第37話 天才の思考は斯くして沈む

 執務室から扉を一枚隔てた魔法実験室は、太陽の光を直接取り入れることのできる窓がないため、少し薄暗い。けれど、そのくらいの方が僕は頭が冴える質なので、一人で考え事をするには好都合である。


 正面の実験台の、向かって右側に心象鏡が四つ。左には一つ。いずれもレーナ様の心象を複写したものだった。右側は解析が完了してしまったもの。左側はこれから解析を行うもの。つまり、いよいよ最後の一つというわけだ。僕は最近、ずいぶんとこの心象鏡に助けられている。


 これがなければ、特別な訓練を積んだわけでもない僕が、研究室へと忍び込んだ戦闘魔法師マギ・ウォーリアに対抗することはできなかったし、行き詰った大規模気象操作魔法の問題点を指摘することもできなかった。つまりは、ほとんどがレーナ様とお会いできたおかげなのである。


 魔法研究における大事な何かが動き出している予感がする。


 こんなことを自分で言うのはおかしいかもしれないけれど、僕とレーナ様が出会ったことは必然だったのではないだろうか。魔法使いはしばしば、この世界にはたらく何らかの巨大な因果に引っ張られて、必然的に偉業を成し遂げるのだと伝えられている。


「まあ、考えすぎかな……」

 自嘲の笑みを漏らしてから、意識を心象鏡に集中した。とたんに、ちかちかと、視界が明滅する感覚。そして強く頭を揺さぶられるような不快感。それが治まった後に、あの不思議な感覚のする、心象へ。レーナ様の構築した世界にふわりと自らの意識が降り立つのを感じる。ここ数回で、この違和感と不快感にもずいぶん慣れたものだ。


 レーナ様の心象は、僕の理論でいうところの世界の言語ユニバースで描かれているのではないか。そう疑ったのは、初めて彼女と話をした日の夜だった。ヒントはいくつか彼女の言葉のなかに紛れていたから。


 第一に、色典ホール・レコードにはその管理者がいると僕は考えている。管理者とは、大規模魔法を行使する際に稀に観測されるという報告のある人型ヒトガタだ。そしてその人型とレーナ様は言葉を交わすことができるのだという。


 そして第二に、レーナ様は自らの構築した心象で魔法を発動できたことがない。実際に彼女の心象を預かってそれを覗き見たところ、明らかな心象破綻フォーミングエラーが起きているように


 もし彼女が色典の管理者と意思疎通が可能であるとするならば、彼女は例の管理者、つまりは人型ヒトガタが認識する言語に普通の魔法使いより精通していなければならない。人型の認識する言語とはつまりは、世界の言語ユニバースだろう。


 ここから一つの仮説が成り立つ。何らかの理由で、レーナ様にとっては個の言語セルブズではなく、世界の言語ユニバースの方が認識しやすいというものだ。ゆえにレーナ様は自らの世界の解釈を、世界の言語ユニバースによって描く。世界の言語を意識的に理解することのできない僕たちは、その心象にひどい違和感を覚える。


 そしてその仮説と同時に、一つの疑問も生じる。描かれた心象が世界の言語ユニバースによるものであり、たとえ僕たちが正しく認識できないとしても、それが世界にとって正しいのであれば、どうしてレーナ様の魔法は発動しないのか、というものだ。


一旦個の言語セルブズによる記述を行うことが魔法成立の条件なのか。そうではないだろう。なぜなら、僕が直接世界の言語ユニバースのみで記述したごく基礎的な魔法は、しっかりと発動することを確認できた。グレースーツが現れたあの夜である。発動プロセス短縮の魔法は、そもそもそれを調べるための実験だった。


 ではどうして、レーナ様の魔法は成立しないのか。


「また、初めて見る景色……」

 いよいよそれらしい理屈をつけられなくなった僕は、一度ひたすらレーナ様の構築した心象を、個の言語セルブズに翻訳してみることにした。それからはこんな風に、レーナ様の心象の中を探索しては初めて見る景色を拾い集めて回っている。何をイメージしてレーナ様がその部分の心象を描いたのか後ほど照らし合わせるのだ。


 その過程で完成しつつあるのが、世界の言語ユニバース個の言語セルブズの対応表である。まだ空欄も目立つが、先ほどの魔法発動過程短縮の技術と合わせて、これは今後の魔法技術の発展において非常に役立つものになるだろう。

そして、一つ目の心象をやっとの思いで全て個の言語セルブズによる馴染みある形に翻訳し直して初めて気づいた。その心象には所々、ほんの少しだけれど、綻びがあるのだ。表現が足りない部分もあれば、過剰な部分もある。おそらく、その綻びが、魔法の発動を妨げている原因だった。


 それで気づいた。やはりレーナ様は心象を構築する時、自らの世界への解釈を直接世界の言語ユニバースで描き出している。おそらく、個の言語セルブズというより、全くのだろう。


 ところで、僕たちはこの世界の情報を、当たり前のように人間の五感を介して認識している。光の反射で視覚を、空気の波で聴覚を、受容体への化学物質の吸着で味覚や嗅覚を得ている。そして五感から得られる世界の情報というものが、世界の言語ユニバースで描く心象よりも、個の言語セルブズで描く心象に近いものだということは明らかだ。それは、僕たちが、自身の描く心象を容易に受け入れられて、レーナ様の描く心象を受け入れられないことからも分かる。


 そして、レーナ様は僕たちと同じように、五感によって世界を認識している。


 それが、原因なのではないかと思った。要するに、遠すぎるのだ。五感によって僕たちが見る景色と、世界の言語ユニバースによって描かれる世界の景色は。だから僕たちは、個の言語セルブズという表現方法で一度、世界を表現し直す。クッションを挟むようなものだ。けれどレーナ様にはそれが出来ない。


 五感で世界を認識して、直接世界の言語ユニバースによる心象を構築する。僕が先日やって見せたように、既に答えのある心象ではない。前例のない状態で、文字通りゼロから、それを組み上げようとする。遠すぎるその二つの世界の間には、どうしようもなく綻びが生じる。


 ついに、レーナ様から預かった最後の心象の解析を終えようとしていた。これが終われば、いよいよ例の対応表が完成する。それを用いれば、レーナ様も次第に個の言語セルブズを認識できるようになるだろう。


 柄にもなく、少しわくわくしていた。彼女は僕の研究にとって、とても重要なピースだった。十分に理解してもらえるかは分からないけれど、この研究成果は一番に彼女に伝えたい。自らの構築した心象による魔法が発動する喜びを感じてもらいたい。


 そしてあわよくば――。


 これからもずっと、彼女には、僕の研究を傍で見守ってほしい。


 すっと意識を心象鏡から切り離すと、とたんに僕は見慣れた研究室の光景に引き戻される。少し集中しすぎたようだ。喉が渇いていた。


 今日もレーナ様は研究室に来ているだろうか。来ていたとしたら初めに何を話そうか。そんなことを考えながら、僕は薄暗い実験室を後にした。

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