第33話 王族の義務、不本意な履行・1

 濡れ羽色の、黒髪黒目の少年の顔がすぐ目の前にあった。華奢なように見えて意外としっかりとした右腕に私の肩は支えられている。鼻先が触れ合いそうだ。互いの吐息さえ感じられる。けれど私の方には一切の不快感がない。むしろ、このまま――。


 ぱちりと、目を開けるといつもの見慣れた天幕が見えた。ソフィアがまだ起こしに来ていないところ見ると、予定時刻よりは少し早いらしい。昨夜眠りについたのはいつもより遅めの時間帯だったけれど、心身ともに私は疲れ切っていた。それが逆に、良質な睡眠をもたらしたのかもしれない。


「随分な夢……」

 もう少し寝ていてもいいのだろうけど、とてもそんな気分にはなれない。起き抜けの回らない頭でも理解できる。これはもう間違いようがない。


 だってあそこで、夢が覚めなければ私は何をしていた?


 さらに質の悪いことに、あの夢はどうやら現実ベースだったみたいだ。似たようなシチュエーションを体験したことはまだ記憶に新しい。あの時私は、いったいどういうつもりで、レイフ様の前で目を瞑ったというのだ。


 もしあの時、エイノ様が研究室を訪れていなかったら?


 あれでは、あのままレイフ様に何をされていたとしても文句は言えなない。いや、言うつもりなど、端からなかったのだろうけど。


 私はいつもつまらない身分のしがらみに手足をがんじがらめにされて、自由に動き回れないままでいる。それを嘆きつつも、拘束を引きちぎってでも自由を獲得しに行くような、冒険家でもない。中途半端にいい子なのだ。私は自分が生まれた環境があまり好きではかったけれど、独力でどこへも飛び立っていけない自分の思い切りのなさも、同じくらい好きではなかった。


 どうせぐずぐず余計なことを考えて、いつもみたいに、また何も欲しいものが手に入らないなら、このまま流れに身を任せてみるのもいいのかもしれない。何も考えずに、うやむやなままにしていれば、あの人は……。いつかあの人なら連れて行ってくれる気がする。


「はっ……いやいやいや」

 そこまで考えて、私はふるふるとかぶりを振った。肩の少し下まで伸ばした私の髪が遠心力で大きく左右に広がる。少し動きの遅れた毛先が視界に入る。朝の光を受けて輝くその銀色が、証明していた。

私は王族だ。


 それも、魔法の才にもまつりごとの才にも恵まれなかった、女性の末の子。私が王族として国から受ける優遇に釣り合うだけの義務を返すために、やらなければいけないことは決まっている。


 そんな私がひっそりと想いを寄せているくらいならまだしも、それを打ち明けてどうにかなろうなど、無責任にも程がある。レイフ様はお優しい。私が想いを寄せた分だけ、温かいものを返してくださる。おこがましいようだけど、嫌われては、いないと思う。たまに、彼からの信頼や好意を感じられることもここ最近は増えてきた。けれど、これから私がどれだけの想いをレイフ様に寄せて、彼も私に同じだけのものを返してくれて、それで万一、彼が私のことを好きになってくれたとしても。その時私が彼のことを変わらず好きでいても。お互い、実りあるものは何も得られないのだから。


 私はいつか、義務を果たさなければならない。それを理解して、それでも束の間の楽しみを得ようとしている私はまだしも、何も知らないレイフ様をそれに巻き込むのはどう考えても理不尽だ。

もう一度、肩にかかった銀の髪にそっと触れる。


「これも、綺麗だって言ってくださったのよね」

 思い出す。明らかにレイフ様は何も意識していなかったけど、私はとても嬉しかった。その時の光景を思い出し、物思いにふけりそうになって、はっとする。また……。思考がいけない方向に振れていた。


「これ以上は、正直良くないわね。あまり頻繁にお部屋にお邪魔するのも」

 それを必死に、正常な状態へと引き戻そうとする。


「でも、悪いのは私だけかしら……?」

 ほんの少し、不満のこもった独り言。いつも彼は、的確に私の心を見抜くのだ。


「デ、デートのお誘いをくださったり……」

 私が外の景色を見てみたいというのを察して、私のために外に出る準備をしてくれているらしい。


「ピンチの時に颯爽といらして助けてくださったり……」

 私は昨夜初めて自らの命の危機を感じた。そして、彼に助けられた。感謝をしないわけがない。それが彼への好意につながることも、全くもって不自然ではないはずだ。


 隠れた才能も見せつけられた。あんな風に緊迫した場面でも頼りになる方だったのだ。レイフ様が魔法研究において、非凡な才能をお持ちなのはもちろん知っていた。けれど、魔法戦闘もあれだけこなせるなんて。


「泣いている時は、胸を貸してくださった」

 彼の温かさを感じた。レイフ様の優しさが、そのまま体温となって流れ込んでくるような。


「……やっぱり、私だけのせいではなさそうね」

 そもそも、私に優しくしすぎだ。基本的な魔法の能力も秀ですぎている。見た目だって、ちょっとだらしないところはあるけれど、それなりの恰好をすれば……。


「あああぁぁぁぁ……」

 ばふばふと、私は掛布団を両手で叩いていた。自分の心を全くと言っていいほどコントロールできていない。それもこれも、全部あの人のせいだ。


「やっぱり、レイフ様が悪い!!」

 声に出してみる。


「レイフ様が悪い!!」

 もう一度。


 そして決めた。まだ、出会ってほんの少ししか経っていないではないか。これから私たちが、互いにそういう気持ちになれるかもわからないのだ。それなら、もう少し。もう少しだけ、今の関係を楽しんでも。束の間、王族の義務など度外視して今を楽しんでも罰は当たらないのではないか。


「レーナ様ぁ~。そろそろお時間ですよぉ」


「へぁっ!!」

 ちょうどそのタイミングで、間の抜けたソフィアの声がして、私はびくりと身を震わせた。


「レ、レーナ様? だいじょうぶですか? ずいぶん驚かれたようで」


「なっ……なんでもないわ」


「レーナ様?」

 ふいと、狼狽した顔を隠した私に、じっと、邪気のない瞳をソフィアが向けている。


「…………あなたが部屋に入ってくるとき、私が何か言っているのを聞いたかしら?」

 すると、ソフィアははたと首を傾げて、それからかぶりをふった。


「いいえ。何も。レーナ様、何かされていたのですか?」

 どうやら最悪の事態は避けられたらしい。


「聞いていないならいいの。今のは忘れてちょうだい」


「えっ? でも……」


「いいから、わ、す、れ、て!」


「は、はぁ……」

 しばし戸惑った様子だったが、ソフィアはやがて思い出したように口を開いた。


「あっ!! そんなことよりレーナ様、はやく支度をしてしまいましょう。申し訳ありませんが、少し急いでください」

 はたと、今度は私が首を傾げる番だった。


「今朝は、何か執務が入っていたかしら?」


「いいえ。ですから、今日は朝に余裕があると思っていたのですが、先ほど国王様よりご連絡がありまして! レーナ様とお話があるようです」

 私は、驚いた顔を見せた。お父様が私に臨時の用事というのはめったにないことなのだ。


「国王が? いったいどうしたのかしら?」

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