第38話 破棄された約束

 執務室に戻ろうと廊下に出てすぐに、僕は違和感を覚えた。


「なんか、焦げ臭い……??」

 僕が普段自室で火を使うようなことはめったにないから、もしかすると、レーナ様がキッチンで何かしているのだろうか。扉を開けてすぐ、僕は視線の先に予想通りの人の姿を見つける。ソファにちょこんと腰かけている、その横顔だ。少しうつむいて、テーブルの一点を見つめているようだった。何をしているわけでもない。けれど、僕が部屋に入っても何も反応しないあたり、余程集中しているようだった。


「レーナ様?」


「…………」 

 反応がない。無視しているというより、本当に気づいていないといった様子。僕はさらに彼女に近づいて、そっと、その華奢な肩に手を触れた。


「レーナ様!」


「ハ、はイッ」

 その瞬間、ぴくんとレーナ様の身体が震える。相当に驚いた様子で、こちらに顔を向けたレーナ様と、ばちりと目が合ってしまった。何度見ても、綺麗な、こちらの思考を一時停止させてしまう、夜空のような深い青をたたえる瞳。


「レ、レイフ、さま!? え……」

 しかし今は、僕よりレーナ様の方がいくらか動揺が激しいようだった。


「『え?』ではなく。どうかされたんですか? ぼうっとしているように見えましたが」


「あっ、いえ。ぼうっとしていたと言うか、少し考え事を……」


「大丈夫、ですか? それと、少しキッチンの方が焦げ臭いような」


「へッ? キッチン、ですか?」


「ええ。向こうの方が」

 二人同時にそちらに顔を向けると、ちょうど薄灰色の煙が登り始めたところだった。


「あっ……。あぁあああああああああああああ!!」

 一秒後、頓狂なレーナ様の声が僕の研究室に響いた。


*****


「本当にごめんなさい……。スープを火にかけていたんです。もうよい時間だったので、レイフ様が一段落したらお出ししようと思って」

 実験室に籠っている間に、すっかり日は落ち、時刻は午後七時を回っていた。ひどく申し訳なさそうな顔で、レーナ様が説明する。それが、逆に僕を恐縮させた。


「そんなに謝らないでください。大事にはならなかったようですし」


「いえ……。レイフ様がお優しいのをいいことに、いつも勝手にここの台所を使っていましたから。今日はお鍋を一つダメにしてしまって」

 どうしてか、何かを懐かしむような表情に見えた。キッチンの隅には、すっかり焦げ付いてしまって、もう使えないだろう鍋が。けれど、小火が出たりはしていない。レーナ様が作ってくれる料理がダメになってしまったのが一番の損害だろうか。


「あの、これだけははっきり言っておきますが、僕はレーナ様が勝手にやってきて、好き放題しているなどとは思っていませんからね? レーナ様が来てくださるおかげで僕はずいぶん助かっていますし」


「たすかって……?」


「はい。とても規則正しい生活になりましたし。そうすると頭も以前より回る気がします。その……たまに食事を用意してくださるのも。申し訳ないとは思いつつ、そのおかげで研究にも没頭できて、作業もとてもはかどっています」


「没頭……。はかどって……。……ほんとうに?」


「レーナ様に、嘘はつきません。いつも、ありがとうございます」


「嘘はつかない……。そうですか……。ふふ。なら、良かった、ということですね」

 彼女にしては珍しく、少し照れたような笑顔を見せた。どきりとする。あの夜から。レーナ様の泣き顔を見たあの時から、僕は彼女のふとした仕草にすぐに心を奪われてしまう自分を自覚していた。そんな彼女と、今そもそも話ができているということに、僕は顔が緩みそうになるのを必死にこらえて、聞いておかなければいければいけないことを口にする。


「それはそうと、今日は何かあったのですか? 先ほど考え事をしていたとおっしゃったときのレーナ様はどこか深刻な表情で」

 すると途端に、レーナ様の表情が再び曇ってしまった。聞かれたくないことだったのだろうか。けれど、もしそうだとしても、僕はもう彼女に対して、一歩踏み込むことを決めてしまっている。それは、レーナ様の魔法の問題に僕が首を突っ込んだ時に決めた覚悟だ。


「えっと、それは」


「何かあったのなら、話してください? 僕はいつもレーナ様に助けられてばかりなので、出来る時にお礼をしておかないといけません」

 するとレーナ様は何かを訴えるような瞳を僕に向けてきた。


「……いいんでしょうか? 全部お話してしまっても……」

 その表情はどうしてか、怯えているようだった。今にも泣きだしそうでもある。決定的に訪れる何らかの恐怖を予感しているような。


「当然です。何かお力になれることがあるなら、手助けしたいと思いますし、それに、その……。もしよろしければ、レーナ様の方も、これからもずっと僕の研究室に来ていただけると」

 さらに心配になった僕は、言葉を加える。


「これからも……。その、それは……。これからずっとということですよね?」


「ええ。レーナ様さえよろしければ、ですが」

 その瞬間、彼女は一瞬だけ何か痛みに耐えるような表情を見せた気がした。


「エイノ様にも、先日同じようなことを言われました。これからも末永く、レイフ様とは仲良くしてほしいと。私も、その時は同じように思ったのですよ? これからもずっと、レイフ様とは良い関係を築いていきたと」


「……エイノめ、僕のいないところでなんて恥ずかしいことを」

 僕の口からこぼれた愚痴を聞いて、レーナ様が控えめな笑みを見せる。だから、話してくれると思った。このまま、少し、リラックスした雰囲気で、何かを彼女が思い悩んでいるのであれば、僕に打ち明けてくれるだろうと。


「でもやっぱり、先ほどのことは忘れてください」


「え……?」

 けれど、唐突に返ったのは全く予期しなかった言葉。


「ですから、先ほど、私の様子がおかしかったことはどうかご放念ください。と、いうより、そこまでおかしかったでしょうか? こう見えて、私は少し抜けているところもあるんです。うっかり鍋を焦がしてしまうのも決して珍しいことではありません」

 明らかに、取ってつけたような言い訳だった。


「ですがっ……。先ほどは、ただうっかりしているというよりは、明らかに何か思い悩んでいるようなお顔を」

 動揺した僕の声が少し大きくなる。


「レイフ様、私は何かに思い悩んだりはしていませんでした」

 けれど、もう一度、噛んで含めるようにレーナ様はゆっくりと告げる。納得できなかった僕は柄にもなく、もう一度レーナ様に尋ねた。


「では、先ほど、ソファで、レーナ様は何をされていたんですか? 何かを気にして、僕の声も聞こえていないようでした」

 まっすぐに、レーナ様の瞳を見据える。しばらくは彼女も対抗してこちらを見つめ返していたけれど、先に根を上げたのは彼女の方だった。ふい、とその視線が明後日の方向を向く。


「ですから、考え事です。大したことではない、ただの考え事だったんです」


「どういった内容ですか?」


「それをレイフ様にお伝えしなければならない理由がありますか?」

 素っ気ない返事。それを言われると弱い。けれど、ここで引き下がってはいけないような気がした。


「ありません……。でも」


「でも?」


「僕は知りたいと思っています」


「……っ」

 また、レーナ様が逃げるように視線を反らす。


「少し、よく私の身の回りのことをしてくれる侍女のことを考えていただけです。魔法学校で研究の難しい課題を出されたらしくて。それに苦労しているようだったので」


「それは、本当ですか?」

 尋ねたけれど、レーナ様はもう目を合わせてくれなかった。


「……本当です」


「でしたら、少し知恵をお貸ししましょうか?」

 だから、彼女に本当だと言われてしまえば、もう僕には手札がなかった。そこから先の会話は、どこか上滑りしたようなものになる。

「魔法研究の内容であれば、少しは力になれるかと……」


「レイフ様」

 しかし、それもレーナ様の声に遮られる。


「それは、彼女の課題ですから。彼女自ら頑張ってくれるでしょう」


「それはそうかも、しれませんが……」

 いよいよ僕が次の言葉を思いつかなくなって、数秒間無言の時間が研究室に落ちた。そんな中、レーナ様が徐に口を開く。


「少し、近づきすぎたのかもしれませんね……」


「え……?」


「今日のように優しくしてくださるレイフ様に、私はいつも甘えてしまいます」


「甘えるなんて、そんな。それを言うなら、僕のほうだってレーナ様の優しさに……」


「だったらやっぱり、近づきすぎたのだと思います。互いに甘えていると言うならなおのこと」


「どうして急に、そんな……」

 そこまで言って、レーナ様はすくりと立ち上がった。僕に背中を向けたまま、ぽつりとつぶやくように告げる。


「少し、ここへ来る頻度を減らそうと思っています」


「どういう、ことですか?」

 本当に、僕には状況が分からなかった。僕が何か、レーナ様の気に障ることをしたのだろうか。


「言葉通りの意味ですよ。今日ははじめから、それをお伝えしようと思って来たんです」


「はじめから?」


「はい。はじめから」


「どうして……」

 彼女の真意がつかめない僕はもう、そのまま疑問を口にするしかなかった。少し声がかすれているのが分かる。そして、レーナ様の声も、心なしか震えていた気がした。多分互いに、もうまともに互いの言葉を聞けていなかったと思う。


「それから、先日のお約束ですが。あれも、止めにしましょうか?」


「や、約束、というのは?」

 約束。その言葉を聞いた時、僕にはなんとなしに心当たりがあったのだけど、それでも僕は尋ね返した。なぜなら、その約束は。


 絶対にたがえないと、彼女自身がそう告げたものだ。


 だから、自分から、それをなかったことになどしてほしくなかった。


「生誕祭翌日のお祭りのことです。やっぱり、こっそり王宮を抜け出すのはよくありません。やめにしましょうか」

 けれど、結局彼女が口にしたのは僕が思っていた通りの内容。彼女の背中しか見えない僕は、今レーナ様がどんな表情をしているのか分からないけど、その小さい背中が小刻みに震えていることは確認できる。


「言っておきたかったのはそれだけです。今日はもう、戻りますね!」

 そして、誰が見ても無理をしていると分かる不自然な声音。


「レーナ様!?」

 結局一度も僕に顔を見せてくれないまま速足でレーナ様が研究室の扉をくぐる。


「どうしてですか!? せめて、理由を聞かせてください」

 カツカツと、ピッチの早い靴音がどんどんと遠ざかる。無理にでも追いかけて、手を引いたところで、何かが変わるような予感はなかった。魔法研究以外には何のとりえもない僕には、こんな時、どうしていいか分からない。呆然とその姿を見つめることしかできない。


「理由は先ほどお話したでしょう? 少し近づきすぎたんです。どうせ、ずっとはいっしょにいられないのに」

 辛うじて聞き取れた最後の言葉がそれだった。彼女の姿が完全に見えなくなってしまう直前、ちらりとだけレーナ様がこちらを向いた。その瞳には、いつもの深い青の輝きはなく。頬には光を反射して輝く何かが一筋、軌跡を描いているのが見えた。

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