第36話 恵みの雨と消えない炎・2

 僕たちの周囲をいつの間にか、薄い霧が包み始めていた。肌寒さも感じる。気温が少しだけ落ちているのだ。空気中の水分が飽和し、行き場を失った水分子が、魔法によって巻き上げられた極小の土壌粒子を核に凝集する。


「もとよりそのつもりです」

 地上から僅か十メートル。僕たちの目には見えないけれど、今頃、指定した空間中では分子運動のコントロールにより急激に大気圧が下がっていることだろう。と、同時に、今度は僕たちにも感じられる柔らかな上昇気流アップドラフト。周囲を満たしていた霧が、伴ってふわりと上昇した。


「これ……は……」

 セルベル博士の口から言葉が漏れる。状況がつかめていないようだけれど、これらは全て、彼女がこれまで丁寧に作りこんできた気象操作のプロセスそのものだった。雨雲の種となる雲粒うんりゅうを、地上で作って大気中に巻き上げる。大胆な発想だけど、細やかな技術が複雑に絡み合ってその実現に至っている。魔法使いであれば、感覚的に理解する魔法の作動過程も、今僕の瞳に移っている目の前の光景も、どこか幻想的でとても綺麗なものだった。そう。彼女の定義した心象は実に美しく秩序だっている。


「少し離れましょう。ここにはもうすぐ、雨が降ります」

 戸惑いの表情のまま、セルベル博士は差し出した僕の手を取った。その手を引いたと同時、ぽつりと彼女の頬に水滴が落ちる。


「あっ……」

 セルベル博士が自らの指で頬に触れる。たしかな水分をその指で感じたはずだ。そして、初めは、ぽたぽたと。やがて、ザァザァと。開けた草原の芝を、したたかに打つ水の音が広がった。


「どうやら、再現性もとれたようですね」

 しばし無言でその光景を眺めていたセルベル博士が口を開く。


「どうして」

 言葉足らずだ。けれど、その気持ちは同じ研究員である僕には痛いほど伝わった。自分がずっと研究してきた魔法。間違いなく破綻なく心象を組み上げた。それが成立しない。何を見落としたのか。路頭に迷った末、他の魔法使いに助けを求める。複雑な心境だろう。魔法は成立させたいけれど、誰かがあっさりそれを完成させてしまったら……。


 もちろん僕はこの魔法をあっさり成立させたわけではない。『世界の言語』の翻訳作業は困難を極めた。けれど、それはセルベル博士にとって知ったことではない。彼女がこれまでこの魔法に費やしてきた時間に比べれば、僕が関わった時間など、ほんの僅かだ。ともすれば、あっさり、と表現してしまってもいいのかもしれない。


 そして最後に残ったはずだ。そもそも自分の構築した心象は破綻していたのか、そうでないのか。どうして自分は見落としたのか。どうして、自分以外の誰かは見落とさなかったのか。どうして、それを完成させたのが自分ではなかったのか。そんな疑問。


「アイブライト王朝は、こんな異常気象でもない限りとても雨の多い国ですよね」

 魔法研究は難しい仕事だ。一の成果を出すために少なくとも五つは失敗をする。だから僕たちは失敗に強いとは言え、たまにはつらくなる時があるのだ。僕は慎重に言葉を選んだ。


「……急にまた、何を言い出すの?」


「雨に対する表現方法の違いのお話です。雨の多い地域に住む僕たちは、ただの雨ひとつにいろいろな表現方法を持っています。小雨だとか大雨だとか、霧雨だとかみぞれだとか。狐の嫁入りなんてのもあります」


「それが、どうしたって言うのよ」


「その影響かセルベル博士の構築した気象操作魔法の心象には、非常に詳細に雨の強さを定義する部分がありました」

 何かを思い返すように、セルベル博士は顎に手をあてがった。


「それは……。雨は時に必要とされるけれど、場合によっては甚大な災害となり得ることを知っていたからよ。そもそも人の生活を助けるために降らせる雨が、万が一にも災害に発展しないように、雨量の調整には細心の注意を払って規模を決めたわ」


「そうだろうと思いました。ですが、最近僕が解析し始めた『世界の言語ユニバース』に、雨の規模を定義する言葉はそれほど多くありません」


「えっ……?」

 戸惑ったようにセルベル博士が動きを止めた。


「僕たちが普通にイメージするような言葉で雨を表現できないということです。セルベル博士が雨量を調節するつもりでイメージした、僕たちにとってごく当たり前の言葉が、『世界の言語ユニバース』に翻訳した際の異物として、色典ホールレコードに認識されていたのだと思います」


「つまり、それは……」


「僕の仮説において、これこそが、明確な翻訳齟齬コンパイル・エラーです。少なくとも、僕たちの認識において、貴方の構築した心象に破綻はありませんでした」


「これが翻訳、齟齬……」

 その言葉を咀嚼するように、セルベル博士は黙り込んでしまった。僕は苦笑いを浮かべる。


「もっとも、複記述マルチグラマー仮説を信じない博士にこんな話をしても困るだけかもしれませんが」

 さらに数秒沈黙を貫いてから、顔を上げたセルベル博士は、はぁーっと盛大なため息をついた。


「今までどうやっても上手くいかなかった魔法が、その仮説に基づいた原因究明を行った結果、間もなく成立した……。これはもう、信じるしかないでしょう」

 その言葉に、僕はほっと胸を撫でおろす。


「そうですか……。そうだと、僕としては嬉しいですね。まだ事例数が足りていないとは思いますが」

 ザァザァと激しい音を立てていた雨が、次第にぽたぽたと。降り始めとは逆の過程を辿るように途切れ始めて、やがて最後の一滴が芝で弾ける。人為的な雲が失われて、すぐさま顔を出した太陽の光に水滴が反射して、ほんの小さな虹が出ていた。


「私は……。私は、間違っては、いなかったのね」

 ぽろりとこぼれたのは、どこかすっきりしたようなセルベル博士の独り言。


「はい。これで何とか、期日までに大規模気象操作を実現できそうな目途は立ちましたか?」

 何かを口にしかけて迷った末、セルベル博士はそれを飲み込んだようだった。


「ええ。これならなんとかなりそう。破綻を見つけるだけでいいと言ったのに、誰かさんが魔法の動作確認までしてくださったおかげでね」

 そして、代わりに返って来たのは、たっぷり不満を滲ませた視線と言葉。


「そ、その点については、迷ったんですよ。ですが、魔法不成立の原因と、僕の研究分野があまりにもマッチしていたといいますか……」


「あなたの研究分野と言っても、最近取り組み始めたばかりなのよね? それを普通、数か月で魔法開発の実用ベースにまで押し上げる? 魔法学校にも通っていなか

ったくせに、あなたもしかして本物の天才なの?」


「そんなっ! 魔法学校を首席で卒業された博士には適うはずもありません」

 ちっ、と小さく舌打ちが聞こえた気がした。


「その謙遜……。やっぱりあなたは腹立たしいわね」


「謙遜なんかじゃ……」


「痛いほど分かっているのよ。この魔法研に所属してから、私程度の才能が珍しいものでもなんでもないということくらい。……あなたのせいもあってね」

戸惑う僕に向かって彼女は一つ息を吐く。ここ数日で何度か見た、セルベル博士の寂し気な瞳。決して絶望はしていないけれど、何かを諦めてしまったような。

「張り合っていた私が馬鹿みたい。きっとあなたには、常に私には見えない何かが見えているのね」


 彼女が見せるこの表情が、僕はあまり好きではなかった。同期でありながら、ほとんど言葉も交わしていない彼女だけど、僕はきっと、どこかで彼女に親近感を抱いていた。表面に現れる態度は正反対でも、心の内では自らの魔法への理解が絶対的に正しいのだと、ともすれば傲慢な心意気。それが共通しているような感覚。


「それは違います!」


「えっ……」

 それを否定された気がして、自分が思っていたよりも大きな声が出た。戸惑ったセルベル博士がしばしばと瞼を上下させている。


「あっ……。いや、えっと。違う、と言いますか。僕にしか見えていないものがあるのは確かかもしれませんが、きっとセルベル博士にしか見えていないものもあるはずなんです」


「……私に、しか?」


「はい。セルベル博士」

 僕は正面からセルベル博士に向き合って、その両肩に自分の両手を置く。


「なっ、なによ。急に改まって」


「今回僕は確かに、この気象操作の問題を解決しました。ですが、規模拡大スケールアップはどうやったって僕にはできません。ここから先は、セルベル博士の仕事です」

 真っすぐに彼女の顔を見ながら告げる。髪と同じ、燃えるような赤の瞳がしばし逡巡に揺れたのち、ふいとこちらから反らされてしまった。


「そ、そんなこと貴方にいわれなくても分かってるわ」


「後のことは、お願いしますよ?」

 念押しするように繰り返す僕の右手を彼女はパッと払いのける。


「いっちょ前に年上の私を励ましているつもり? 必要ないのよ。そんな気遣い」


「す、すみません……」

 頭を下げた僕を一瞥して、彼女は踵を返す。けれど、数歩進んだところでその歩みがぴたりと止まった。


「それから、その『セルベル博士』ってよそよそしい呼び方。前から違和感があったの。これからは、ファーストネームで呼ぶようにしなさい」

 それだけ言って、すたすたとセルベル博士は……。いや、アンネさんは歩みを再開する。やっぱり彼女は、それで多少とっつきにくくなるとしても、あれくらい強気な方が魅力的だ。遠ざかっていく背中を見ながら、僕は、そんなことを考えていた。

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