Thorntail

「もう一周しろ」

 高城が言うと、戸田が耳から聞いたまま手に伝えるように、ハンドルを回した。巨大な送電塔の真下を周回する雑草だらけの道路。高城は、空を見上げた。空気自体が電気を帯びているように、頭がくらくらする。三十秒前に見たばかりの景色が繰り返される。高圧注意の看板も、折れ曲がって横たわった廃車の原付も、二度と見たくない。しかし、仕事は終わっていない。戸田が一速でゆっくりとシルビアを進めるのに合わせて、高木は再び窓を下ろした。戸田が質問するより先に、その答えを言った。

「もうひとりいた」

 路上駐車された白のセルシオ。その窓は全て割れている。高城は、助手席から三八口径のイングラムを突き出した。ついさっき二十発近く吐き出したばかりのサプレッサーからは、まだ細い煙が上がっている。運転席でシートベルトに引っかかっているのは、弾を食らったばかりで体のあちこちから血を流し続けている死体。その後ろで影が動いた。高城は体をできるだけ突き出して、引き金を引いた。影絵のようなもうひとりは、リアシートと一緒に蜂の巣になった。高城はシートに再び体を預けた。車から降りるのだけは、ごめんだった。戸田は、おれのことを待っていないだろうから。

「二人いたって、誰に言えばいいんです?」

 そう言う戸田は、神経質な手つきでハンドルを回し、ヘッドライトを点けるのと同時にアクセルを踏み込んだ。雑草と砂利を踏んだリアが一瞬外に膨らみ、高城はドアグリップを掴んだ。

「お前、ぶつけてみろ」

「すみません」

 最終型のターボ仕様は、二五〇馬力を全て後輪に伝える。前輪駆動に慣れた戸田からすれば、扱いづらいだろう。そう思った高城が何気なく送電塔を振り返ったとき、垂れ下がってきたみたいな雲の中で稲光が走った。深夜一時。予報はこれから朝方まで猛烈な雨。戸田はシフトゲージの隙間に挟まった三八〇ACPの薬莢をつまみ上げると、ドアポケットの中に置いた。

「薬莢、どうしますか」

「その辺は、カラスがやってくれるよ」

 高城と戸田は、意味を問うことなく人を殺せるよう、様々な『教育』を受けた。高城の初仕事は十七歳のときで、七年続いている。二年前から組んでいる戸田は二歳年下で、高城はその経歴については詳しく知らなかった。ただ、若手同士が仕事で組むのは、珍しいことだった。

『お前、向いてるよ。自信を持て』

 銃のどこを持てばいいか、そんな基本的なことから教えてくれた、福住の言葉。高城は、頭の中でその言葉を繰り返した。認めてもらえたのは有難いが、その福住は去年、仕事終わりに心臓発作で死んだ。単独行動が好きで、まとめて『モズ』と呼ばれることを嫌っていた。イングラムのグリップの形が乗り移ったような右手を一度大きく開いてから軽く固めると、高城はミラーに集中した。仕事は終わっていない。二周したから、その分出くわす確率は上がった。事前に聞いている情報では、この周辺を黒のメルセデスが巡回している。少し古い型のMクラスで、サプレッサーで押し殺されているとはいえ、イングラムの銃声を聞き逃すことはないだろう。何もなかったミラー越しの空間に突然現れた光源を確認した高城は、戸田に言った。

「来るぞ」

 仕事の仕上げ。それは、銃撃犯が乗る白のシルビアを『目撃』させること。もちろん、捕まってはならない。戸田はアクセルを踏み込んで一気にシルビアを加速させると、駐車場のように広い交差点を鋭く左に曲がった。戸田には、『もしブレーキが壊れたら』という発想はない。Mクラスが大きく車体を傾けながら曲がろうとして、交差点の反対側に衝突する寸前で停車したのが、ミラー越しに見えた。相手はシルビアの後ろ姿を頭に刻んだだろう。高城は、戸田の肩をぽんと叩いた。これが何を意味するのか。戸田はもちろん、高城も理解していない。知る必要があれば、指示内容に含まれるだけのこと。この仕事は、単純に考えたほうが長生きできるようになっている。

 戸田がハンドルを切ってさらに狭い路地に入り込み、電柱にミラーをひっかけるすれすれで一本隣の大通りに抜けたとき、高城は言った。

「高速に乗れ」

 高速道路というのは、追われる立場としては便利な代物だ。周りに車が一台もいないということは、ありえない。目撃者を残さずに人を痛めつけるのは不可能だ。戸田が五速にギアを上げたとき、途切れ途切れに小さく鳴っていたラジオが、息を吹き返した。それがチャットモンチーの『こころとあたま』だと高城が気づいたとき、戸田が言った。

「もう追ってきませんね」

 高城はうなずいた。十分ほど走り、ミラー越しにヘッドライトの光が一切見えないことを確認してから、出口を指差した。

「降りろ」

 これから一時間かけて向かうホテルは、いわゆるお膝元で、様々な立場の人間が出入りする。いわば、見極められる場だ。隙のある行動は記録され、不用意な言動は積み重なっていく。モズの一員になった当初はホテルに住み込みのような状態だったが、すぐに離れて、去年までは西の方で仕事をやってきた。七年間で、様々な人間を葬ってきて思ったのは、これが天職だということと、もっと楽な仕事は海外に溢れ返っているということ。ただ、一度出てしまえば、戻っては来られない。四年前にも、一度そのことを考えた。天職だからといって、ストレスがないわけじゃない。

 高城は、もう一度ミラーに視線を向けた。メルセデスのドライバーが一瞬にしろ、こちらの顔を視認していたら。この手の仕事を任されるドライバーは、記憶力も動体視力もずば抜けている。もしシルビアに乗る二人組の特徴が広まれば、車だけでなく、乗っていた人間も標的になる。七年前、ひとり目を殺す前に感じていたのは、これから『人を殺した』という事実とずっと付き合っていくのだろうという、覚悟のような感情だった。それが年々、殺さなかった人間の方が気にかかるようになってきている。今までに、誰とどんな会話を交わして、誰と車に乗ったか。もう、その糸が辿れなくなった人間たち。ひとつでも絡まったり、ほつれたりしたら。高城は、ほとんど平らな地平線のように見える殺風景な街並みに視線を向けた。戸田と打ち合わせをしたのは、パールという名前の古い喫茶店。イングラムとシルビアを用意したのは、金井オートサービス。弾はトランクに五十発入りの箱が二つ入っていた。パールの店主は、一週間前に立ち寄った高城と戸田が何の話をしていたのかは知らないし、金井オートサービスの工場長は、イングラムとシルビアを送り出したら、その行方は追わない。知りたがらないというのが、正確なところ。ホテルの地下駐車場で待っているカラスは、車ごと引き取って、死体を処理したら解体屋から人を呼ぶ。今回は死体を残しているから、車を掃除して解体屋に連絡を入れるだけだ。ただ、二十七個の薬莢も回収することになるだろうから、そのときにカラスは薬莢だけが転がった車内を見て、銃本体がないということに気づくはずだが、おそらく誰にも言わない。そうやって皆が目を瞑っているから、銃本体はこちらの『臨時収入』になる。整備されたイングラムにどれぐらいの値がつくのかは、市場に出してみないと分からない。ただ、今までにそうやって得た収入は、口座の中身の半分近くを占めていた。ルールには反しているが、海外に進出するためには、金が要るのだ。

 旅館跡を通り過ぎて、ホテルの灯りが見えてきたとき、戸田がギアを三速に落とした。高城は、リュックサックの中にしまい込んだイングラムの位置を少し調整した。地下駐車場のブルーシートはどけられていて、中から蛍光灯の青白い光が漏れている。カラスは、明るい茶髪をショートカットにしている細身の女で、低血糖だからいつも飴玉を転がしている。年齢は二十一歳で、言動は軽いが、基本的にはホテル側の人間だ。笑っていても、喜怒哀楽と連動しているとは限らない。これから死ぬ運命にある人間が希望に満ちたひと言を口にしとしても、同じように笑う。高城が助手席から降りると、グレーのエプロンを巻いたカラスがひらひらと手を振った。

「おかえりなさい、ご無事でなにより」

「こんばんは」

 高城が言うと、戸田がエンジンを切って運転席から降りた。カラスは判で押したように同じ挨拶を繰り返すと、傷ひとつないシルビアの周りをぐるりと歩いた。

「車も無傷っすか」

 か細い声に、飴玉を転がす音が混じる。高城が頷くと、カラスはドアを開けた。シートの隙間やレッグスペースに薬莢が落ちていることに気づき、顔をしかめた。高城は先に言った。

「二十七個あるはずだ。死体はない」

「ご丁寧にあざす」

 カラスはエプロンを脱ぐと、戸田の顔を覗き込んだ。

「元気ないすね。ヒバリなら、夜勤っすよ」

「え? そうなんですか」

 戸田はドライバーだから、人を殺したことはない。鼻歌を歌いながら死体を解体するカラスの目をまっすぐ見返して、普通の人間のように会話を交わすには、それなりの経験が必要だ。高城が助け船を出そうとしたとき、カラスは関心をなくしたようにそっぽを向いて、高城に言った。

「食堂に寄ってくださいって、ヒバリから伝言です」

「戸田もか?」

「いえ、高城さんだけ」

 ロビーに上がり、電気がほとんど落ちたラウンジを通り過ぎる。フロントで鍵を受け取って、戸田が先にエレベータに乗り込むのを見送ると、高城は従業員用の食堂まで歩いた。電気が半分だけ点けられていて、厨房から離れた四人席にアザミが座っているのが見えた。企業で言えば、人事に相当する。三十代に入ったはずだが、その見た目は卒業式の日に初めてスーツを着た高校生のようだ。向かいに座った高城に、アザミは黒縁眼鏡の奥にある大きな目を向けて言った。

「明日一日、戸田さんを見張って」

 アザミは常に単刀直入だ。テーブルの端に置かれたミュージックプレイヤーに繋がるイヤホンからは、古い曲が音漏れしている。機嫌を窺う必要はないが、それが何の曲か気づいた高城は、言った。

「ヤングラブですか。誰でしたっけ」

「タブハンターだよ」

 アザミは本題から逃げ回る高城をからかうように、口角を上げて笑った。

「ホテルは緊張する?」

「まあ、久々なんで」

 高城がそう言ったとき、アザミは表情を切り替えた。

「七七番に停まってるスカイラインで、昼までに白井さんのところへ連れて行って。トランクの中の物を渡してほしい」

 白井家は海沿いに建つ豪奢な一軒家で、改装される前はレストランだった。外科医の貴美子と娘の早紀が、二人で住んでいる。四年前にも行ったことがあった。思い出したくない、忌まわしい記憶。当時、二十歳になったばかりだったが、組んでいた裕木はひと回り年上だった。裕木の決まり文句は『ヒバリと出て行く。おれはやめるよ』という、希望に満ちた言葉だった。ヒバリは連絡係だから、ホテルに住み込みで働いている『あっち側』の人間の中で、最も人と接触する。当時『ヒバリ』の役割を担当していたのは二十代の派手な女で、意地悪な雰囲気があった。高城自身は、銃や装備の転売が軌道に乗ったところで、あまり真剣には聞いていなかった。だから、白井家に出向いたときは、そこに『お迎え』がやって来るとは考えてもいなかった。ただ、預けるものがあるから二人で行くよう言われただけだ。夕方になって、コーヒーを飲みながら貴美子と雑談していたとき、軒先に車が停まって運転手が降り、裕木が出て行って、車回しで頭を撃たれて死んだ。理由は誰も語らないが、ヒバリに手をつけたからだろう。

 アザミから解放されて、エレベーターに乗り込んだ高城は、部屋まで続く薄暗い廊下を歩きながら思い出していた。当時、中学校に上がったばかりの早紀は、銃声に飛び上がってコーヒーをひっくり返し、テーブルの下に隠れた。同じ目線の位置まで屈みこんで、『こっちには飛んでこないよ』と言いながら落ち着かせたことを覚えている。貴美子は冷静でいながら、その目はうんざりしているように鈍い光を跳ね返していた。その手は、モズの折れた骨や開いた傷口を、何事もなかったように元に戻す。もちろん、逆も可能だ。貴美子には、四十半ばには見えない若々しさと、ため息交じりの厭世的な表情が混在している。

 母娘が住む白井家は自然と一体になったような造りで、海と川に挟まれている。手術で使うために川の水の一部を引いているから、家の中を川が流れているように見える。四年前の記憶を辿っていると、午前三時になっていた。あの二人は印象に残っている。高城は眠気とは関係なく重くなる瞼を押さえた。おれは当時、人を殺すことに慣れ切った辺りだった。それ自体は今も変わらないが、意識してやっていたことが頭に完全に吸収され、意識したら逆にできなくなる、逆転現象のようなことが起きていた。自分の顔を知りながら、今でも生きている人間。それが怖くなり始めたのも、同じ頃だった。装備の転売をしている内に海外の顔見知りが増えて、大口の案件に誘われるようになった。しかし、裕木が頭を吹き飛ばされるのを目の前で見て、海外へ出て行く気は逆に失せた。

 眠ることを諦めた高城は部屋から出て、一階ロビーの奥にあるゲームコーナーの空いた椅子に座った。電気が消えて真っ暗になったゲーム機が並ぶ中、非常灯の緑色の光が廊下に伸びている。しばらく座ったままでいると、コツコツと足音が聞こえてきて、非常灯の光が長い影に遮られた。今のヒバリは、先代の意地が悪そうだった『裕木の愛人』とは、全く違う。先代より若く、夜中でも隙を見せないように、緩くカールした髪は整えられている。ヒバリはゲームコーナーを覗き込むと、白い歯を見せて笑った。

「眠れませんか? お薬、用意しましょうか?」

「いや、大丈夫。あの、ちょっといいかな」

 高城が言うと、ヒバリは隣の筐体の前に置かれた丸椅子に腰かけた。非常灯が逆光になって、緑色の後光が差した。

「今日は、戸田と来たんだ」

「さっき、フロントでお会いしたばかりですよ」

 ヒバリは口元を押さえながら上品に笑った。高城は笑顔に釣られないよう口元に力を入れ、少し声を落とした。

「あのさ。戸田について、何か聞いてないか?」

「何か、というのは?」

 ヒバリは困ったように声のトーンを下げた。高城は、首を横に振った。

「なんだろうな。これはおれの勘なんだけど」

 戸田のよそよそしい態度は、今に始まった話ではない。しかし、カラスが放ったひと言もあって、どうしても気にかかってしまうことがある。

「あんた、戸田と付き合ってないか?」

 高城が言うと、ヒバリは首を傾げた。緑色の光が顔の右半分を照らして、人形のように整った顔に影を落とした。

「そのような交際は、禁止されています」

 ヒバリは淡々と言った。高城は小さく息をつくと、ゲーム機に少しだけ体重をかけて楽な姿勢になり、言った。

「おれと戸田は、昼までに白井家に行くことになってる」

「今の方が良ければ、お車の鍵を用意しますよ」

「いや、そういう話じゃないんだ。あんたの先代と付き合ってた、裕木って奴がいる。結局、頭を撃たれて死んだ。そのときも白井家に呼ばれたんだ。今回と同じだな」

「高城さんも、その場にいらっしゃったんですか?」

「いたよ。ちなみに、あんたの先代も行方不明だ」

 どうしてこんな簡単に言葉が飛び出すのか、自分でも分からない。息をつくと、高城はヒバリの言葉を待った。椅子を軋ませながら後ろを振り返ったヒバリは、緑色の光の帯に向かって話しかけるように、顔を背けたまま言った。

「戸田さんは、わたしに興味なんかありませんよ」

 高城がその表情を見ようと腰を浮かせて近づいたとき、ヒバリは突然向き直った。

「わたしは、高城さんに興味がありますけど」

 高城は氷の塊に触れたように思わず立ち上がり、ゲームコーナーから足早に出て、一度だけ振り返った。ヒバリの表情は暗闇に溶け込んで窺えなかったが、おそらく笑っているのだろう。このホテルの人間は、皆そうなのだ。

      

 朝九時、ロビーのソファでくつろぐ戸田に声を掛けて、高城はスカイラインの鍵を受け取った。夜勤終わりのヒバリは二人に頭を下げると、言った。

「いってらっしゃいませ」

 七七番に停められた、シルバーのスカイラインセダン。その助手席に乗り込むなり、高城は言った。

「今から行くのは、白井家だ。知ってるか?」

「ええ。話には聞いてます」

 戸田はエンジンをかけると、座席の位置を調節しながら、クラッチを踏み込んだ。走り出してしばらくは無言だったが、戸田がラジオのスイッチを触るのと同時に、高城は言った。

「お前、ヒバリに手を出してないだろうな」

「何を言ってるんです? そんなことしたら、何をされるか」

 戸田は呆れたように笑った。無駄に言葉が長いのは、少なくとも何かの接点があるからだろう。高城がラジオのボリュームを上げると、戸田が緊張を少し解いたのが分かった。

「いや、ヒバリさんって愛想いいじゃないですか。でも、僕から行くことはないですよ」

「相手から来ても、きっぱり断れよ。裕木の話は、前にしただろ?」

「はい」

 あの『ヒバリ』は見境がない。モズのことを、自分が退屈しないためのおもちゃぐらいにしか、思っていないのだろう。そして戸田は、自分が見張られているということを、想像すらしていないように感じる。四年前は、白井家に寄った日に海外へ逃げることを諦めた。今回は逆の結果に終わりそうだ。もしかしたら、これで終わりにできるかもしれない。自分の顔を知る人間がいない土地へ。頭の中ではそんなことを想像していても、うねる山道は海沿いへ続いていき、一時間ほど走ったところで、白井家の蔦が絡まる外壁が目に入った。戸田は砂利敷きの車回しでスカイラインを転回させると、バックで玄関の近くまで寄せた。高城は助手席から降りてリュックサックを背負うと、戸田がレバーを引いて半開きになったトランクに手をかけて、大きく開けた。段ボール箱がひとつ。玄関の扉が開いて、水色のジャージを着込んだ早紀が手を振った。

「こんにちは」

 四年前にテーブルの下に隠れたときは、中学生になったばかりだと言っていた。ということは、今は高校生になっている。高城が小さく頭を下げると、早紀は高城の隣に立って、段ボール箱を見下ろした。

「中身とか気になります? 多分、麻酔ですよ。中へどうぞ」

 早紀は自分の手で段ボール箱を持ち上げると、家の中に戻っていった。高城は玄関に上がるとき、貴美子のピンヒールがないことに気づいて、言った。

「お母さんは、出てるの?」

「はい、今日はいません」

 高城は振り返り、戸田を手招きした。戸田は早紀に向かって頭を下げると、玄関に入って後ろ手にドアを閉めた。

「自分、ここに来るのは初めてです。怪我とかは、したことなくて」

 早紀は段ボール箱を廊下に置くと、戸田を振り返りながら言った。

「怪我がないのが一番ですよ」

 高城は廊下に上がり、木の床を踏みしめながら四年前の記憶を呼び起こそうとした。そもそも、早紀が高校生になっているのだから、その時点で違う。

「高城さん、わたしが中学生だったときに、一度来てますよね?」

 台所でポットのお湯を再沸騰させながら、早紀が言った。高城はリュックサックを床に置きながら、うなずいた。

「そうだね。今は高校生?」

「はい。十七なんで、二年です。ホームスクールなんで、関係ないかも」

 早紀がコーヒーカップを三つ出したとき、戸田が高城に耳打ちした。

「コーヒー飲むんですか?」

 高城はうなずいた。早紀が冷蔵庫を開けて中に頭を突っ込んだタイミングで、耳打ちを返した。

「ここの母娘が出したコーヒーは、必ず飲め。仕事の内だ」

「断ったら、どうなるんです?」

「試してみるか?」

 高城が言うと、戸田は諦めたように小さく笑った。モズには、様々な慣習がある。それが破られないのは、破ったときに何が起きるか知っている人間が、ひとりも生きていないからだ。冷蔵庫から顔を出した早紀は、ラップにくるんだロールケーキを出してきて、テーブルの上に置いた。お湯が沸騰し、三人分のコーヒーを作った早紀は、言った。

「今夜は、暴風域になるそうです」

「海沿いだと怖いね」

 高城が言うと、早紀は残念そうに小さくうなずいた。戸田がコーヒーをひと口飲んだとき、時計の秒針しか聞こえない部屋の中に、外で砂利を踏む音が入り込んできた。高城が最初に気づき、早紀が言った。

「ママかな」

 高城は早紀を制止して立ち上がると、二階に続く階段を上った。今のは、慣れた家に入ってくるときの砂利の踏み方じゃない。二階から車回しを見下ろせる窓の手前に立った高城は、ゆっくりと覗き込んだ。ベージュの砂利に溶けあわず反発するような、黒の車体。

 あのメルセデスが停まっている。高城は階段を駆け下りて、戸田に言った。

「メルセデスだ」

 戸田が咄嗟に頭を低くし、早紀がコーヒーカップをテーブルの上に置いた。カーテンの隙間から外の様子を一瞬だけ確認した戸田が、指を二本立てた。運転席と助手席にひとりずついる。しかし、手前で後部座席の人間が降りた可能性もある。高城は、戸田を台所まで呼び寄せて、早紀に言った。

「この家に銃はある?」

 早紀は冗談を聞いたように笑いかけたが、真顔に戻って首を横に振った。高城は、リュックサックの中に収められたイングラムに視線を向けた。弾倉の中身は、夜にほとんどを撃った。予備の弾はシルビアの中だ。高城は周囲を見回した。

「立て籠れそうな部屋はあるかな? 窓とドアを塞ぎたい」

 早紀は壁に埋められた金庫の暗証番号を入力して扉を開くと、ぬいぐるみのキーホルダーがついた鍵を取り出した。

「これで、窓は全部シャッターが下ります。あと、自動的にホテルに連絡が入ります」

 高城は一回余分に瞬きをしたが、思い直したようにうなずいた。

「やってくれ」

 早紀がセキュリティパッドに鍵を差し込んで暗証番号を入力すると、家全体が揺れるような音を立てて、鉄製のシャッターが窓を塞ぎ始めた。早紀はノートパソコンを持って台所に置くと、カメラに接続して高城に見せた。

「車が一台、停まってます」

 白黒映像に映る、例のメルセデス。人相は分からないが、運転席に人影が見える。助手席には見当たらない。高城は、戸田に言った。

「二人だったな?」

「さっき見たときは、そうでしたね」

 最低でも二人はいる。この車で来たとしたら、最大で五人。ホテルに連絡が入ったなら、間違いなく助けが来るだろう。問題は、リュックサックの中のイングラムだ。高城は、戸田に言った。

「一応、早紀ちゃんと二階に上がっててくれ」

 二人が階段を上がっていくのを見送り、高城はリュックサックを開けた。弾倉を抜いて弾を数えたが、残っているのは五発だけだった。たった五発の三八〇ACPでどう戦えばいい。おまけに、戦っていいかもわからないのだ。シャッターがあるから、時間は稼げる。そもそも、メルセデスはどうやってここまで辿り着いたのか。撒くための手段は、教科書通りに全部実行した。高城はイングラムに弾倉を差し込むと、セレクターをセミオートに切り替えてからリュックサックに戻し、居間のソファの上に置いた。周囲には、この家より高い建物はない。裏にそびえる山の斜面はかなりのもので、上ったところでシャッターに塞がれていれば、部屋の中を狙える余地はない。頭の中が徐々に整理され、家の中を流れ続けている水の音だけが残ったとき、ポケットの中で携帯電話が鳴った。

「はい」

 高城が短く答えると、電話の向こうでアザミが言った。

「何が起きてるの?」

「昨日の追手が、家の前にいます」

 それが意味することは、アザミにも伝わっただろう。長い沈黙が証明していた。拠点のひとつが『割れた』のだ。高城は言った。

「戸田を見張れって、言ってましたよね」

「おそらく、戸田さんは副業をやってるわ。尻尾を掴めたら、わたしに教えてほしい」

 副業。戸田の場合なら、他の組織のドライバーとして働いているということだ。高城は、思わず二階を見上げた。

「分かりました」

「早紀ちゃんは、どうしてる?」

「二階に、戸田と一緒に逃がしています」

 高城はそう言ったところで、ノートパソコンの小さなディスプレイを覗き込んだ。メルセデス以外に、車の姿はない。

「あの、貴美子さんは帰ってこないんですか?」

「貴美子さんなら、ホテルにいるわよ。帰らないように、今言ったとこ。浜井と馬淵にお願いしてあるから、動かないで」

 浜井と馬淵は、二人とも新人のはずだ。先輩についていって、仕事を学んでいる状態。そんな人間を寄越して、何になる? 頭ではそう思いながらも、出てきた言葉は全く違った。

「ありがとうございます」

 電話を切って、考える。高城は、ノートパソコンを眺めた。運転席には、まだ人影が見える。さっきは光の加減で見えなかったが、今は助手席には誰も乗っていないのが分かる。おまけに、運転手はご丁寧に、覆面を被っていた。アザミは、反撃の手段がないという前提で、人を寄越すと言っている。しかし、浜井と馬淵が仮にメルセデスの連中を始末したとして、次に待っているのは『実況見分』だ。外に出られない以上、イングラムを捨てる手段はない。流れ続ける水の中に放り込んでも、大きさからすると途中でつかえるだろう。仕事が終わった後も、道具を持ち続けていたら、どうなるか。カラスが責任を問われることはない。全てがこちらの肩にのしかかってくる。高城は二階に上がって、排水溝の隙間から外を覗いている戸田に言った。

「戸田、ちょっと来てくれ」

 同じ部屋でスマートフォンを触る早紀が興味津々な様子で首を伸ばしたが、高城は目を合わせないようにして、戸田を連れて一階に下りた。この窮地を脱するための計画が、頭の中で練られつつあった。スカイラインの鍵は、戸田のジーンズのポケットに入っている。高城は、戸田を台所まで連れて行くと、言った。

「単刀直入に言うぞ。嘘もごまかしもなしだ。お前、副業やってるか?」

 立ち尽くしている戸田をしばらく見ていた高城は、居間のリュックサックを開き、イングラムを取り出した。ボルトを力任せに引き切ると、銃口を戸田に向けた。

「おれは、アザミからお前を見張るように言われてる」

 戸田は平手打ちを食らったように瞬きをした。高城は銃口を下ろした。戸田は渋々うなずいた。

「何度か、ドライバーとして入りました。それは間違いないです」

「金が要るからか?」

「いえ、この組織でずっとやっていく自信がなかったので」

 四年前の自分を見ているようだ。動機は真逆だが、やろうとしていることは同じ。高城はうなずいた。

「その気持ちは、よく分かるよ。連中はこういうことをよくやるんだ。今、試されてるのは何だと思う?」

 高城の質問に対する答えは、すでに戸田の頭の中に浮かんでいるようだった。高城は念を押すように続けた。

「お前の忠誠心だよ」

 ノートパソコンの画面を指して、高城は言った。

「見えるか? 今は、運転手しかいない」

 高城は、戸田の目がディスプレイに注意を向けるのを待った。テーブルの上のコーヒーは、もう湯気を立てるのをやめていて、真っ黒の液体が天井の灯りを閉じ込めるように、光を跳ね返していた。水の音が意識に割り込んできたとき、戸田は言った。

「そうですね」

「周りに、隠れる場所はない。つまり、正面にはひとりしかいないんだ」

 実際、その通りだった。高城は、戸田に言った。

「助けは当てにできない。イングラムには五発残ってる。手持ちのカードはこれだけだ」

 戸田はうなずいた。高城はその肩をぽんと叩いた。

「おれは実戦経験が長い。安心しろ」

 ノートパソコンを手に取ると、高城は戸田を連れて二階に上がり、スマートフォンを手に持ったまま目を泳がせている早紀に言った。

「早紀ちゃん、シャッターだけど、個別に開けることはできる?」

「内側からなら、手で押し上げられます」

 早紀はシャッターの内鍵を指差した。二階の窓の内、正面に面していない角度のもの。高城は、戸田に言った。

「おれは、カメラで運転手の気が逸れているタイミングを指示する。スカイラインに乗って、エンジンをかけて、メルセデスに突っ込め。できるか? 電話を繋ぎっぱなしにしとくんだ」

 戸田は言われたとおりにスマートフォンを取り出した。高城が鳴らすと、派手な着信音が一瞬鳴り、戸田は通話ボタンを押した。

「このままにしとけよ。絶対切るな」

 高城はそう言って、ノートパソコンのディスプレイに目を向けた。運転手はおそらく、退屈している。これだけ他の人間が姿を現さないとなると、本当に二人なのかもしれない。進入路がないことを確認した助手席の人間が帰ってくるまでに、ケリをつけなければならない。戸田がシャッターの内鍵に手をかけていることに気づいた高城は、ディスプレイを見たままうなずいた。

「今なら大丈夫だ。静かに出ろよ」

 高城は早紀の方を向いて、浴室を指差した。

「バスタブの中に入って、頭を庇って」

 早紀が言われた通りに駆け出していき、戸田が覚悟を決めたようにシャッターを押し上げ、二階の屋根に足を下ろした。靴下だから、ほとんど音は鳴らなかった。シャッターをゆっくりと下ろした後、高城はスマートフォンを耳に当てた。

「聞こえるか?」

「はい」

「一階まで降りろ。できるだけ静かに。降りたら、スカイラインにできるだけ近づけ」

 外でがさがさと音が鳴ったが、運転手は耳栓でもしているように、全く反応しなかった。シルビアに全く付いてこられなかった運転技術からしても、大した相手ではないのかもしれない。高城がそう思ったとき、ディスプレイの端から人影が現れた。もうひとりが帰ってきた。高城は、そのシルエットに注目した。覆面を被っているが、右手にはライフルを持っている。カラシニコフの亜種だが、湾曲した弾倉は大口径のものだ。運転手に向かって首を横に振っている。高城はスマートフォンを耳から離した。実戦経験が長いから分かること。それは、この規模の家屋の偵察に要する時間。カラシニコフを持った男がメルセデスまで戻る途中で、高城はスマートフォンの通話を切り、もう一度鳴らした。家の中にいても分かるぐらいの音量で着信音が鳴り、白黒の映像の中でカラシニコフの男が振り返った。運転席の男が降りて、左手に持った拳銃を持ち上げた。騒がしい足音が近づいてきて、真下でカラシニコフの銃声が立て続けに鳴った。大前提として、モズに常識や義理人情は通用しない。その部分が欠けているから、何年も続けていられるのだ。おれは、モズを辞めて海外に出たい。諦めた四年前はあまりに無力だったが、今は違う。

 相手は二人。ひとりは拳銃、ひとりはカラシニコフ。高城はひと息つくと、ディスプレイを眺めた。煙を吐くカラシニコフを持った男が恨めしそうに家を振り返り、隙がないか探っている。シャッターを少しだけ持ち上げて一階に視線を落とすと、仰向けに倒れた戸田が見えた。浜井と馬淵がやってくるまでにケリをつけなければならない。この家の近辺に待機場所はないから、最短でも一時間はかかる。鉢合わせするまでに、うまく逃げ出せれば。イングラムは戸田に握らせればいいだろう。副業をやっていたのだから、装備を売りさばいていても不思議じゃない。そしてスカイラインの鍵は、戸田のポケットの中にある。カメラの映像を見ると、二人とも車から降りたままだった。運転手の方は、拳銃をホルスターに収めている。高城は一階に下りると、戸田が倒れている位置に最も近いシャッターに近づき、手で押し上げると、傘を差し込んで支えた。イングラムを持ったまま外に出て、戸田の死体からスカイラインの鍵を回収すると、身を低くしたままスカイラインの真後ろまで移動し、カラシニコフの男を確認しようとしたが、運転手の足元がかすかに見えるだけだった。足の角度を観察して、少なくともひとりはこちらを向いていないことを確信すると、高城は体を大きく左にずらせてから、立ち上がった。カラシニコフの男が十メートル先に見え、雑な造りのサイトに頭が重なるのと同時に、引き金を引いた。耳のすぐ後ろに三八〇ACPが吸い込まれ、上から吊っていた糸を切られたように、カラシニコフの男が地面に崩れ落ちた。運転手の左手が動き始めたのは、高城が姿を現した瞬間とほぼ同時で、高城が銃口を振り向けるよりも早く、二発がスカイラインの天井を掠めて壁に突き刺さった。高城は素早く下がりながら、考えた。自分ならどうするか。仲間が落としたカラシニコフを拾うだろう。拳銃だけで突っ込むことはない。福住には、そう教わった。高城は二発撃って牽制すると、開いたままになっているシャッターをくぐって部屋の中に戻った。あと二発。この入口に釣られて来るとは思えないが、それは相手の資質による。しかし相手からすれば、ここ以外に突破口はないのだ。二階へ上がる階段の踊り場に屈むと、高城は台所を見下ろした。入って来るなら、まずは銃口が見えるはずだ。家の中で殺せるとしたら、その方が好都合だ。

 高城は浴室のある辺りを見上げた。問題は、全てを見ている早紀だ。黙るだけの理由を作るのは、難しい。悪い意味で、何も知らなすぎる。

 高城がイングラムのグリップに集中力を戻したとき、斜めに切られたフラッシュハイダーが窓の隙間に現れた。最小限の露出で、銃口が走査する範囲は限りなく広く、無駄がない。部屋の九十パーセントは見通せただろう。最後の十パーセントは階段の踊り場。体ごと入り込んで上を向かない限り、視界には入らない。うんざりしたような動きで部屋の中に入ってきた運転手は、カラシニコフの銃口を左右に振った。高城は踊り場でイングラムの引き金を引いた。二発が頭の真上から穴を空け、運転手はよろめいて横向きに倒れた。手から離れたカラシニコフがフローリングの床を滑り、大きなひっかき傷を残した。高城はシャッターを下ろして、考えた。二人とも始末した。戸田は、外で撃たれている。だから、カラシニコフは外にあったほうがいい。

「早紀ちゃん、もう大丈夫だ!」

 高城が呼ぶと、涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭いながら、早紀が下りてきた。高城はハンカチを差し出して、言った。

「シャッターを開けて」

 逆回しの映像のようにシャッターが上がっていき、差し込んだ太陽の光に、高城は目を細めた。カラシニコフを拾い上げると、正面玄関から出て、元の持ち主の手元に返した。イングラムを戸田に握らせて中に戻ると、運転手の死体を探った。三八口径のベレッタ八四をホルスターから抜いてベルトに挟んだとき、振り返った早紀が言った。

「ありがとうございます。高城さんがいなかったら、殺されてるところでした」

 高城は苦笑いを浮かべた。統計的には、おれが原因で死ぬことの方が多い。四年前、このテーブルの下に隠れてモズへの制裁をやり過ごしたときは、早紀と同じ立場だった。死ぬほど怖かったし、自分と同じように気まぐれな連中が早紀に手を出すようなことがあれば、殺してやるつもりだった。しかし、立場が変われば、労いの言葉も感謝の涙も、上滑りするだけだ。そうやって入り込まれないように、心に絶やすことなくワックスがけをしてきた。

 早紀はコーヒーカップを三つシンクに浸けると、新しいカップを二つ取り出した。

「コーヒー、淹れなおします」

 モズの慣習。白井家のコーヒーは断れない。それ自体が懐かしく感じるぐらいに、頭の中を開放感が満たしていた。新しいカップがテーブルの上に置かれ、高城が向かい合わせに座って温かいコーヒーに口をつけると、早紀が言った。

「わたし、来年からママを手伝うんです」

「医者になるのか。それも、ホームスクール?」

 高城が言うと、早紀は湯気に目を細めながら小さくうなずいた。そこからしばらくの間、早紀は外科医としての心構えを語った。これ以上聞くと、引き金を引けなくなる。それに、コーヒーを向かい合わせに飲んでいて撃たれるというのは、不自然だ。そう思った高城は話の切れ目で立ち上がると、運転手の死体のところに屈みこんだ。早紀が興味を惹かれたように立ち上がり、コーヒーカップを持ったまま歩み寄った。飼いならされた猫のような、警戒心のなさ。

「怖くない?」

 高城は、死体を見ても表情を変えない早紀をからかうように言った。覆面を引っ張ると、半開きになった口が見えた。早紀は笑った。

「これぐらいは慣れておかないと、手術できませんよ」

 高城はさらに覆面を引き上げた。左手でベルトに挟んだベレッタを抜いて、早紀から見えないように背中側へ隠した。頭に二発食らわせている死体は、中々見慣れるものじゃない。死体に視線を向けた高城は、その顔を見て思わず呟いた。

「浜井……?」

 驚いたように見開かれた目。頬に残る骨折の治療痕。間違いない。新人の浜井だ。咄嗟に持ち上げようとしたベレッタが手の中から滑り落ち、フローリングとぶつかって大きな音を立てた。早紀は意地悪をされた子供のような泣き顔で言った。

「どうしてなの……。家で待ってるだけでよかったんです」

 高城は立ち上がろうとしたが、体のバランスを取れずに横倒しに倒れた。コーヒーカップからは、まだ湯気が上がっている。

「……、何を入れたんだ」

「戸田さんだけじゃないんです」

 早紀が言い切れなかった言葉を、高城は自分で補った。両方が見張られていたのだ。外で死んでいるのは、馬淵で間違いないだろう。そもそも、あのメルセデスに乗っていた二人組は、最初から浜井と馬淵だった。ホテルは、モズの忠誠心を試す。アザミが『待て』と言ったのに、待たなかったらどうなるか。その結末を知って、生きている人間はいない。

「前は、わたしを助けてくれたのに」

 早紀はスマートフォンをポケットを取り出しながら、納得がいかないように言った。高城は少しずつ動かなくなっていく体を捩り、早紀を見上げた。誰かと会話をしている姿は、貴美子とは似ても似つかない。困惑していて、顔は青白い。スマートフォンをポケットに戻した早紀の表情が、高城と目が合うのと同時に、笑顔に切り替わった。

「わたし、来年からママを手伝うんです」

 高城は、意識だけがはっきりしている頭で、自分に言い聞かせた。いつから、笑顔だと思っていたんだ。その後ろにある感情とは、まったく一致しない。この業界に身を置く人間は、これから死ぬ運命にある人間が希望を語ったときも笑う。早紀が手術に使う部屋の扉を開くと、流れる水の音が部屋中に響いた。高城は、目だけで早紀の姿を追った。電話で、何を言われたのだろう。話した相手は、貴美子のはずだ。高城の疑問を読み取ったように、担架を引きながら戻ってきた早紀は、ペンライトを手に持って言った。

「ママは、スパルタなんですよね」

 高城の瞼を開いて光を当てる早紀の仕草は、現役の医者のように研ぎ澄まされていた。その後ろで、幼さの残る口元が大きく開くと、笑顔に変わった。

「今のうちに、人間の体がどういう風になっているか、しっかり見ておきなさいって」

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