王女様のいる日常
第12話 王女様のちょっとした悪戯
何だったんだ、あれは……。
どうか、お気になさらず。そう言って、豪奢なスカートの両端をつまみ上げ、優雅に一礼する。その時浮かべられた表情も、綺麗に流れた銀髪も、身にまとっていた空気も、その全部が、脳裏に張り付いて忘れられない。
レーナ様の膝枕での仮眠は、それはそれはえもいわれぬ心地よさだったけれど(不謹慎)、数年に渡る激務で蓄積した疲労はたった数時間の仮眠などで解消されるわけもなく。僕はあの美しい第五王女様と邂逅を果たした翌朝、いつまでもベッドを抜け出せないでいた。のっそりと近づいてくる眠気に身を任せれば、うとうととすぐに意識を手放しかけて、その度にレーナ様のお姿が脳裏に浮かぶ。要は、あの方のことが頭から離れなくなっていた。
枕元の時計に目をやれば時刻は既に、午前九時を過ぎようとしている。
「さすがにそろそろ起き出さないとマズいよなぁ」
緩慢な動作でベッドから抜け出して、見慣れた研究室の紙束に何度か足を引っかけながら、寝室を出た。エイノに拾われてここアイブライト朝の王立魔法研究所で働くようになる前、僕はまともな住居を持っていなかったから、なんとなく新しい部屋を借りる気にもなれず、研究室に寝泊まりする日々だ。そもそも簡単なキッチンや寝室、シャワー室までもが併設されているから、生活で困るようなことはほとんどない。
同僚には、研究バカって罵られるけどね……。
そんなことを考えながら、いつものように朝の紅茶を入れようと執務室にまで出て来て、僕はぎょっとする。視線の先では、連絡用の水晶が、チカチカと黄緑色の光を点滅させていた。
また
『レ、レイフ様? もう起きていらっしゃるのでは? 先ほど何か物音が聞こえました』
そして、まだ開ききっていない両目を右手で擦っていたところで、そんな声が聞こえて、ばちんと脳が覚醒する。
「え!? もしかしてレーナ様!?」
思わず言葉が漏れて、僕は慌てて口を覆う。確かに昨日、今日もここを訪れるという話をしたけれど、いくらなんでも、朝九時は早すぎる。
『あ、やっぱり。起きていらっしゃるのですね?』
この通信用の水晶はとても便利だけれど、一度
「は、はい。どうされたんですか? こんな朝早くに」
『どうかしたのかって……昨日、明日も来ますと伝えたではないですか。入りますよ?』
「ちょ、ちょっと待ってください!!」
身の危険を感じた僕は、咄嗟に出入り口の扉の元まで走った。勢いそのままに、スライドドアを右手で押さえつける。
『あれ? 扉が、硬い……?』
そしてレーナ様が戸惑っている間に、僕は瞬時に心象を構築していた。石のように重い扉のイメージ。ついでに、ドアとその接地面との間の摩擦係数を可能な限り極大まで引き上げる。よし、これで身体が自由になった。
『あの、レイフ様。扉が重いのですが? そちらから開けていただくことはできますか?』
「あっ……、え、いや。そんなはずは」
答えながら僕は、床に散乱している紙束を、片端から寝室へと放り込む。昨日は突然の訪問だから仕方なかったとは言え、今日はまた話が違う。しっかり彼女をお出迎えする約束まで取り付けてしまっているのに、この有様の研究室を披露するのは、どう考えたっていただけない。
『レイフ様? もしかして扉が壊れているんですか?』
「あっ、ああ。実はそんな感じです。ちょっと以前から立て付けがよろしくなくて」
けれど、ひとまず出入り口付近を片付けて、顔を上げたところで僕は絶望する。目の前には、見慣れた光景。床から、チェアから、デスクからすっかり紙束に埋もれてしまった広大な研究室が広がっている。
『昨日は驚くほど簡単に開いたのですが?』
「うっ……」
その場しのぎでつまらない嘘をつくんじゃなかった。
『レイフ様……。内側から何かされていますね? 私が入れないように』
「あっ……、いや、そのですね。これは……」
『レ・イ・フ・さ・ま?』
水晶越しにでもその謎のプレッシャーが伝わって、僕はごまかすことを諦める。とぼとぼと水晶まで近づいて、口を開いた。
「あの、レーナ様。僕は昨日、確かにいつでもいらしてくださいと言いました」
『はい』
「ですが、その。一応こちらにも、お出迎えの準備というものがありまして。ほんの少し、一時間程度でかまいませんので、改めて後ほど来ていただくわけにはいきませんか?」
出来る限り神妙な声音を心掛けた。王族を待たせるのは正直考えられない行為だけれど、あの、僕の過失を何度も不問に付してくれた寛大なレーナ様なら聞き入れてくれるだろう。そんな甘い考えの下。しかし――。
『それは、できまぁ……せん!!』
「なんでっ!?」
どうしてかおどけた口調でそんな風に告げた王女様に、僕は思わずエイノにやるみたいに声を大きくして突っ込んでしまった。
『だって、そんなことをすれば、レイフ様は綺麗にお部屋を片付けてしまわれるでしょう?』
「そ、それのどこがダメなんですかぁ~」
『いいから、ひとまず扉を開けてください。話はそれからでいいではありませんか』
「全然質問に答えてくれない……」
まさかレーナ様がこんなに強引な人だとは知らなかった。まるで昨日とは別人である。
『レイフ様、どうかお願いします。それに、早く私を中に入れないと、レイフ様も困るのではありませんか?』
「ぼ、僕がですか? いったいどうして?」
『そろそろ、ごたごたを聞きつけて、誰か別の研究員が様子を見に来てもいいころです』
その発言に、僕はさっと、顔から血の気が引いていくのが分かった。一介の研究員である僕などが、王族を自室に呼び出していたとなれば、流石にその経緯を問い詰められておかしくはない。真実は、レーナ様が自らの意思でここへ足を運んでいるとは言え、僕の態度を尊大だと批判する者も出るだろうし、そもそもレーナ様の証言次第で、僕は犯罪者にでもでっち上げられそうな気がする。この人に悪意がないと信じたいところではあるけれども……。
「あの、本当に、一度自室にお帰りいただくことは?」
『あっ、今廊下の奥の方から、なにやら人の話し声が聞こえてきましたね』
「ちょ……。分かりました!! 今開けますから、すぐに入ってきてください」
言うが早いか、僕は扉にかけた魔法を解いていた。同時に、スライドドアが開いて、銀髪の美しい少女が姿を現す。
「おはようございます。レイフ様」
慌てた僕と対照的にレーナ様は優雅に一礼。その仕草とともに浮かべた笑顔に、時と場所を選ばない僕の心臓は不覚にもどきりと跳ねてしまう。
「お、おはようございますって」
けれど、その後ろには、当然のように誰もいない廊下が研究棟の付き辺りまで伸びていて、今はとにかく、それを指摘せずにはいられない。
「僕をからかわないでくださいよ……」
「だって、こうでもしないと、レイフ様お部屋に入れてくださらなかったでしょう?」
悪戯の成功した子供みたいにくすくすと笑って、レーナ様はぐるりと僕の部屋を見渡す。
デスクに散乱した筆記具。沸かしかけの紅茶。昨日と同じく、紙束に埋もれた執務室。極めつけは、起き抜け、乱れた寝間着に、眠気の抜けきらない目元。寝ぐせだらけの頭で大事なお客様を迎えた僕自身である。それらを全部視界に収めてからもう一度、レーナ様はくすりと、無邪気な笑みを見せた。
「レイフ様は、意外にかわいらしいところもあるのですね。貴重なものを拝見しました」
「だ、だから、今は部屋に入ってほしくなかったんですよ」
力ない僕の声は空しく響くばかりである。
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