Late check-in

 破裂したパイプから漏れる蒸気で、しっかり目が開けられない。それでも、仰向けに倒れた福住の上着のポケットから、どうにかして弾倉を引き抜いたわたしは、それを空っぽになったグロック三六に叩き込んだ。衝撃でスライドが勝手に戻って、拳銃と会話をしているように感じた。六発の四五口径はあっという間に、間合いを詰めてきた相手の体に吸い込まれて、グロックは手の中でまた空っぽになった。でも、もう構わない。相手は四発目で体を捩ろうとしたまま、膝をついた。そこに追い打ちをかけた二発が、頬と上あごに命中して、顔は半分削り取られたようになった。今は血だまりの中でうつ伏せに倒れているけど、起こして確認しようという気にもならない。それは、福住にやってもらう。

「おーい、しっかりしてよ」

 わたしは、福住の体を引きずるように起こして、肩を揺すった。ボディアーマーに吸収された散弾。相手は三発を撃った。二発が福住に命中し、次の一発がパイプを破裂させた。そこで薬莢が引っかかって動かなくなったのは、わたしが幸運の持ち主だから。おかげで、仰向けに倒れて気絶した福住の手から飛んでいったグロックを拾えた。でも、わたしの幸運の中にはいつも、乗り越えなければならない小さな課題がある。拳銃は拾えたけど、残りの弾は? 福住は、すでに一人を殺していた。

 蒸気で真っ白になった先にうっすら見える人影に向けて引き金を引くと、一発しか残っていなかったことが分かった。蒸気をくぐって姿を現した相手の手には散弾銃がなくて、わたしを素手で殺すつもりなのだと悟った。そして、間合いを詰められるまでの数秒に、福住が予備の弾倉をポケットに入れていたことを思い出して、事なきを得た。不運はいつだって、足元で掬うチャンスを伺いながらうずくまっているくせに、幸運だけは、いつも骨が折れる。福住が寝過ごしたように目を開けて、目の前にあるわたしの顔を見つめながら、瞬きした。

「おれ、生きてる?」

「生きてるよ。あれ、片付けてよ」

 わたしは立ち上がって、スーツの埃を払った。福住は同じように立ち上がると、顔面が破壊された死体を見下ろしながら、小さく息をついた。

「顔を撃ったのか?」

「膝をついたんだよ。当たっちゃったんだ」

 わたしは地面に転がった弾倉を拾うと、空っぽになったグロックと一緒に、福住に返した。福住は上着のポケットを探って、弾倉がないことに気づいたらしく、目を丸くした。

「使った?」

 わたしはうなずくと、がらんとした工場の中を歩き回って、台車を見つけた。連れて戻って来て、入口近くでうつ伏せに倒れる死体を載せた。福住が最初に撃った相手。散弾銃を持っていた方に比べれば、まだ小柄だし、弾が貫通していないから血もあまり出ていなかった。福住は、半壊した頭から顔を背けながら死体を引きずってくると、散弾銃と一緒に、重ねるように台車へ放り投げた。

「台車どうすんの?」

「一緒に持って行こう」

 わたしはそう言うと、殺人現場になった製紙工場の裏口から出て、古いハイエースのリアハッチを開けた。二人分の死体を運ぶときは、大きめの車を使う。ビニールシートで養生された荷室に死体を投げ込んだところで、福住が言った。

「助かったよ。そういや、どうして丸腰なの」

 わたしは、答えずに運転席に乗り込んだ。丸腰なのは、ドライバーとして入ったからだったけど、そもそも銃自体が苦手だった。できることなら、触らずに済ませたい。でも、今日はなぜか返り討ちに遭うような嫌な予感がして、後をついていった。助手席に乗り込んだ福住は、全ての問題から解放されたように、ヘッドレストに頭を預けた。わたしはクラッチを踏みこんで、シフトレバーを一速に入れた。十五年前の型のハイエースは、オドメーターが三十二万キロを指していて、オーディオは音量のつまみが壊れている上に、入っているCDがずっと再生されていて、同じアルバムの曲を繰り返し流している。

 ほとんど明かりのない田舎の国道を走りながら思うのは、これから『資源の取り合い』になるということ。拠点となるホテルが休業状態になったのが三月。すでに営業は再開しているけれど、その間に積もった依頼の数は凄まじくて、今の人手では到底こなせない。今回も、そんな事情があったから、わたしがドライバーをやる羽目になった。

 福住のいびきが聞こえてきて、わたしは苦笑いを噛み殺した。ついさっき人を殺したことなんて、もう覚えていないだろう。でも、自分が死にかけたことはどうだろうか。そういう恐怖は、遅れてやってくる。荷室から漂う血の匂いが濃くなってきたのを感じて、わたしは窓を少しだけ開けた。そして、百五十キロを無言で走った。深夜一時になって、電気が消えた『沖浜漁業連合』の看板を通り過ぎたとき、ようやく小さく息をついた。沖浜グランドホテルは、海に面した終端に建っていて、わたし達のような人間の身の回りを管理する、拠点の役割をしている。

 福住のような人間のことは、まとめて『モズ』と呼ぶ。厳密な決まりはないけど、殺しの前後に上階の部屋が一室、あてがわれるようになっている。そして、モズたちの行動は、逐一監視されている。フロントも、料理係も、ホテルの制服を着る全員が関係者だから、車の中で寝るほうが気楽かもしれない。十年以上前に廃業した旅館跡を通り過ぎて、わたしはホテルの駐車場に続く細い道へ入った。

 フロントでは、駐車場に『特別な車』が入ってきたことを知らせるランプが光っただろう。そこから一気に慌ただしくなる。まず、使われていない地下駐車場の奥にかけられたビニールシートの奥で、車と死体の処理をする準備が始まる。何人か代替わりしているけど、常に一人が働いていて、『カラス』と呼ばれている。他にも数人の女性従業員が決まった名前を持っていて、連絡係は『ヒバリ』、部屋の管理は『クジャク』、資材の管理は『ツグミ』、リーダーは『カワセミ』と呼ばれる。そして、役割が割り当てられていない見習いは、『メジロ』。ここ数年で、カワセミ以外の全員が代替わりした。

 地下駐車場に入ってハイビームに切り替えると、ビニールシートが引き開けられて、薄暗い通路が姿を現した。床に敷かれた大きなシートの上にハイエースを停めると、福住のいびきも止まった。わたしが車から降りると、カラスがショートカットの茶髪を左右に振りながら前髪を視界から追い払って、ぺこりと頭を下げた。

「お疲れっす。おかえりなさい」

「こんばんは」

 わたしはそう言うと、端にブロックを括り付けてシートを持ち上げるのを手伝った。カラスは棒付きキャンディーを口の中に入れたまま、器用に笑った。

「あざす」

 福住は助手席から降りると、カラスに目で挨拶をして、わたしに言った。

「じゃ、お疲れ」

 フロントに上がっていく後ろ姿は、二十五歳のわたしと同い年とは思えない。仕事のときは目つきが変わるけど、普段はずっと老けて見える。

「福さん、不愛想っすね」

 カラスは頭が砕けた死体を見ながら、意地の悪い笑顔を作った。モズが標的の顔を撃つことは、滅多にない。人相が分からなくなると、身元の証明に歯型の照合が必要になるからだ。

「福さんをかばうわけじゃないけど。これはわたしが撃ったの」

「そうなんすか」

 カラスは二十歳になる。どうしてわたしが銃を撃つ羽目になったのか、その理由を考えているだろうし、頭にはほぼ正解に近い答えが浮かんでいるだろう。

「ツバキさん、モズやってたんすか?」

 ホテルでは、わたしは『ツバキ』と呼ばれている。予算を管理する立場で、ホテルを運営する側だ。部屋は用意されているけど、カラスのように住み込んでいるわけじゃない。

「昔はモズだったよ」

 この世界に入ったのは、八年前。わたしは十七歳だった。モズとして、二年仕えた。ホテルに移ってからは暴力と無縁になったけど、走っていないときでも、走れるということを常に証明し続けたいから、訓練は続けている。そうやって忠実な『メンバー』でいれば、人手不足なときにドライバーに選ばれて、殺されかけることができる。

「あとはよろしく」

 そう言うと、わたしはフロントに上がった。受付以外は真っ暗で、福住が自動販売機でスナック菓子を買っているのが見えた。わたしは、関係者用の通路を通って事務所を通り過ぎると、すぐ隣にある自分の部屋に入った。埃と血で汚れた服を着替えて、まずやることは、自分の顔の確認。鏡の前に立って、表情を作る。人を殺したのは、六年ぶりだ。モズだった頃も、殺しからは距離を置いてきた。ほとんどの場合、わたしの仕事は人の気を逸らせることだった。大きな交通事故や、火災。その他、人目を引くものなら何でも。標的の護衛が気を取られたり、関係者が持ち場を離れざるを得ないような状況を作って、『殺し』をお膳立てする。殺し自体を見る必要がないから、気分は楽だった。

 わたしは元々、モズには向いていなかった。十六歳になったばかりの頃は、何事もなく高校生活が続くと思っていたぐらいなのだから。バレーボールと、バイオリンと、父が乗っていた高級車に、母の描いた絵。わたしが友達の家に外泊した夜、それが全部なくなって、父は指輪のくっついた指、母は川底に沈んだ頭になった。わたしは、当然と思っていた身の回りの物が、どういうお金で築かれていたのかということを、全部なくなってから悟った。父には特別な知り合いがたくさんいて、家族を失ったばかりのわたしを助けてくれたのも、その一人だった。

『生き残った以上、これからも悪い奴らに狙われるかもしれない』

 その言葉を聞いたとき、自分が死なずに済んだのは、ただの偶然だったということを知った。知り合いの知り合いを通じて、わたしのことを知る人間がどんどん増えていった後、ついに田舎の喫茶店で待ち合わせをして、話をした。とにかく、自分が置かれた状況から逃げ出すことだけを考えていた。

『羊のままでいいのか?』

 古ぼけたテーブル越しにそう聞かれたわたしは、首を横に振って、はっきりと答えた。

『狼になりたいです』

 そうやって、わたしは自分の人生を力ずくで軌道修正した。天職だと思ったことはないけど、どうにかして、自分の居場所を確保できている。眠る以外、できることがあまりないこの部屋も、その一つ。それでも、今日はやることがある。わたしはベッドの端に座って、ビジネスバッグを開けた。ほとんどは化粧品や頭痛薬などの日用品だけど、今日は便箋が入っている。わたしは、レターオープナーで開いて、そっと中身を取り出した。綺麗に揃えられた花壇のように整った、バランスのいい字が連なっている。

 用紙はいつも同じで、タイトルのような位置にイタリック体の英語が書かれている。訳は、『親愛なる者へ』。ベッドサイドのランプのつまみを回して手元を明るくすると、わたしはその文面に目を通した。内容のほとんどは、日常。去年までは、勉強を教えてくれる先生の話や、運動のときによく一緒になる男の子のこと。

 このやり取りは、もう六年に渡る。

 綺麗な字で書かれているのに、今でも文末の『速水さおり』という署名だけが、子供の面影を残している。最初に手紙のやりとりをしたとき、彼女は十二歳で、書き出しは『はじめまして』。途中で打ち切られたような文末には、まだ署名がなかった。読み終えて、部屋の光にかざした時、消しゴムで最後の一文が消されていることに気づいた。微かな筆跡を辿ると、本当に書きたかったことが浮かび上がってきた。

『どうして、わたしの親は殺されたんですか』

 わたしは、モズを辞めてから数年、孤児院のサポートをするボランティアをしていた。わたしの顔を見たことのない子供たちは、顔を合わせる相手には言えない悩みをつらつらと書いて、返事を待つ。大した事は書けないし、ボランティアの登録を外れてからは、規則上は一通も来なくなるはずだった。それでも、速水さんの手紙だけは、数か月に一通程度のペースで、残していた私書箱に届き続けた。

 核心に触れる一文を打ち消すのに、どれだけの苦痛を乗り越えなければならなかったか。頭の中でずっと同じようなことをやってきたわたしには、その気持ちが理解できた気がした。だからこそ、わたしとのやりとりでは、思いついたことは、何も消さなくてもいい。そう思って、消された一文への返事も書いた。

『どんな表現を使ってもいいから。書くのをためらわないで』

 それが後押ししたのかは、今となっては分からない。わたしは、手紙を読み始めた。最近は趣味の話が多い。好きな音楽、場所、映画やテレビ番組。去年まで頻繁に登場していた、『バスケが好きな高松くん』の話題は、もう書かれていない。仲が良かった『遠野さん』は、親戚の家に引き取られたという文章を最後に、登場しなくなった。どんな人生にも、分岐点がある。そう思いながら読み進めていると、ドアがノックされる音が鳴った。わたしは、途中まで読んだ手紙をビジネスバッグへ戻して、言った。

「はい、どうぞ」

 カワセミがゆっくりとドアを開けて、言った。

「今ならご飯あるけど、どうする?」

「いただきます」

 わたしはそう言ってスニーカーを履くと、カワセミと一緒に従業員用の食堂へ入った。福住が、真ん中のテーブルでビールを飲みながらくつろいでいて、そこから二つ離れたテーブルに、わたしの仕事仲間が座っていた。彼女は『アザミ』。わたしと同じ運営側の人間で、去年までは中継地点を受け持っていた。職場では年上の後輩だけど、経歴からすれば大先輩で、筋金入りだ。アザミは、十四歳の時から十五年間、ある一家の娘として中継地点に入り込み、取引を監視していた。それが大騒ぎになって潰れたのが、去年の秋。ホテルに戻って来て、今は人事を担当している。まだ一年も経っていないのに、アザミは誰よりも深く仕組みを理解している。

「あなたが撃ったの?」

 トレードマークのような黒縁眼鏡をずり上げながら、アザミは小声で言った。硝煙の匂いは、どうやっても消せない。わたしはうなずいた。

「はい、危ないところでした」

 アザミは、わたしの肩越しに福住の顔色を伺うと、コーヒーを一口飲んだ。椅子が引かれる音が鳴って、振り返ると、福住が出て行く後ろ姿が見えた。アザミは小さく息をつくと、言った。

「それを聞きたかったの。あなたがいなかったら死んでた?」

「おそらく」

 わたしが言うと、アザミは感情を切り離すように目を伏せた。立場上、常に人の行動を見極めている。そして、その仕草を見せるときは、何かの結論を導き出したときだ。カワセミがサンドイッチとコーヒーを置いてくれたけど、まだ食べる気にはなれなかった。わたしは言った。

「聞いていた話と違って、相手は散弾銃を持ってました」

 続けて顛末を全て話すと、アザミは小さくうなずきながら聞いていたけど、おそらくもう頭には入っていない。結論はすでに出ている。アザミは言った。

「何か預かったり、託されたものはある?」

「いいえ」

 その短い答えで十分だった。わたしはコーヒーを一口飲んだ。アザミはおそらく、これから上司に連絡を取る。そして、福住は『引退』することになるんだろう。それが自然死なのか、派手な自殺になるのかは分からない。でも、わたしが部屋に戻って、朝起きる頃には、福住はこの世にいない。

 わたしは、常に死を招く位置に立っている。アザミも同じだし、この業界にいる人間は皆そうだけど、わたしは特等席だ。どんな手段でも、人の死に繋がるようになっている。言葉も、この手も、全てが凶器だ。グロック三六の反動は、親指と人差し指の間に残っている。

 無言でサンドイッチを食べていると、アザミは言った。

「珍しいね、一言も話さないなんて」

「外の話なんですけど」

 わたしは前置きした上で、続けた。

「家庭の事情とか、込み入った話をしなくなった友達って、どんな心境の変化があったのか分かりますか?」

 速水さんの手紙はまだ半分しか読んでいないけど、映画の公開が遅れたことに対する不満だけで、数行が費やされていた。自分の周りにいる人間の話が、最近は出てこない。アザミは残り少なくなったコーヒーを見つめながら、笑った。

「そういうのは、ツバキの方が詳しいんじゃないの?」

「いえ、そうでもないんですよ。ほんとに分からなくて。年齢的なものなのか」

 わたしが苦笑いを浮かべると、アザミは言った。

「私は、ずっと音楽を聴いてた。学校でも、音楽の話以外は、あまりしたことがない。趣味が合えばその話だけで盛り上がれるし、内容も私自身のことじゃないから、気楽だし」

 ボリュームを絞るように味が消えていくサンドイッチを噛みながら、わたしはうなずいた。アザミはコーヒーを飲み干すと、言った。

「その友達のことは分からないけど。自分には真っ当な人生が用意されてないって、思ったんじゃない?」

 部屋に戻って、わたしは手紙の続きを読んだ。趣味の話が続いた後、新しい段落に切り替わって、仕切り直すように綺麗な字が連なっていた。ここで一度書くのをやめたのかもしれない。

『私は、十八歳になりました。今日まで、両親を殺した人間のことを知りたいという思いは、消えることはありませんでした。でも、書くのをためらわないでと返事をくれたことで、今日までそのことに触れずに来ることができたのだと、感謝しています』

 わたしはベッドに腰かけたまま、柔らかい光を跳ね返すデスクランプを見つめた。あなたは、復讐を求めている。そして、敢えて書かないことで、そのことをわたしに知らせようとしている。続きを打ち切るように、右下に署名があった。いつも通りなら、そのまま起きて返事を書き始めただろう。でも、最後の一文に答えるには、一度頭をリセットしたほうがいい。わたしは横になって、ベッドに頭を預けた。

     

 朝六時に目が覚めた。夢の続きを求めるように、右手の指が銃を握る形に曲がっていた。昨日一人殺すまでは、六年前に殺した二人が最後だった。その二人は、記録には載っていない。わたしは、モズをやっていた割に、一人も殺したことがなかった。

 タイヤがパンクして、路肩に寄せられた白のマークX。さほどスピードを出していなかったし、パンクしたのは後輪だったから、まだコントロールを失わずに路肩に寄せる余裕はあっただろう。助手席から降りてきた男が、ぺしゃんこになった左後輪を見て、力任せにホイールを蹴った。もう一人が運転席から降りてくると、トランクを開けた。すでに営業していない製鉄所の前を走る、寂れた産業道路。途中で一方通行に切り替わっていて、そこから数百メートル走れば、市街地に続く明るい道路に行き着く。二人はおそらく、どうして防犯カメラがない真っ暗な道に入ったこのタイミングで、タイヤがパンクしたのかということが、気にかかっていただろう。わたしがマークXのタイヤに穴を空けたのは、ニ十キロ手前。十キロ程度で抜けるようにピンを刺した。四五口径を、二発ずつ使った。

 食堂に行くと、カラスが一人で朝食を食べていて、わたしの顔を見ると、小さく頭を下げた。ヨーグルトとコーヒーを持って向かいに座ると、カラスは長いまつ毛を追い払いたいように、瞬きを繰り返した。

「聞きました? 福さん、ベッドで死んでたって」

「そうなの」

 わたしは、コーヒーを一口飲んだ。想像していた通りだった。あの後、アザミは忙しくしていたに違いない。

「心臓弱かったらしいっす。そんな持病あったのかな」

 モズには、死亡診断書なんてものは存在しない。遺骨はもちろん、墓もない。カラスが木っ端微塵にする。わたしは言った。

「わたしには、個人的な話は何もしなかったわ」

「まあ、できないっすよね」

 カラスは意地悪な笑顔で、オレンジジュースを飲み干した。がらんとしたホテルの中にぽつりぽつりと存在する、人のいる場所。様々な会話が交わされているけど、誰もその内容を盗み聞きしないし、自分が話しているのが誰からの言葉なのかということすら、はっきりとは理解していない。

 スーツに着替えてフロントから出て行くところで、ヒバリとすれ違った。

「いってらっしゃいませ」

 笑顔で応じると、わたしは駐車場で自分の車に乗り込んだ。ポケットを探ると、二つ折りになったメモ用紙が出てきた。さっきすれ違ったときに、ヒバリがポケットに忍び込ませたのだろう。

『玉突きで一人昇格する。顔合わせはパールで、一週間後』

 アザミの字だった。パールというのは、郊外にぽつんと建つ喫茶店で、駐車場の隅に申し訳なさそうに建っている。二日ほど羽を伸ばしたらホテルに出勤するのに、どうしてメモでわざわざ伝えたんだろう。福住が死んだことについて、わたしが色々事情を聞くと思っているんだろうか。自分の立場をわざわざ危うくするようなことなんて、するわけがないのに。何にせよ、アザミの手元に資料が届いているのなら、ルール上はわたしも確認しておかなければならない。エンジンを停めて車から降りると、わたしはフロントを通らずに、従業員用の通用口から事務所に入った。わたしのデスクの上に、資料が一式置かれているのが見えた。

 本名欄が黒塗りになっているのは、いつも通り。その下には『咲丘まい』と但し書きされている。書類はいつも、この書式だ。これから仕事を重ねていくと、後ろに関わった『殺し』の情報が付け加えられていく。右肩には、澄ました表情の顔写真。普通の会社の履歴書と違うのは、出身校や職歴の代わりに、大きな事件に関わった履歴が載っているということ。

 二〇一二年、一家殺人で家族を失い、その事件は今でも未解決。

 わたしは、椅子に腰を下ろした。モズは弱みを見せない。持病があっても、折れた骨がまだくっついていなくても、同じ表情で笑うし、同じ調子で話す。何より、個人的な話はしない。わたしは、ビジネスバッグから手紙を取り出した。速水さんの話題から『人』が消えていったのに、どうして気づかなかったんだろう。孤児院でボランティアをする人間は何人かいて、わたしもそうだったけど、その目的は人材を確保することだ。誰かが、速水さんに目をつけたのだ。手紙の書き方が変わってから、半年以上が経っている。顔合わせをするまでに半年近くを要したのは、わたしも同じだった。

 この履歴書は、速水さおりのものだ。

 わたしは、自分の資料を棚から引っ張りだした。わたしの経歴は、はっきり言って薄い。最も目を引くのは、孤児院でのボランティア。八年前の自分の写真を見ていて、ふと気づいた。埃をうっすらと纏っているけど、手の形に消えている箇所がある。それが、アザミが一度開いた跡だということに、すぐ気づいた。福住の引退が決まったあと、新しく昇格する人間の資料を見ながら、夜通し調べ物をしていたに違いない。わたしは、誰も触れない昔の棚を眺めながら、目を凝らせた。やがて、同じように埃の跡が消えているファイルを、二つ見つけた。それをデスクの上に並べて、わたしは埃を綺麗に払い落した。尾道と井田は、ベテランだ。殺しの履歴は長い。最後に赤い紙が綴じられていて、それは仕事中に命を落としたことを意味する。真っ赤な紙には短く、日付だけが記されている。

『二〇一四年 二月七日』

 二人の殺しの履歴を辿ると、それは最後の方のページにあった。二〇一二年 八月十四日。死んだ人間のことだけが書かれている。個人名は伏せられているし、事情も分からない。でも、わたしには分かる。これは、速水さおりの両親。

 アザミは、どこまで知っているのだろう。

 次、モズに昇格する人間が、かつての被害者の娘だということは、間違いなく知っているだろう。でも、それ以外は? わたしがずっと、手紙のやり取りを続けているということを、知っているのだろうか。頭に浮かぶのは、一人では答えが出ないし、確認もできないようなことばかりだった。

「どうする?」

 突然声がかかって、わたしは振り返った。アザミが眠そうな目を庇うように細めながら、わたしの隣に並んだ。制服の胸ポケットから取り出したクロスを広げると、神経質な手つきで黒縁眼鏡を拭きながら、続けた。

「あなたの言ってた友達って、この子のこと?」

 わたしは答えずに、速水さんの資料を指でなぞった。アザミは続けた。

「すぐに福住の代わりができるぐらい、腕はいいそうよ」

「あの後、上司と話したんですか?」

 わたしが訊くと、アザミはうなずいた。

「それが正規の手続きだからね。あなたの様子もちょっとおかしかったし、色々と気になってることを調べさせてもらったわ」

 アザミは、しばらく速水さんの顔写真を見つめていたけど、残念そうに目を伏せた。

「たまに、こういうことが起きるの。全体像を掴んでいる人間がいないから」

 それは、全体像を掴んでしまった人間は、追われる立場になる確率が高くなるからだ。この業界では皆、自分のところに情報が集まるのを避ける。ある程度のことには目を瞑って、流れに身を任せた方が楽だから。

「まだ、手紙のやり取りしてるの?」

「はい。ここ半年ぐらいは、変な感じでした」

 これがきっかけで、わたしも『引退』することになるのだろうか。アザミは一瞬わたしの顔を見ると、笑いながら首を横に振った。

「辞めないでよ」

 その言葉が意外で、わたしは苦笑いを浮かべた。そんな選択肢はないはずだ。アザミは言った。

「この子は、あなたと境遇が似てる」

 その通りだ。うなずいたとき、アザミはわたしの背中に手を置いた。

「私たちに、人の人生を左右する力はないわ。打ち切ることしかできない」

 長い沈黙が流れた後、最初に巻き戻ったように、アザミは言った。

「どうする?」

「何をですか?」

 わたしが訊き返すと、アザミは口元だけで笑顔を作った。

「気まずいなら、あなたを異動させることもできるよ。人を欲しがってる拠点は、あちこちにあるし」

「大丈夫です」

 そう言うと、わたしは資料を棚に戻していった。アザミはわたしの様子をしばらく見ていたけど、あくびを噛み殺すと、言った。

「言って」

「一日追加で、休みを頂きたいです」

 アザミはうなずいた。わたしは事務所から出ると、一度部屋に立ち寄った。フロントを通って、ヒバリの姿を探した。客のゴルフバッグをカートに載せて、送り出したのを見計らって、部屋で走り書きしたばかりのメモを手渡した。

「アザミにお願い。一日待って」

 ヒバリは無言でうなずくと、きびすを返してフロントへ戻っていった。

 わたしは、車に戻った。エンジンをかけて、ポケットから再びメモ用紙を取り出した。大抵は、あれを取りに行けとか、誰かと会えとか、自分がこれからやるべきことが書かれている。そこに、自分以外の人間の行動が書かれることは、滅多にない。速水さんの、顔合わせの場所。パールは、わたしもよく知っている。このメモ一つだけで、アザミの立場は危うくなる。人事以外の人間が知ることは、許されないはずだ。

 百キロ近く離れた自宅まで戻ると、わたしは返信用の便箋と用紙をテーブルの上に置いた。どうやって返事を書くか、運転しながらずっと考えていた。あらかた書き終えた後、金庫のダイヤルを回して靴箱を取り出した。中に入っている拳銃を手に取って、弾倉を抜いた。記念すべき、最初の仕事。わたしは十七歳だった。

『やるよ。ガラクタだけど、ないよりはマシだろ』

 尾道は笑いながら、この拳銃をくれた。結局、一発も撃たなかった。だから、経歴の中に人を殺した記録はない。それから日が経って、二〇一四年。誰も通らない産業道路。パンクして傾いたマークX。あのとき、振り返った顔。

『おう、お前かよ。ホテルはどうだ?』

 それが、尾道の最後の言葉。井田はタイヤと格闘していた。わたしは二人の体に一発ずつ撃つと、頭を撃って止めを刺した。記録に残っていない殺し。わたしは、四五口径の箱を引き寄せると、六発を弾倉に装填した。返事を全て送り出した後は、ベッドに転がったまま眠気が来るのに任せながら、右手の感覚を思い出そうとした。あのとき、体の中心に弾を受けて、呆気に取られた表情で振り返った井田は、銃口の後ろにわたしがいることに気づいて、自分が死んだ後のことを想像したらしく、絶望したような表情を浮かべた。何故かは、理解できる。

 わたしの関わった殺しが、解決することはないからだ。井田の仇を討つ人間は、わたしが自分で告白でもしない限り、この世に存在しないことになる。

   

 追加で休みを取った日。平日だけど、ほとんど車の往来はない。廃道の終点にある、街を見下ろせる展望台のベンチ。そこに座って、わたしはコーヒーを飲んでいる。アザミは『音楽』に逃げると言っていた。わたしは『景色』に逃げる。遠目になればなるほど、美しく見える。速水さんは、返事が小包だったことに驚いただろうか。散々迷った挙句に、どうにか踏み出した書き出し。

『これを送ることで、わたしの命は危うくなるかもしれません』

 本題から入ってしまったほうがいいと思って書き始めたけど、いざそうすると、筆は止まらなかった。

『あなたには、仇を討つ権利があります』

 一人前のモズは、個人的な話を笑顔で避ける。死にかけた直後でも、体の骨が折れていても笑うような、弱みを見せない人間でなければならない。そのためには、個人的な復讐を持ち越してはならない。

『あなたの両親を殺したのは、殺し屋です。実行犯の内二人は、すでに死んでいます』

 二〇一二年の、忌まわしい一家殺人事件。誰も捕まらなかった。雨が降っていて、街の反対側で火災が起きたから警察の初動は遅れたし、証拠も雨で洗い流されていた。おまけに、家までの道に設置された唯一の防犯カメラは、二日前にトラックが荷台をひっかけたことで故障し、機能していなかった。

 そうなるように、わたしがお膳立てした。

 当日は家の前で、あの四五口径を手に握りしめて、見張りをしていた。テーブルがひっくり返る音、悲鳴と銃声。全て覚えている。当時のことを思い出していると、筆はすらすらと進んだ。

『一人は、今も生きています』

 同封された、わたしの顔写真。それを見た速水さんは、おそらく手放そうとしないだろう。ずっとやり取りをしていた相手から、求めていた真実が送られてきたのだから。

『木曜日の夕方四時に、展望台で待っています』

 遠くで、材木を切る轟音が聞こえてきて、わたしは景色から目を逸らせた。こんな日が来るなんて、想像もしていなかった。わたしが書いた、最後の一文。

『万が一、私がいなかったら、それは、私が先手を打たれたということです』

 速水さんは、この状況をどう理解するだろう。待ち合わせ場所に座っているのは、家族を殺した最後の生き残り。彼女がずっと文通を続けてきた『相手』は、自分の両親を殺した女に先手を打たれたのだ。どうしようもなく、最悪な事態。でも、彼女は丸腰じゃないだろう。そうなったときのために、わたしが送った、あの四五口径を持っているはずだ。銃声が鳴っても、材木工場から響くカッターの轟音にかき消されて、何も聞こえなくなる。

 全員の資料をくまなく確認したアザミは、わたしに対処する機会を与えようとした。でも、そんなことをして生き延びても、さらに深い蟻地獄が待っているだけだ。ヒバリに託したメモは、もうアザミの手に渡っているだろう。

『復讐を受け入れます。彼女を守ってください』

 遠くで、枝を踏んだような、微かな音が聞こえた。人目につかないよう、森の中を迂回してきたのだろうか。例え、羊か狼しか選べなくても、あなたが自分の力で運命を切り開くことを、心から願っている。

 わたしの物語は終わった。それで構わない。

 あなたの物語の、最初のページに刻まれるなら。

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