物に残された記名から、篤次郎の身元を知る。

 母にせがんで書き付けてもらったものが、篤次郎の言った通り役に立ったのである。

 篤次郎を懸命に看護し最期を看取った広田は、その最期に感銘を受け、反感状を贈る。

「篤次郎の勇敢な最期を遺族へよく伝えよ」

 広田は看護婆にそう言い残し、再び会津への戦に赴いていったという。


 君が為 二心なき 武士は

     命はすてよ 名は残るらん


 二本松藩士・岡山篤次郎。

 慶応四年七月二十九日、永眠。

 享年十三歳。

 篤次郎の墓碑には反感状を写した碑文が刻まれたが、幾星霜を経た現在、文字は風化著しく、指でなぞらえても読むことは出来なくなっている。



【了】

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