Jane Doe

二〇〇四年 二月 夕方 十五年前

   

 だぶついた裾からこれ以上空気が逃げ出さないよう、理奈はサイズの合わないジャージの袖を掴んだ。小柄な十四歳の自分には、何もかも大人サイズで、場違いだった。隙だらけの上着に、頭を大きく避けて、かろうじてすがりついているような白い耳当て。風越しに、前に立つ二人の会話が聞こえる。

「もともと、なんて書いてあったのかな。最初の文字は分かるけど」

 屋代耕助は、後ろに立つ理奈と同じように、隣で首をすくめる妻の香苗に言った。香苗はうなずいたが、耕助からすれば震えているのと見分けがつかないと思い、声に出した。

「最初の文字は、ユだよね」

 二人は共に四十五歳で、寒い地域の出身だったが、長い都会暮らしでその感覚はすっかり鈍っており、豪雪地帯でもない地域の『普通の田舎の冬』であっても、耐えられてせいぜい十分というところだった。

「ユか……」

 耕助は、枯れて折れ曲がった木の枝に覆われている、屋根を見上げた。廃墟のドライブイン。かつて店の名前を掲げていた箇所には、鋲を打ったような跡だけが残り、そこには『ユ』に続けて、四文字もしくは五文字が並んでいたようだった。後の部分は、外壁が落ちており、元々の文字は予測できなかった。

「ユから始まる言葉か……」

 耕助が言うと、香苗は首を傾げながら理奈の方を振り返り、意見を伺うように笑顔を見せた。理奈は耳当てをずらせると、呟いた。

「ユニオンとか?」

 その言葉の響きに耕助も振り返り、二人は笑顔でうなずいた。このドライブインは改装されて、再び息を吹き返す。耕助は思った。今はどこから見ても廃墟だが、小ぎれいにして看板を光らせれば、見違えるだろう。

「駐車場には、砂利を敷いたほうがいいわね」

 ひび割れだらけのアスファルトを見下ろしながら、香苗が言った。耕助はうなずいた。やることはたくさんあるが、まず名前が大事だった。

『ドライブイン ユニオン』

 耕助が、考案者である理奈の方を振り返ると、理奈は口の端だけで笑顔を作ったが、寒さに負けたように首をすくめた。

  

  

二〇一九年 十月 夜 現在

  

「あいつの顔、見たかよ」

 里川が助手席で笑った。人一倍びびりやすい性格なのは、よく知っている。村瀬はハンドルを握りながら、聞こえないように鼻で笑った。里川は巨体の割に、気が小さい。だからこそ、車でこうやって走っている間、同じことを何度も言い聞かせるように話している。そうでもしなければ、『あいつ』がその『顔』になるまでにあったゴタゴタを思い出すからだろう。村瀬はそう思いながら、ハンドルを持つ手に走った激痛に顔をしかめた。左手でハンドルを持つなと言い聞かせていても、癖で手を添えてしまう。これがマニュアルの車だったら、完全に詰んでいた。医者に見せたら、親指と人差し指の間に、新たな指でも追加するつもりだったのかと言われるだろう。それぐらいに深い切り傷が走っている。止血して包帯を巻く余裕はあったが、包帯を買いに行ったコンビニの防犯カメラに、里川の顔が映っただろう。村瀬は思った。自分は、店には入らずに、相当手前で待っていた。万が一のときは、単独犯ということでカタがつくだろうか。

 死人に口なしだ。村瀬はセンターラインを踏みそうになってハンドルを小刻みに切りながら、神経質に笑った。

「今更ビビってんのか」

 村瀬の笑い声を聞き逃さなかった里川は、目ざとく反応した。村瀬は首を横に振った。

「手が痛いんだよ。土壇場で逃げやがって」

 ニュースをチェックしておくべきだったのだ。二週間前に数キロ離れたところで押し込み強盗があったと知っていたら、あの家は選ばなかった。老夫婦が二人で住んでいるというところまでは知っていたが、事件の影響を受けて防犯意識が高まっているというところまでは、想定できていなかった。おまけにあの二人の『防犯対策』は、すぐ通報できるように携帯電話を傍に置いておくとか、そういう生易しいものではなかった。寝室から出てきた夫は、すでに右手に包丁を持っていた。押し入って一分も経っていなかった。その刃は止めようとした村瀬の手に吸い込まれ、里川はだらしなく尻餅をついて逃げようとしたが、焦りすぎて方向感覚を失い、引き戸に激突した。村瀬は咄嗟に手を引き、刺さったままついてきた包丁を手から抜くと、それで夫を滅多刺しにして殺した。火事場の馬鹿力。それを持っている人間と、そうでない人間がいて、自分は明らかに前者だった。里川にそんな根性はない。自分より弱いと分からない限り、里川の拳には力が入らないようにできている。里川は引き戸の破片を纏ったまま、妻の首を絞めて殺した。村瀬はその滑稽さと手際の悪さを思い出して、笑った。

「たった五十万のために二人殺したんだ。解散だぜ」

 村瀬が言うと、里川は鼻を鳴らした。飾りだと言いながら使いたかったに違いない、小さな三八口径のリボルバーに一度触れると、言った。

「その手じゃあな」

 おそらく、本当の意味は分かっているんだろう。村瀬は会話を打ち切って、運転に集中した。オーディオから流れている音楽は、このカローラフィールダーを貸してくれた岩崎の趣味。ミッシェルガンエレファントのドロップ。里川は高校の同級生、岩崎とは大学で知り合った。同い年で、三十二歳になるが、学生時代を各々のタイミングで終えてからも、晩飯を食べに集まったり、交流は続いていた。里川が犯罪者の仲間入りをしてからは、全てがその方向へと流れた。今や、里川のジーンズには、拳銃が突っ込まれている。しかし、岩崎の車からは、まだ後戻りができた時代からずっと、このバンドの曲が鳴っている。

「何時だ?」

 里川は独り言のように呟き、スマートフォンの時計を見て、納得したように宙を向いた。村瀬は自分のスマートフォンをポケットから取り出そうとしたが、傷口が開いたらまずいと思い直して、車載時計で時間を確認した。午後七時半。まだ早い。林道の途中にぽつりと建つ一軒屋だから、深夜ではなく、夕暮れ時を選んだ。遠くで農機具が全力で動いていて、そのエンジン音が山中に響いているのは、逆に好都合だった。道路わきで赤く光る看板に顔を照らされ、村瀬は顔をしかめた。里川がぐるりと首を回して振り向き、言った。

「あー、ちょっと寄ろうぜ」

「正気かお前」

 村瀬が言うと、里川はうなずいた。

「昼、食ってねえんだ」

 村瀬はチェーン脱着所でフィールダーを転回させると、ため息をつきながら元来た道を引き返した。砂利を鳴らしながら駐車場に入ると、屋根で堂々と光る看板を見上げた。

『喫茶・食事 ドライブイン ユニオン』

 里川が言った。

「変わった名前だな」

 駐車場には、白色のアルトラパンと、クルーキャブのキャンター、シルバーのレガシィセダンが停まっていた。レガシィの隣にフィールダーを停めた村瀬は、ルームランプを点けて、包帯の様子を確認した。血が滲んでいたら、即通報だろう。ベルトに挟んだ拳銃をトレーナーの裾で隠した里川は、言った。

「ビビってんのか。ちょっとメシ食うだけだ」

   

 レガシィの隣へ隠れるように停まったカローラフィールダーを見て、耕助は香苗に目配せした。店に入ってきた二人は、片方がプロレスラーのようにどっしりとした大柄な体格で、もう片方は目つきが鋭い以外は、中背中肉でこれといった特徴のない出で立ちだったが、左手に包帯を巻いていた。

「いらっしゃいませ」

 香苗が言い、二人を席に案内した。村瀬と里川はお冷を一口飲んで、メニューを読んだ。ところどころ手書きで、字は若い人が書いたらしく、端が丸い愛嬌のある字だった。村瀬は、香苗の後ろ姿を目で追った。店主とその妻らしき二人は、おそらく六十歳ぐらいだろう。バイトらしき女の子は見当たらない。娘が書いたのだろうか。村瀬はそこまで考えて、一度強く瞬きした。強盗をした直後は、頭が切り替わらない。どんな場所にいても、『標的』として見てしまう。

「ごっそさんす」

 トラックの持ち主らしき、作業服姿の三人組が爪楊枝交じりの声で店主に声をかけ、会計を済ませると出ていった。村瀬は、声の方向へ目を向けた。それまで三人に塞がれて見えなかったが、さらに奥の席で、スーツ姿の男が新聞を読んでいるのが見えた。五十代ぐらいに見えるが、顔色は青白く、実際にはもっと若いのかもしれなかった。ビジネスホテルにレストランがなかったのか、出張の途中で時間の計算を間違えたのか、少し場違いな場所にたどり着いてしまったようだった。

「レガシィで来たんだな。贅沢なサラリーマンだ」

 里川が小声で言った。村瀬はメニューに視線を戻しながらうなずいた。同じことに同じタイミングで気づくのは、里川と組む数少ない利点の一つだった。ただ、それは学生時代からの腐れ縁が成せる業で、特に自慢できる技能というわけでもなかった。

「すみません」

 村瀬が言い、香苗が二人分の注文を聞き取ると、厨房へ入っていった。里川はその様子を見ながら思った。店主はやや小柄な方で、客商売にしては目つきが悪い。改めて店内をぐるりと見回して、『出前のご用命も承ります』という張り紙があることに気づいた里川は、メニューの字をじっと見つめていた村瀬に、小声で言った。

「一人か分からないけど、出前に出てんじゃないか」

 村瀬は壁の張り紙を目で追い、やっと納得したように小さく息をついた。生まれつき強盗をやると決めていたみたいに、その仕草の一つ一つは、仕事にとりつかれていた。スーツの男が立ち上がり、村瀬と里川の隣を通り過ぎると、トイレに入っていった。中から、内臓を全て吐き出すような勢いの咳払いが響き、里川は思わず肩をすくめた。村瀬は顔をしかめて、そのまま苦笑いすると、厨房の中を横目で見た。店主と妻は顔を見合わせて、呆れたように笑った。その様子を見ていた村瀬は、声には出さなかったが、あのスーツの男は道に迷ったのではなく、ここの常連なのだろうと結論づけた。

   

 消防署の中でも、指令課は特別、理奈のことを気に入っていた。この後に尋ねる警察署でも、強行犯係の面々は、わざわざ『世間話用の席』まで用意して、出前にやってくる理奈のことを待ち構えている。

「おー、いつもありがとね」

 笹木課長は待ちきれないように、手を消毒しながら言った。理奈は出前箱からハンバーグ定食の皿を取り出すと、まず課長に手渡し、残りの職員の前に各々の料理を置いていった。本当なら受付まで誰かが代表で取りに来るから、こうやって中には入ることはできない。しかし、世間話が目的となってからは、いつしか中まで呼ばれるようになり、各職員の前に料理を置いていくという習慣が定着した。

「この後は、また合法ヤクザんとこに行くの?」

 笹木は笑顔のまま茶化すように言うと、ラップを丁寧にはがした。理奈は鼻の頭までずれた黒縁眼鏡をひょいと上げると、うなずいた。

「はいっ。一課の方からも、ご注文いただいてます」

「おっ、合法ヤクザで分かるんだね」

 笹木がからかうように言うと、理奈は目を一瞬丸くして、俯きながら首を横に振った。

「いえ……! あ、あの。この後はいつも警察署の方へお邪魔するので、決してそんな風に思っているわけでは……」

 数人が声を出して笑い、笹木は詫びるように小さく頭を下げた。

「冗談だってば。変わらないなあ」

 理奈が指令課に出前箱を持って現れたのは、八年前の秋が最初だった。二十一歳だった理奈の運転はおぼつかなく、移動中に散々揺すられたハンバーグ定食は、着くころには、半分で盛り付けを諦めたように片方へ中身が寄っていた。受付に現れた笹木は、当時は主任で、『あれ、香苗さんじゃないんだな。おっ、野菜が寄り添ってんねえ~』と言って笑った。理奈は二十九歳になった今も、消防署と警察署では特に子供扱いされており、小柄な上に細身なのもあって、初対面だとまだ高校生に間違われることもあった。昼に出前を取ってくれる事務員の女の人は、『黒縁眼鏡はもったいないよ。もっと色気を出さないと』と言って、色々とアドバイスをくれるが、理奈からすれば、配達している最中にコンタクトレンズが外れるリスクを取るより、長年愛用していて、ずれるタイミングまで把握できている黒縁眼鏡の方が楽だった。

「安全運転でね」

 笹木に送り出されて、理奈はサンバーの運転席に座り、エンジンをかけた。事故か事件が起きたのか、車庫に救急車の姿はなかった。香苗に『九時には戻ります』とメールを送り、ラジオから流れてくる雑音交じりの音楽に耳を傾けながら、思った。店の仕事を手伝うようになって、十年が経つ。小娘だったし、外見は今もさほど成長していない自分が言えることではないが、よくここまで続いたものだと思う。今ラジオで流れている曲は、開業して間もない頃に、店で流したことがあった。あまりに場違いで、客の会話が止まったことも覚えている。ピンクフロイドの、夢に消えるジュリア。有線に切り替える前は、店で流すためのテープを作っていた。

 十五年前。あの店を初めて見た日のことを、今でも覚えている。

    

 ロールキャベツ定食とラーメンが同時に出てきたことに驚きながら、村瀬は厨房でしかめ面を作っている店主を見た。分身の術でも使わないと、同時には出せないような組み合わせに思える。村瀬がラーメンを食べるために割り箸を割ったとき、店の前の道をパトカーがサイレンを鳴らしながら猛スピードで通り過ぎていき、里川が湯気の中で手を止めた。村瀬は一瞬顔を見合わせると、責任を転嫁するようにそれとなく店内を見回した。店主と妻はテレビを見ていたが、スーツの男と目が合った。

 無言で食べ続けていると、半分ぐらいを食べ終えた里川が言った。

「さっきのパトカー、なんだと思う?」

「知らねえよ。なんかあったんだろ」

 村瀬のわざとらしい言葉に、里川は負けないぐらいのわざとらしさで、笑顔を返した。スーツの男が、店主に言った。

「なんかあったんかね」

 ヤスリ掛けしたような、ざらざらとした声だった。その愛想笑いは、顔の輪郭に線を描き足したような皺が刻まれていた。

「最近多いんですよ。こないだも町の方で押し込み強盗があったし」

 店主は、口を開けばそのしかめ面が嘘のように快活で、商売人然としていた。スーツの男は、コーヒー以外、何も注文していないようだった。村瀬はラーメンの残りを平らげながら、二人の会話に耳を澄ませた。スーツの男は諦めたように言った。

「物騒だねえ。夜に出歩くのが怖くなっちゃうな」

 村瀬はその会話を聞きながら、里川に視線を向けた。

「早く食えよ」

 里川はスープを飲み干すと、ベルトに挟んだ拳銃が窮屈なように、少し体を傾けた。またサイレンが聞こえてきて、もう一台パトカーが走り抜けていった。村瀬はスマートフォンを取り出して、時計を見た。まだ、二時間しか経っていない。しかし、あんな人里離れた場所であっても、誰かが訪ねてくるということは十分にあり得る。村瀬はぶり返してきた左手の痛みに耐えながら、思った。こんな場所で油を売っている場合ではなかったのだ。

「出るぞ」

 村瀬は、里川の返事を待たずに立ち上がって、ポケットにスマートフォンを戻した。里川が渋々立ち上がり、伝票をつまみ上げた。村瀬は、ジーンズのポケットが濡れているような気がして、手を持ち上げた。包帯の隙間から、真っ赤な血が流れ出していた。店の中にいる全員と目が合ったとき、里川が拳銃を抜いて叫んだ。

「お前ら全員、そこから動くな!」

 スーツの男が新聞を脇に置いて、両手を上げた。村瀬は諦めたように、店主と妻に言った。

「厨房から出てこい!」

 二人が出てくるのと同時に、里川が言った。

「テーブルの上に携帯と財布を置け。早く!」

 スーツの男が動かないことに気づいた里川は、拳銃を向けた。

「あんたもだよ。何のためかは分かるだろ」

 スーツの男は諦めたように目をぐるりと回すと、財布から千円札を一枚抜き出してテーブルの上に置き、テーブルの前まで歩いてくると、携帯電話二台と財布を置いた。村瀬は中身を確認した。スーツの男は『伊波正司』と言うらしく、免許証の写真も本人と同じぐらいに顔色が悪かった。店主と妻は、屋代耕助と、香苗。三人の名前を把握した村瀬は、伊波に言った。

「二台持ちかよ」

「ボロい方がもうすぐ鳴ると思うんだが、そのときは返してくれるかな?」

「バカかよ」

 村瀬が小突くように伊波の肩を殴り、顎をしゃくった。

「あの席じゃなくて、そこに座るんだ」

 一人掛け用のカウンター席に腰掛けた伊波は、小さくため息をついた。

「財布に、十万円入ってる」

「ぺらぺらうるせえぞ」

 里川が拳銃を向けると、伊波は言いつけを思い出したように両手を上げた。香苗を庇うように少し前に立つ耕助が、言った。

「君らは、さっきのパトカーと何か関係があるのか?」

「それは分からない」

 村瀬は正直に答えた。伊波はテレビを見上げた。

「いつやった? その怪我からすると、それほど経ってないだろう」

「何をだよ? 分からないつったろ?」

 村瀬は言った。わざとやっているのか、伊波は、癪に障る言葉を敢えて選んでいるような節があった。里川が堪えかねたように、伊波に拳銃を向けた。

「お前は黙ってろよ」

 伊波は、銃には勝てないと言うように、力を抜いた。村瀬は、元々伊波が座っていたテーブルを顎で指した。

「あんた、なんで千円抜いたんだ?」

 伊波は肩をすくめた。

「あんたらが財布を取り上げるなら、どうやってメシ代を払えばいい?」

 里川は、手に負えない相手だとでも言うように、耕助と香苗に目を向けた。

「なあ、すぐに出ていくから。警察には言わないでもらいたいんだ」

「今、出ていくのか? これから大騒ぎになるんだぞ」

 村瀬が言った。里川は呆れたように顔をしかめた。

「逃げるしかねえだろ。ここにいたらどうなると思うんだ?」

「あの車から、すぐに割れるだろうが」

 村瀬が食い下がると、里川は耕助に言った。

「あんたの車は、あのアルトか?」

 耕助はうなずいた。香苗は、村瀬と里川の顔を代わる代わる見ながら言った。

「車は貸してあげるけど……、うちの車がカメラに映ったら、警察はあなたたちがここを通ったって、分かるんじゃないかしら」

 里川は、その優しい口調に戸惑いながら、消去法でレガシィのオーナーに違いない伊波に顔を向けた。質問をする気になれずにいると、村瀬が代わりに言った。

「あんたのレガシィは?」

「ナンバーなら貸してやるよ。付け替えたら時間を稼げる」

「余計な世話を焼くんじゃねえ」

 村瀬が吐き捨てるように言ったとき、伊波が置いた携帯電話の内、一台が鳴った。伊波が、何事も起きていないかのように電話を取ろうとしていることに気づいた村瀬は、レジに置かれたベルを掴み、その頭を殴った。

「お前、人の話を聞いてなかったのか?」

 伊波は少しよろけたが、すぐに体勢を立て直すと、言った。

「そいつは、取らないといけないんだ」

「何なんだよてめえは。とにかく出るな」

 村瀬は、伊波が座っていた席に視線を向けた。テーブルの下に、スーツケースが置かれている。視線を戻すと、伊波と目が合った。

「晩飯ついでに、待ち合わせをしてるんだ。その電話の相手は、あのケースの中身を買いに来る。意味は大体分かるだろ?」

 一言多いのは相変わらずだったが、村瀬と里川はその意味をすぐに理解した。今電話を鳴らしている相手は、支払用の金を持っているということだ。

「いくらだ?」

「五千万。まあおれは、ナンバーを付け替えて、今出ていくことをお勧めするけどね。カメラに映りたくないなら、ずっとバイザーを下ろしてりゃ分かりにくくなる」

 伊波はそう言って、笑顔を見せた。真正面から見ると、福笑いを最大限まで人間の顔に似せたように、その顔はいびつだった。村瀬がその言葉に呑まれかけていることに気づいた里川は、歯を食いしばると、拳銃を持ち上げた。

「お前、テキトーなこと言ってたらここで撃ち殺すぞ。すでに二人殺してるんだ。あと一人殺しても、どうってことない」

「今のところ、料理がまずくて暴れたぐらいの被害しか出てないのに。もったいないと思うけどね」

 里川は、拳銃をそれとなく伊波の方へ向けたまま、スーツケースを手に取ると、戻ってきて言った。

「中身は?」

 伊波はスーツケースのダイヤル錠を開錠し、無造作に開けた。綺麗に小口の袋で仕分けられた錠剤がぎっしりと詰まっており、伊波は笑った。

「おれは言わば、薬局だよ。処方箋をいちいちもらうのが面倒な人のために、がんばってんのさ」

 耕助が、会話に割り込む気まずさを殺すように、小声で遠慮がちに言った。

「あ、あの……。これ以上客が来るとまずいから、看板の電気を消すよ」

 伊波が首を横に振った。

「それをしちゃうと、おれの取引相手も来なくなる」

「あんたは、そいつをここに呼びたいのか?」

 村瀬が言うと、伊波は口角を上げて笑った。耕助の方を向くと、言った。

「おやっさん、おれ何回ぐらいここに来たかな?」

「数え切れないな」

 耕助が言うと、香苗も同意するようにうなずいた。

「いつも同じ奴が来るんだ。あんたらはあと一人ぐらいどうってことないんだろ? じゃあ、そいつを殺して、ここにいる五人で山分けしないか? ご夫婦には口止めになるし、おれだって黙ってるよ」

 耕助と香苗は慌てて首を横に振った。

「あんた、言ってることが無茶苦茶だぞ。そんなことはできない」

 二人の様子を意に介さない様子で、伊波は続けた。

「五千万の取引をしても、おれの懐に入るわけじゃないからね。正直、うんざりしてたんだ」

 村瀬と里川は顔を見合わせた。伊波は笑った。

「ただ、おれは雇い主に聞かれたら、手を怪我した男とデカイ奴に奪われたって言うけどな」

 しつこく鳴っていた着信音が止まり、不在着信として記録された。伊波はお手上げという風に両手を上げた。拳銃を向けられたときとは違って、その手はひらひらと振られていた。

「出られなかったから、この話はなしだな。こいつ、めちゃくちゃ用心深いんだよ」

 村瀬はしばらく黙っていたが、里川の目を一瞬見た。里川は、村瀬が何を考えているのか瞬時に理解したが、何も言わなかった。村瀬は携帯電話を伊波に差し出した。

「こっちからかけろ」

 耕助は二人の会話をずっと聞いていたが、香苗が肘をつついていることに気づいて、視線を向けた。

「ねえ、あの二人がやったって言えばいいのよ」

「お前まで、何を言ってるんだ。そんなの、すぐにばれるぞ」

 そうは言ったものの、耕助と香苗の人生は、どれだけ客観的に文字に起こしたとしても、その苦労があちこちに滲み出るような、酷いものだった。耕助は頭の中で出来の悪いそろばんをはじきながら思った。仮に二千万円が懐に入って、全てが間に合えば。

 人生を再びがらりと変えるには、十分かもしれない。

   

   

二〇〇九年 八月 夜 十年前

   

 宇宙にでも行けそうなぐらいに、たくさんのスイッチやツマミのついたオーディオと、古い洋楽。もともとは香苗の趣味で、ユニオンに運び込んだ数少ない機器のひとつだった。理奈は再生と巻き戻し、録音ぐらいしか使うつもりはなかったが、まず骨董品のAU9900の操作方法を覚えない限り、スピーカーから正しい音を出すということ自体、おぼつかなかった。一旦仕組みを覚えてからは、オーディオの前に置かれた事務椅子は、休日の定位置になった。店内にはボロボロのスピーカーを通じて流れるから、音質は病院の館内放送とさほど変わらない。しかし、二階の事務所の中は音響室そのもので、小型の冷蔵庫のような大きさの、JBL4344が設置されていた。

 夜七時。さっきまでお客さんは四組いて、今は最後の一人が冷やし中華を食べている。二階に戻ってきた理奈は、新たにレコード盤をセットして針を落とした。ドアーズのロードハウスブルース。忙しいときは作り置きしたテープを流すだけだが、用事がなければ、気分で都度入れ替える。一階に携帯電話を置いてきたことに気づいた理奈は、階段を下りた。お客さんが冷やし中華を食べる音に混じって、厨房から耕助の声が聞こえた。小声で、誰にも聞かせたくないような、通らない声だった。そして、そういう声は大抵、香苗が拾うことになっている。

「一体、いつまで続くだろうな」

 真っ黒に変色したフライヤーの前で、耕助は壁に話しかけていた。跳ね返った声を隣に立つ香苗が拾っている。理奈は携帯電話を手に握りしめたまま、耳を澄ませた。香苗は言った。

「分からない。でも、こうなることを私たちが選んだのよ」

 耕助にとっては、それだけで説得力は十分なようだった。それでも、カレンダーを見つめながら、自分に呆れたように笑った。

「もう、五年経つんだぞ」

「地元の店になってきたわよ。常連さんもいるし」

 香苗が言うと、冷やし中華を食べていたお客さんが財布を取り出して香苗を呼び、会話は中断された。理奈は二階に上がり、さっきと同じ音量で流れているロードハウスブルースの音の中へ潜り込んだ。会話なんて聞こえそうにないぐらいのにぎやかな音量だったが、それでも、さっきの二人の会話は頭の中から割り込んできた。

「もう、続けたくないのかな……」

 理奈は独り言のように呟きながら、思った。耕助と香苗は、若い頃に修行を積んだ料理人だった。だからこそ店を持つ道を選んだのだと、勝手に思っていた。でも、その人が生きてきた人生を、今の姿から想像するのは難しいことだ。一緒にいるからこそ、尚更見えないのかもしれない。理奈は宙を向いて、流れ出す一歩手前で涙を止めた。

  

  

二〇一九年 十月 夜 現在

  

「あーちょっと今日ね。事件が起きちゃって」

 腰を壊して以来、歩き方がジグザグになった田賀が言った。『合法ヤクザ』と命名されるきっかけになった、刑事然とした鋭い眼光も、いつもなら理奈の前では少し和らぐが、今日は違うようだった。理奈はその迫力に少し気圧されながら、田賀に棒棒鶏定食を渡した。

「ほんと、色んなメニュー作れるよなあ。いただきます」

「皆さん、今日は出ずっぱりなんでしょうか」

「そうだな。まあいったん食べに帰ってくるだろうけどね」

 理奈は、ほとんど空っぽになった事務所を見回した。いつもなら刈田が『世間話の間』で待っているが、ひっかけた上着を乱暴に掴んで出ていったのか、刈田の席は椅子が回転して、反対方向を向いたままになっていた。ラップをかけた料理を各々の机の上に置いていくと、田賀が言った。

「全部俺がつまみ食いするから、適当でいいよ」

 理奈は笑いながら料理を並べ終えて、田賀の元に戻った。書類を机の上にばさりと置いた田賀は、用意していた代金を封筒に入れて手渡し、理奈がぺこりと頭を下げるのと同時に言った。

「理奈ちゃん、おうちはちゃんと鍵をかけてる?」

「はい、玄関は確実に……」

 理奈が言うと、田賀は不正解だと言うように首を横に振った。

「玄関だけ閉めててもダメだよ。窓とかも閉めないと」

 理奈は黒縁眼鏡をずり上げると、小さくうなずいた。田賀が給湯室に調味料を取りに行っている間、理奈はそれとなく田賀の机に視線を落とした。田賀は唐辛子の瓶を持って帰ってくると、理奈の目に浮かんでいる好奇心を補うように言った。

「強盗があったんだ。夫婦が殺された」

 駐車場まで引き返しながら、理奈は腕時計を見た。今日は、ただ運んだだけだった。あまり意識したことはなかったが、時計の針から逆算すると、消防署と警察署だけで、いつも三十分近く話していることになる。理奈は、香苗にメールを送った。

『少し早めに戻ります』

  

 伊波は、傷だらけの携帯電話を手に持ったまま、しばらく黙っていた。ようやく決心がついたように、着信履歴から相手へかけ直した。折り返すまでに費やしていい時間にも、決まり事があるようだった。里川はその様子を眺めながら、思った。耕助と香苗は、伊波が取引をするのを何度も見ているはずだから、何をやり取りしていたのかは、薄々にしろ気づいていただろう。しかし、果たして伊波の言う『五千万円』は、本当なのだろうか。

「なあ、この伊波ってのは、何者なんだ?」

 まるで本人が目の前にいないように、里川は耕助に話しかけた。耕助は首を傾げた。

「さっき自分で言ってた。薬局なんだろう」

「何年も前から来てたんだよな?」

 里川が言うと、耕助はうなずいた。

「いつもあの席だよ。コーヒーを飲んで、相手が来たら飯を食いながら世間話をして、出ていく」

「相手は、あのスーツケースを持って出るのか? で、伊波の手元に金が残る」

 その言葉を待っていたように、耕助は里川の目を見た。

「いくらの取引をしているのかは、俺も知らない。五千万という保証はないぞ」

 里川は笑った。強盗仲間のような口ぶりだった。

「それなら、取引が終わってから店の中で伊波を殺せば、それで済むんじゃないのか?」

 耕助は首を横に振り、香苗が言った。

「いつも一緒に出ていくから、それは無理だわ」

 二人の様子を見ながら、里川は思った。この二人は厨房で鍋を振りながら、ずっとそのことを考えていたのではないか。里川が二人から目を逸らせたとき、伊波が顔を上げて、村瀬に手で合図をした。

「もしもし、あーごめんね。ちょっとトイレにいてさ」

 伊波は携帯電話を耳に当てていた。電話の向こうには、これから会いに来る『相手』がいるのだろう。伊波は誰にともなく作り笑いを浮かべながら、相手の言葉を聞いていた。何度か口を挟むタイミングを伺っていたようだったが諦めて、思い切ったように口を開いた。

「了解、十五分後に」

 それからもしばらく相手は話していたようだったが、伊波は適当に相槌を打って、電話を切った。

「大変な奴だよ、ほんとに。最後になんて言ったと思う?」

 村瀬は、答えが全く考え付かず、伊波の言葉を待った。伊波は呆れたように、携帯電話をポケットにしまい込んだ。

「なんで復唱したんだ。隣で誰か聞いてんのかって、言いやがった」

 村瀬は苦笑いしながら、店内をぐるりと見回した。何かが壊れたり、倒れたりしているなど、特に疑わしい様子はない。村瀬はナプキンを取ると、床に点々と散った血を拭った。包帯を少し緩めると、再度きつく締め直した。そのとき、車のタイヤが砂利を踏む音が聞こえて、伊波を除く全員が駐車場の方を向いた。シルバーのノアが駐車場に入ってきて、中途半端な位置で停まっていた。道に迷っているように、運転手はスマートフォンの画面を見ている。ルームランプでぼんやりと照らされた車内を、村瀬は見つめた。運転手の雰囲気からして、家族連れのようだった。

「早く行け……」

 里川が呟いた。伊波はそんなこと意に介さない様子で、耕助に言った。

「あんたらが厨房の外にいたらおかしいだろ。レバニラを作ってくれ」

 耕助は、その言葉に我に返ったようになり、村瀬に言った。

「悪いが、仕事に戻るよ」

 村瀬は全員の携帯電話を座席の隅に寄せると、うなずいた。香苗がテーブルの上に残った皿を片付け始め、伊波は里川に視線を向けた。

「取引が済んだら、おれの目の前で撃て。おれにも返り血が飛んでないと、リアリティがないだろ」

 村瀬は、耕助と香苗がカウンターの後ろに入るのと同時に、拳銃の位置を確認している里川に言った。

「見張ってろ。タイミングが来たら、カウンターを蹴る」

 里川が同じように厨房の側へと移り、拳銃を抜くと、外から見えないように身を低くした。村瀬は上から新しく包帯を二重に巻き、血の跡が見えなくなったことを確認した。ノアが駐車場から出ていき、ほどなくして、油を引かれたフライパンに野菜が放り込まれるときの、弾けるような音が鳴った。

      

 潰れて光らなくなった照明柱の下に車を停め、鈴野はダッシュボードをこつこつと指で叩きながら、考えていた。最終型のチェイサーはすでに十五万キロを走っていて、ダッシュボードのパネルにはひび割れがあるし、ハンドルは生乾きのまま放置されたように、べたついている。シフトレバーはぐらぐらで、一速と三速は特に分かりにくかった。しかし、『殺し』でない仕事なら、用意される道具というのは、大抵こういうものだ。馬力はあるが、使い古された車。もし、仕事を完了させるのに不安が残る場合、自腹で補う必要がある。受け渡しは、いわばアルバイトのようなもので、四十代半ばに差し掛かったベテランの鈴野は、それが本業だと考えたことはなかった。むしろ、海外に出ることの方が多い。観光客然とした用意をキャリーバッグに詰め込んで、ホテルでカクテルを飲み、現地の人間と話し、屋台を食べ歩く。鈴野がホテルをチェックアウトして帰りの飛行機に乗る頃、プールの底に沈んだ『標的』が発見される。

『国内では、顔を売らない方がいい』

 それは雇い主の言葉だった。顔を見たことはない。それどころか、いつも電話で聞こえてくるのは、人工喉頭のような、機械的に変質させられた声だった。その声を聞くべきだろうか。携帯電話を眺めながら、電話をすべきかどうか迷っているが、すでに数分が経っている。鈴野は、遠目に見えるユニオンの看板を眺めながら、確信が持てないでいた。伊波には十五分後と言ったから、あと十分が残されていることになる。しかし、今日はあまりにも警察の目が多い。

 二年前、組んでいた男は丸山という名前で、深夜に静まり返った公園の駐車場で、停まっている車に向けてライフルの弾を放った。弾はドアに命中し、シートを倒して寝ている男の頭を貫通するはずだったが、ドアの部品にぶつかって進路が逸れ、『運の悪い男が、仮眠中に銃で撃たれかける』というニュースになっただけだった。その男も丸山も、それ以来『行方不明』だ。男は別の形で処理されたのだろうが、丸山の末路は知っている。鈴野がある日、雇い主に電話で尋ねたとき、人工喉頭の声はこう返した。

『誰も、丸山には会えない。会いたいか?』

 それ以来、頭にも浮かべないようにしている。雇い主は、徹底した公平さで知られている。命を奪うことで金をもらっている人間が失敗した場合、自分の命を差し出さなければならない。後から聞いた話だが、自分の目で標的を確認せずに引き金を引いた丸山の死体には、両目がなかったという。鈴野は意を決して、携帯電話を手に取った。雇い主は数回鳴らしただけで、電話口に出た。鈴野が様子を伺っていると、機械を通した雑音交じりの声が届いた。

『話せ』

「仕事は続行ですか? いつもより賑やかですよ。パトカーがうろうろしてます」

 雇い主はしばらく黙っていたが、その沈黙で続行だということは、鈴野にも分かった。

『続けろ』

「承知しました」

 鈴野は電話を切った。別に誰かを殺すわけではないのだ。何年もやってきたように、伊波と晩飯を食べながら世間話をして、スーツケースと金を交換して帰るだけだ。

    

 高速道路へ入る道に、検問が敷かれている。理奈はサンバーの運転席から、遠く先に光る赤い光を眺めた。車の外見をじっと見つめている警察官が、ぼんやりと光る誘導棒を持って次々にやり過ごしている。目の前まで来て、それが交機の種林であることに気づいた理奈は、窓を下ろした。

「あー、理奈さん。こんばんは」

『ユニオン』と書かれたサンバーバンが容疑者の車であるはずもなく、通行人が興味深そうに注目し始めたが、種林はヘルメットを被った重そうな頭を少しだけ下げた。理奈は言った。

「検問、大変ですね」

「いえいえ、事件があったんですよ。知ってます?」

「さっき署にお邪魔して、強盗があったとか……」

「それ。なんかねえ、物騒なんですよ」

 種林はしかめ面で言った。理奈はダッシュボードから割引券を五枚出して、種林の制服のポケットに差し込んだ。警察や消防向けの割引券は、ほぼタダに近い。

「喉が渇いたら、また皆さんでいらしてください」

「あはは、ありがとうございます」

 種林は隠すように笑いながら、理奈が触れたポケットを押さえて、制服の型が崩れていないか確認すると、頭を下げた。

「あ、そうだ。もし見かけたら教えてほしいんですけどね。珍しい車じゃないんだけど。黒のカローラフィールダー」

「その、犯人の車ですか?」

 種林はうなずいた。理奈は前ががら空きになっていることに気づいて、慌てたように眼鏡をずり上げた。

「すみません、流れを止めちゃった。じゃあまた」

 再びサンバーを走らせながら、理奈は止めていたテープを巻き戻した。大げさな音を鳴らしてテープが止まり、一曲目が流れ出した。グランドファンクのタイムマシーン。細い指で軽くハンドルを叩きながら、理奈は高速道路のわき道に入り、国道に続く生活道路を上り始めた。

     

     

二〇〇九年 九月 夜 十年前

  

「どうしたの?」

 理奈が訊くと、アルトラパンのタイヤの前に屈みこんだ耕助は、かぶりを振った。香苗は懐中電灯でタイヤを照らしていたが、小さくため息をついて、スイッチを消した。真っ暗になってかろうじて後頭部が見えるぐらいになった耕助は、呟いた。

「タイヤが……」

 理奈は、教習所の夜間講習から帰ってきたばかりだった。タイヤの交換の仕方を、二人は知っているのだろうか。顔を見合わせる二人を見て、理奈は少し優越感を感じながら、教則本に書かれていたタイヤの交換方法を頭に思い浮かべて、耕助に言った。

「一本だけ?」

 耕助は首を横に振った。フロントは二本とも空気が抜けて、真っ平らになっている。香苗が言った。

「このご時世、見えるところに置いといたら、危ないのかしらね」

「ブルーシートかけるわけにもいかないだろ」

 耕助は配達用のサンバーバンを見て、諦めたように腰を上げた。

「ユニオン号で帰るか……」

 理奈は、サンバーバンを見つめた。カタカナで書かれた『ユニオン』というロゴに、少し錆びてきた黒のホイール。働き者だ。壊れるどころか、疲れた様子なんて見たこともない。その少しだけ色あせた車体を見ながら、思った。いつか私も、これのハンドルを握る日が来る。

 運転席に耕助が座り、エンジンがかかるのと同時に、助手席へ香苗が乗り込んだ。理奈はスライドドアを開いて、普段は畳んである後部座席を転回し、ベンチのような座席に腰を下ろした。車が動き出すと同時に揺れた空気のどこかに、料理の温かい匂いが残っていて、理奈はサンバーバンの後部座席を、特に気に入っていた。

「ディーラーに電話しないとな。いや、近所のスタンドから来てくれるかな」

 耕助が言って、香苗がこの世で一番気が重い出来事のようにため息をついた。理奈は言った。

「私、明日交換するよ」

 耕助が振り返って、目を丸くした。理奈は笑いながら道路を指差した。

「危ないじゃん、前を見てよ。今日、教習所で習ったんだ。タイヤぐらい、交換できるよ」

 教則本を取り出すと、理奈は携帯電話のライトで細かい字を追い始めた。

  

  

二〇一九年 十月 夜 現在

  

「そろそろ、席に戻らないといけない」

 伊波はそう言うと、スーツのしわを伸ばすように体を払い、元のテーブル席に戻った。村瀬はカウンター席に座り、耕助と香苗に注目した。入口に背中を向けている形になるから、ドアが開く音で人が入ってくるのは分かるが、直接様子は伺えない。しかし、そんな重要人物が入ってくれば、耕助と香苗の表情に表れるはずだった。カウンターの裏にしゃがみこんでいる里川はもっと状況がつかめないだろうが、耳打ち程度なら二人と話すことはできる。有線からは甘ったるいポップスが流れているが、耳は研ぎ澄まされ、砂利に車が入ってくる音すら聞こえるようになっていた。伊波が新聞を広げたのを横目で見ていると、香苗がレバニラ定食を運んでいった。伊波は箸を割ることもなく、窓の外を一度見ると、新聞を閉じた。

 切り返すタイヤが砂利をかき分ける音。村瀬は無意識に左手を隠した。自分たちが入ってきたとき、ドアを開けるのと同時に鈴が鳴った。その音が背後から聞こえている。

「ほらな。やっぱここだったんだ」

 その声のトーンに、村瀬は思わず振り返った。あのノアが駐車場に停まっていて、夫婦と小学生ぐらいの子供が入ってきたところだった。慌てて目を逸らせようとした村瀬は、先に入って家族のためにドアを押さえている男を見た。くたびれたジーンズに、くたびれた緑色の上着。家族連れの夫が言った。

「すみませんね」

 家族全員がその男に一礼し、男はドアを押さえる用事から解放されたように、伊波の席へと歩いて行った。家族連れは、伊波が座る側とは反対側のテーブルに落ち着き、香苗がお冷を用意して運び出したとき、耕助がカウンター越しに向かい合った村瀬に言った。

「まずいなあ」

 言葉に出したからといって、何も変わらない。村瀬は、目の前に置かれたお冷をひっくり返した。耕助が目を丸くして、言った。

「大丈夫ですか?」

「すみません、こぼしちゃいました」

 香苗が台拭きで水を拭き上げるのを見ながら、村瀬は三つ隣の席へ移動し、真後ろとまではいかないが、伊波の声がしっかり聞こえるぐらいには近づいた。村瀬のもとに新しいお冷が運ばれてくるのと同時に、伊波が男に言った。

「注文しといたよ」

 レバニラ定食は男が食べるためのものだったらしく、皿を滑らせる音が聞こえた。男はしばらく黙っていたが、数分の沈黙の後、ようやく口を開いた。

「忘れ物だ」

「何?」

「いや、金」

 さっき振り返ってその姿を見たときは、確かに小さなカバンしか持っていなかった。伊波の呆れたような笑い声に、再び鈴が鳴る音がして、村瀬は振り返った。駐車場まで歩いていく男の後ろ姿が見えた。黒のチェイサーが停まっていて、そのトランクを開いて大きなカバンを取り出した男は、それを肩に担ぎ、後部座席からポーチを取り出した。戻ってくるのと同時に村瀬が目を逸らせると、席に着いた男に伊波が言った。

「焦りすぎだろ。不安にさせちゃったな」

 香苗が家族連れから注文を取り、厨房へ入っていった。耕助は双方の様子を伺いながら、カウンターの下で縮こまる里川と目を合わせ、首を横に振った。里川は小声で言った。

「何が起きてる?」

「別の客がいる。ここでは無理だ」

 耕助は小声で言うと、香苗の取った注文を確認しながら、冷蔵庫を探り始めた。

 男はまだ料理に手を付けていない様子だった。村瀬が耳を澄ませていると、伊波が言った。

「用意は?」

「今、一緒に持ってきた。何人だ?」

「こいつと、カウンターの後ろに銃を持ったのが一人」

 村瀬は思わず振り返った。伊波は鈴野から皿を取り上げ、割り箸を割って一口食べると、村瀬の方を向き、笑顔で続けた。

「あんた、百舌のはやにえって、知ってるか?」

 呆然とした表情が顔から取れなくなっていたが、それでも村瀬は答えた。

「獲物を串刺しにする鳥だろ」

「満腹でも殺すんだ。人間にも、そういう奴がいる。だからおれたちは、モズって呼んでる。こいつもその一人だ」

 割り箸で突き刺すように、伊波は男の顔を指した。その品のない動きはスーツに全くそぐわず、表情を変えずに声だけで笑った男ですら、そう思っているようだった。

「失礼な呼び名だよな。俺は鈴野って言うんだ」

 まるで握手でも求めるような口調だったが、テーブルの下に置いた手には、平たい拳銃が握られていた。鈴野は、レバニラを食べる伊波に視線を戻すと、檻に入った動物を見るように眺めながら、村瀬に向けて呟いた。

「後学のために、覚えときな。色んな合図があるんだ。俺は、レバーが苦手でね」

「おれは大好物なんだけどな。ここのは初めて食うけど、うまいな」

 伊波は食べる勢いを緩めることなく、器用に笑った。鈴野は村瀬に言った。

「あんた、左手はどうした? 強盗事件が起きてるらしいが、そのホシなのか?」

 村瀬が答えないでいると、そのまま会話は終わり、伊波が忙しなく野菜を噛む音だけが響いた。香苗が何事も起きていないかのように、料理を三つ、家族連れの前に運んだ。

 佐岡洋平は、SNSの口コミでユニオンのことを知った。妻の和佳子は同い年で、息子の亮也が十歳を迎える頃には二人とも三十五歳になるのかと笑っていたら、いつの間にかその年になっていた。付き合っていた頃は全国を電車で旅して、有名なお菓子や食べ物はほとんどを制覇した。元々は和佳子の趣味だったが、亮也が成長してから『現役復帰』の提案をしたのは、洋平だった。洋平は、和佳子に小声で言った。

「意外に、愛想がないもんだな」

 店主は顔が強張っているし、運んできてくれた店主の妻らしき女性も、笑顔は作っているものの、朝からずっと心配事を抱えたまま一日を過ごしてきたように、落ち着きがなかった。

「忙しいのよ。人間だもん」

 和佳子はいつも、食べることしか頭にない。洋平は笑いながら、ぐるりと店内を見回した。客はカウンターに座る男と、テーブル席に座る二人だけだ。三人は顔を見合わせて、何か話している。地元の人間だけが集う、地元のための店。

「伸びるよ」

 亮也が言った。洋平は割り箸を割って、自分が注文したきつねうどんを見下ろした。わざとらしく鼻の下を伸ばすと、亮也は笑った。

「お父さんが伸びてどうすんの」

 和佳子は、棒棒鶏定食を一口食べながら、言った。亮也はハンバーグ定食を食べ始めると、周りに人などいないかのように無言になった。和佳子は、洋平に言った。

「ほんとに同時に出て来たね。スーパーマンみたいな主人だわ」

「予知能力があるんじゃないか」

 洋平は言いながら、店主の方をちらりと見た。独り言を呟くように、口元が動いていた。

   

「あんた、一杯食わされたんだ。諦めな」

 耕助は最小限の音量で言った。里川は目を伏せた。最後の方しか聞こえなかったが、内容は分かった。鈴野と呼ばれた男の声はよく通り、村瀬と話しているのが分かった。

「ヤバイのか?」

「伊波は、あんたがそこにいることをバラしちまったよ。家族連れが食い終わるまでに、出て行くだろうね」

 里川はため息をついた。耕助は初めて視線を落として、言った。

「あんた、逃げたいか? 裏口から出りゃ、見られずに済むが。心配すんな、今さら通報する気もない」

 里川は拳銃をベルトに戻しながら、考えた。会話は止まっているが、村瀬はあの二人と向き合っているはずだ。一旦外に出て、待ち伏せすればいいのではないか。出てきたら、二人とも殺せばいい。銃を外で撃つことになるが、家族連れがいないなら、同じことだ。厄介な相手を始末したら、そのまま店に戻って、耕助と香苗を殺す。総取りだし、これで目撃者はいなくなる。

「……そうだな」

 里川が言うと、耕助はそろりと足を踏み出し、頭を下げるよう里川に手で促しながら厨房へ入った。耕助に指された通りに、ほとんど四つん這いの体勢で厨房を抜けた里川は、立ち上がると、全身から流れ出していた汗が一斉に冷え込んだように身震いした。

「くそっ、うまくいかないもんだな」

 裏口につながる薄暗い廊下で、里川はかぶりを振った。追いついた耕助は、里川の後ろ姿に言った。

「あんたらは、何年も強盗をやってきたのか?」

「同級生なんだよ。学生時代の」

 里川はそこまで言って口をつぐみ、耕助に皮肉めいた笑顔を向けた。

「おっと、言いすぎたな。あんたまで殺す羽目になっちまう」

 耕助は力なく笑うと、出口を顎で指した。非常出口と書かれた緑色の光が、ドアを照らしている。里川は拳銃をトレーナーで隠すと再び振り返り、それが悪い冗談であるかのように耕助の顔を指差して、笑いながら言った。

「しかしさ。こんな田舎の食堂で、犯罪者が取引してるなんて。普通は思わないよな」

「それが狙いだよ」

 耕助は後ろ手に持った中華包丁を振りかぶると、自分を指す里川の左手首を真っ二つに斬り落とした。二発目が顔を斜めに断ち切るように突き刺さり、ドアにぶつかって倒れた里川の頬に三発目が突き刺さった。四発目が大きく開かれた口を真っ二つに裂き、舌が千切れて血が噴き出した。五発目が左側の目と耳を叩き潰して、中華包丁はオブジェのように、頭に突き刺さったままになった。

「ごちゃごちゃうるせえぞ」

 耕助は吐き捨てるように言うと、その頭を蹴飛ばした。そして、十五年前、自分と香苗の頭に銃を突き付けていた男の顔を、思い出した。その隣には今の雇い主がいて、果たして男が引き金を引くのかどうか、興味深そうに様子を伺っていた。男は、結果的には引き金を引かず、命は延長された。しかし、耕助が株の投資で作り上げた途方もない借金は、もちろん消えなかった。

『あんたらは料理人なんだろう。なら、店を任せる。中継地点だ。あんたらは普通に店を切り盛りしつつ、取引を見張れ。こつこつ普通に経営してりゃいい。ただし、見張られていることを忘れるなよ』

 その会話は、今でも有効だ。借金は、残りの人生と引き換えに清算された。もし取引が一度でも上手く進まなければ、この店を続けることはできなくなる。それどころか、こんな状態に陥ってるところを雇い主に見られたら。それこそ、命の保証もない。その厳密な主義に背くようなことがあれば、確実に殺される。あの場には自分達以外に、借金の原因となった、でたらめな投資話を持ち掛けてきた新田もいて、同じように命乞いをしていた。雇い主の公平な性格を知ったのは、その時だった。男から拳銃を受け取った雇い主は、一言も発することなく、新田の頭を吹き飛ばした。

 耕助は厨房で返り血を拭うと、里川の拳銃を抜き取ってポケットに入れ、カウンターに戻った。村瀬には聞こえないよう、ピッチャーの水を足している香苗に小声で言った。

「でかいのは片付いた」

 香苗は思わず手を滑らせて、ピッチャーから外れた氷が音を立てて転がった。村瀬だけが一瞬視線を向けたが、すぐに目下の問題人物である鈴野の方へ向き直った。耕助は続けた。

「奴の銃は、俺が持ってる」

「ちょっと……、まさか。でも、理奈は?」

 香苗の言葉に、耕助はうなずいた。何も言葉に出さなかったが、その意味は伝わったようだった。香苗はピッチャーをカウンターに出して手を拭いたが、タオルから逃げるように両手は震えていた。ダメ押しをするつもりで、耕助は言った。

「理奈は、まだ警察署にいるはずだ。今のうちにカタをつけよう。あれだけの現金があれば、やり直せる」

 逃げ場を封じるようにまくしたてた耕助の横顔を見ながら、香苗は小さくうなずいた。

「どうやるの?」

「あの家族が出て行くまでは、伊波は動かないだろう。あれだけぺらぺら喋ったんだから、殺す気だ」

 耕助は一旦、言葉を切った。香苗の目が自分の方を向いたことを確認してから、続けた。

「家族が出たら、鈴野と伊波を殺す」

「……あの人は?」

 香苗は、村瀬の方を視線だけで指した。耕助は、今まで存在自体を忘れていたように、小さく笑った。

「まあ、殺すしかないだろ」

   

 村瀬は、鈴野に向かって、わざと通る声で言った。

「今から隣に男が座る。何もしない。ただ、座るだけだ」

 今の声は届いただろう。これで里川が、当初の計画通り伊波の前で引き金を引けば、お笑い種だが。村瀬はカウンターを蹴った。家族連れがちらりと見ただけで、里川は姿を現さなかった。耕助は村瀬の目の前まで来ると、言った。

「さっき逃げたよ。残念だったな」

 里川のことだから、逃げると言いつつ、外で待っているだろう。車の鍵は自分が持っているのだから、どこにも行けないはずだ。

「逃げたとしても、どこかで待ち伏せしてるよ。気をつけるんだな」

 村瀬が言うと、耕助と香苗は顔を見合わせて笑った。冗談でも言ったと思ったのか、家族連れが話に乗るように、村瀬の方をちらりと見た。耕助は言った。

「外であいつと合流して、仕切り直すのはどうだ? あいつらが出てくるのを待って、バンってやりゃあ、済む話だろ?」

 村瀬はその顔を見つめたが、耕助の表情からは、何も読み取れなかった。本当にそうすればいいと思っているのか、そう言えば自分がここに留まると思っているのか。家族連れが食事を終えたらしく、夫らしき男が席を立った。

「ごちそうさまです」

 洋平は店主に声をかけながら思った。SNSではアットホームなお店だと書かれていたが、料理の味は確かだったものの、終始ピリピリと張りつめた雰囲気だった。ネットに上げる感想を考えるのは和佳子の仕事だから、やや批判的な意見はそちらに任せるとして、星は三つが妥当だろうか。さっきカウンターを蹴った男は、何か気に入らないことが起きているのか、頭を抱えていた。そんな男の相手をしていた店主はカウンターを離れて、目の前でレジを叩いている。

「おいしかったです」

 洋平が千円札を数えながら言うと、店主はすべての悩みから解放されたような、にこやかな笑顔を向けた。さっきのしかめ面が嘘のようで、洋平は思わず笑顔を返した。星は四でもいいか。そう思ったとき、店主の頭越しに、宙に包丁が現れたような気がして、洋平は目を細めた。普通包丁というのは、棚に入っているか、まな板の上に置かれているかのどちらかだ。誰も持っていない包丁が突然空中に現れるなんてことは、あり得ない。耕助は、洋平の目が自分を通り越した先に向いていることに気づいて、振り返った。

 頭に包丁の突き立った里川の顔が目の前にあり、左側の継ぎ目が破壊された口がだらりと開いた。その中で真っ二つに千切れた舌が動き、絞り出すような言葉が漏れた。

「はえへ!」

 耕助が飛びのき、洋平は尻餅をついた。耕助の頭の中で、里川の言葉が『返せ』と変換され、それがポケットの中の拳銃を指していることに気づいたとき、和佳子が悲鳴を上げ、亮也が目を見開いた。鈴野は椅子に座ったまま振り返り、そのあまりに現実離れした光景に、顔をしかめた。そしてそのまま、村瀬の足に向けた拳銃の引き金を引いた。圧力鍋が吹き飛んだような音が鳴り、村瀬のふくらはぎを四五口径が貫いた。鈴野は腰を上げると、里川の前に立ちはだかった。半壊した顔を覗き込み、苦笑いした。

「素人仕事だな」

 平たい拳銃を構えて少し後ずさると、鈴野は銃口を里川の頭に向けて、引き金を引いた。里川の体はその場で糸が切られたように崩れ、頭に突き立ったままの包丁が床にぶつかって、甲高い音を鳴らした。鈴野が立ち上がったとき、耕助が拳銃を向けた。その銃口を瞬きもせずに覗き込みながら、鈴野は笑った。

「あんた、その銃は何だ?」

「本物だよ。そいつを地面に置け」

 鈴野は四五口径を床に置き、後ずさりしながら呟いた。

「何だ? もしかして、金を取って逃げる気か? あんた、それは中々の裏切りだぜ」

「好きに言え。何年縛られてきたと思ってんだ。十五年だぞ」

 香苗が床に置かれた拳銃を手に取ろうとしたとき、鈴野は言った。

「俺のことは撃てばいいさ。死体が上がっても、身元なんて分からないだろうしな。でも、こいつらは?」

 鈴野は、家族連れを目で指した。

「ちゃんと根回ししないと、大騒ぎになるぜ」

 耕助は、急に相手をしなければならない人間が三人増えたように感じて、銃口をそちらに振った。それは、香苗が銃を手に持って立ち上がったのと、ほぼ同時だった。鈴野は、香苗の手で宙づりになった四五口径を掴むと、引き金を引いた。銃声が鳴り、香苗の脇腹に穴を穿った。村瀬は無事な方の足で椅子を蹴り、カウンターを乗り越えて反対側に転がった。それを横目で捉えた鈴野は、耕助が構える拳銃の銃口が向き直る直前、その体に銃口を向けて続けざまに引き金を引いた。一発が腰の真上に突き刺さり、耕助は飛びのいて尻餅をついた。銃口はまっすぐ鈴野の方を狙っており、咄嗟に後ずさった鈴野は、同じように銃口を耕助へ向けたまま間合いを開けた。耕助は、空いている方の手で香苗の体を掴むと、L字型になったカウンターの終端まで引きずり、自分も身を隠した。同じ場所に手狭そうに屈んでいる佐岡一家と、目が合った。伊波が隠れていたテーブルの下から顔を出し、言った。

「物騒だな」

「あんた、ちょっとは手伝えよ」

 鈴野が呆れたように言うと、伊波は口をへの字に曲げた。

「おれは暴力反対でね」

   

 耕助は、洋平に拳銃を向けた。

「あんた……、みんなだ。携帯を出せ。今は通報されたら困るんだ」

 洋平は、和佳子を促し、お互いのスマートフォンを差し出した。耕助は二つともポケットにしまいこみ、自分の体に吸い込まれた弾を確認するように視線を落とした。どうなっているのか、皆目分からなかった。致命傷なのかもはっきりしないぐらいに、撃たれた実感というのは、曖昧だった。

「僕は持ってない」

 亮也の言葉に、耕助は精一杯の作り笑顔を見せた。

「そうか、ごめんな。こんなことになるとは」

 香苗が苦しそうに咳をして、血を吐いた。和佳子は涙をぬぐいながら、耕助に言った。

「止血しないと。わたし、看護師なんです」

 和佳子は上着を脱ぐと、ペーパーナプキンを棚から取った。香苗の体をゆっくりと起こし、弾が肝臓を抜けていることに気づいて、肩を落とした。その様子から、どうにもならないことを悟ったのは、長年その後ろ姿を見てきた洋平だけだった。

 本来の目的に立ち返った耕助は、叫んだ。

「お前ら! お前の銃から弾を食らったおれは、雇い主からはどう見えると思う?」

「生きてる価値のない、間抜けに見えるだろうな!」

 鈴野はカウンターの反対側から反論した。伊波は、新しい弾倉をポケットから取り出した鈴野に、小声で言った。

「あんた、勝算はあるのか?」

 鈴野は首を縦に振った。

「あの屋代ってのは、一生かけても返せないような借金を抱えてる。だから、ここに缶詰めになってんだ。そんな連中の言うことを、誰が信用する? 雇い主はそんなに甘くない」

「このまま朝まで粘るのか? 誰か呼べよ」

 相手に聞こえるように敢えて音量を上げた伊波の言葉に、鈴野は首を横に振った。

「こんな姿は、人に見せられない。食堂の店主相手に撃ち合って、膠着してるとこなんてな」

 その妙なプライドに笑いながら、伊波は新聞を畳んで窓の外を一度見ると、鈴野の方に向き直って、小声に戻った。

「仮にあの二人がくたばったとする。あの家族連れはどうすると思う? 通報するぞ。それがここからは見えないんだ」

 鈴野は、新しい弾倉に入れ替えた四五口径でこつこつと自分の額を叩きながら、考えているようだった。伊波は窓の外をもう一度見ると、腕時計に視線を落とした。

    

 村瀬は、カウンターを乗り越えたときにシンクに頭をぶつけ、その余韻で視界がぼやけたように感じていた。そんな衝撃も、銃声に比べれば何てことはなかった。頭から包丁を生やした里川の顔が頭の中をぐるぐると回り、それは吐き気となって心臓の動きに歩調を合わせ、胃を掴んでは離すというのを繰り返していた。あの店主にそんな力があるとは、思っていもいなかった。誰が生き残っているのか、カウンターの裏からは全く読めなかった。武器になりそうなものもなく、間合いを取った相手に拳銃を向けられたら、その時点で終わりだ。

 里川はどうして、とんとん拍子で話に乗ったのだろう。それ以前に、腹が減ったからといって、どうしてこんな店に寄ろうと考えたのか。村瀬は後悔しても遅すぎることばかりを頭に浮かべながら、厨房へ続く床を這った。古い油で滑るだけでなく、それは容赦なく体にまとわりついた。厨房の中へとたどり着いた村瀬は、途端に危機から脱したように、息をついた。二階に上がる階段が見える。少しでも上にいた方が有利なはずだ。そう思った村瀬は、辺りを見回した。鈴野だけでなく、誰の姿も見えなかった。立ち上がると、手すりを掴み、無事な方の足を使って二階へ上がった。おおよそ十分以上を費やしてようやく二階へとたどり着いた村瀬は、額の汗を拭った。何か武器になるものが欲しい。二階の窓からは、駐車場がよく見下ろせる。銃があれば、圧倒的に有利だ。階段も一本しかないから、探しに上がってきたとしても、上から蹴落とせる。二階に上がったのは正解だったことを確信して、村瀬は小さく息をついた。

 遠くの方からエンジン音が聞こえてきて、村瀬は二階の窓から駐車場を見下ろした。突然、メニュー表に書かれた可愛い字が頭に浮かんだ。村瀬は目を見開いた。『ユニオン』と書かれた、旧型のサンバーバン。それがフィールダーの隣に停まり、中から黒縁眼鏡をかけた若い女の人が降りてくるのが、見えた。村瀬は窓を力任せに開けると、叫んだ。

「来るな!」

   

 伊波はその声に舌打ちした。天井越しに二階を見上げ、鈴野に言った。

「二階に逃げたんだな」

 鈴野は伊波に言った。

「見てこいよ」

「勘弁してくれ。飽きたら降りてくるだろ」

 伊波はうんざりしたように断ると、窓の外を眺めた。黒縁眼鏡に、揃えられた前髪。高校生のように見える。もっと若い頃は、よく店にいた。この状況を打開する切り札。

「ビビるな……、早く来い」

 思わず呟くと、カウンターの反対側で悲鳴のような声が上がった。

   

「理奈、引き返せ! 見ないでくれ!」

 耕助は、二階を見上げながら眼鏡をずりあげている理奈に向かって、叫んだ。声は届かず、喉を伝って血が飛び出しただけだった。香苗の力を借りようと手を引くと、その手はだらりと体の上に垂れた。涙で化粧がほとんど落ちた和佳子は、首を弱々しく横に振った。

「駄目だった……、ごめんなさい」

 耕助が香苗の方を向いたとき、理奈の声が店の外から届いた。

「大丈夫ですか?」

 耕助は、理奈が問いかけた相手が、二階へ逃げた村瀬だということに気づいた。そして、村瀬が理奈を逃がそうとしたことにも。

    

 村瀬は、照明に顔を照らされながらも、眩しそうに二階を見上げる女の人の名前が理奈だということを、一階から聞こえた耕助の声で知った。そして、もう一度声を張り上げた。

「理奈さん! 来たらだめだ!」

 名前を呼ばれてびくりとなった理奈は、唇を強く噛むと、小走りにユニオンのドアを開けた。血まみれの床を見て、頭がまんべんなく砕けた状態の男が仰向けに倒れていることに気づいた。鈴野が立ち上がり、理奈の腕を掴んで強く引いた。反対側にかけたバッグが肩から抜けて、床に転がった。

「やめろ! 理奈!」

 耕助が叫んだ。鈴野は自分の腕から自由になろうともがく理奈を見下ろしながら、その必死な様子を笑った。伊波はその様子に、思わず眉をひそめた。

「痛がってんぞ」

 鈴野は、その言葉に鋭い目線だけで返事を寄越すと、耕助に向けて言った。

「おい、出てこい!」

 返事はなかった。奥から何かを転がすような音が鳴り、鈴野は一瞬そちらへ注意を向けた。理奈を掴んだまま一歩ずつ進むと、鈴野は再度呼び掛けるために息を吸い込んだ。そのとき、耕助が両手を上げて立ち上がった。鈴野は小さくうなずいた。

「おい、物分かりがいいな。あの銃は?」

「捨てた」

「見せろ」

 鈴野が呆れたように言うと、同じように呆れた表情で、耕助は答えた。

「捨てたのを、また拾えってか?」

 その、聞いたことのないような口調の険しさに、理奈は目を見開いた。

「どうして……?」

 鈴野はからかうように言った。今閉じ込められているこの空間に慣れてしまったのか、外から入ってきたばかりの理奈はどこか現実感がなく、その様子を見ていると、余計に同じ土俵に引きずり落としたくなった。理奈は小柄で、抵抗されても少し強く力をかけるだけで、思い通りになった。

「金だよ。みーんな金目当てなんだ。だから、殺し合いになるんだよ」

「そんな……」

 理奈は目を伏せた。瞬きをしたとき、涙がレンズに散った。鈴野は万力のような力で腕を掴んだまま、ポニーテールにきつく結ばれた理奈の頭を、ぐしゃぐしゃに撫でた。

「なあ、悲しい話だけど、そんなもんなんだ。あんた、五千万あったら、何がしたい?」

「何も……」

 理奈がそう言ったとき、耕助は一歩を踏み出した。体が完全に視界に入り、鈴野は奥の方を覗き込むように、見つめた。

「奥さんは?」

「香苗は死んだよ」

 耕助は一歩ずつ、足を進めた。鈴野は四五口径の銃口を持ち上げた。銃口がほとんど触れるぐらいに近づいた時、理奈は言った。

「もうやめて、お父さん」

 耕助は言葉がそのまま伝わったように、立ち止まった。そして、カウンターを力いっぱい蹴った。鈴野はその音の大きさに、一瞬銃口がぶれるのを感じた。十数年にわたって培ってきた勘が自然と視線を操り、鈴野が顔を向けた先に銃口があった。村瀬は鈴野の顔に向けて、拳銃の引き金を引いた。大きく右下に動いた銃口が耳を削ぎ落し、鈴野は四五口径の銃口を耕助に向けたまま、思わず引き金を引いた。理奈を押さえつけていた力が無意識に抜け、そのことに気づいた理奈は力いっぱい振りほどくと、床に落ちたバッグに飛びついた。耕助が仰向けに倒れて死んでいるのが見えたが、歯を食いしばって駆け出した。

 洋平は、目の前に現れた理奈を見て、和佳子と亮也を庇うように後ずさった。黒縁眼鏡の奥で燃え上がっているような目が、三人を代わる代わる捉えた。理奈は、バッグの中からスマートフォンを取り出すと、ジーンズの尻ポケットに差し込みながら、言った。

「他に出口がないんです。二階に逃げてください」

 村瀬はカウンターの後ろを伝って、四つん這いになったまま理奈の元へ追いついた。さっき一階に戻ったとき、耕助と目が合った。拳銃を滑らせてきたのは、その時だった。耕助がカウンターを蹴って位置を教えるつもりだということまでが、ほとんど何の打ち合わせもないまま、理解できた。しかし、致命傷を負わせることはできなかった。むしろ、余計に怒らせただけだった。しかし、理奈を一時的に解放することだけはできた。理奈は村瀬の顔を見ると、泣き笑いのような表情で言った。

「ありがとうございます」

 村瀬の言葉を待つことなく、理奈は、呆気に取られたようにその場に座ったまま動かない亮也の手を取った。

「ねえ、ぼく。二階なら怖い人はいないから」

 亮也はしばらく洋平と和佳子の顔を見ていたが、ようやく立ち上がると、理奈に向かってうなずいた。村瀬は、顔を押さえて呻いている鈴野の声を聞きながら、それでも顔を出せないでいた。相手は恐ろしく勘が鋭い。下手に姿を晒すわけにはいかない。理奈は言った。

「あの、少しの間見張っててもらえますか」

 村瀬はうなずくと、拳銃を持ち上げた。言葉で明確に頼まれて初めて、鈴野と対峙する覚悟が決まった気がした。鈴野のうめき声が弱まり、幾分か冷静さを取り戻した呼吸音になった。

「もう終わりだ。雇い主に電話する。俺だって耳を撃たれたんだ。これで言い訳は通るだろ」

 伊波に愚痴るような鈴野の声が、ひときわ大きく響いた。伊波の懇願するような返事が聞こえてきた。

「雇い主とおれは関係ない。もう今日は出て行って、後日改めようぜ」

「勝手に決めるんじゃねえ!」

 その口調からすると、鈴野はこの状況に相当参っている。このまま二人で殺し合ってくれれば、どれだけいいか。村瀬はそう考えながら、現れたらいつでも撃てるように、死角から何もない空間を狙い続けた。

    

 理奈は、三人の背中を押しながら言った。

「階段を上がって」

 亮也は、二階へ上がる階段を見て、その薄暗さにパニックになったように、逃げだそうとした。理奈はその体を抱きとめて、言った。

「暗くてごめんね。上はホテルみたいだよ。ゲームとかもあるし。ね?」

 亮也は理奈の腕から一瞬逃れようとしたが、その目を見ている内に、口元を固く結んでうなずいた。先に上がって様子を伺っていた洋平と和佳子が手を取ろうとしたが、亮也は理奈の背中に縋り付くように、一緒に階段を上った。

 二階にたどり着いたとき、理奈は一度後ろを振り返った。事務所のドアを開けて中に三人を案内すると、オーディオの前に置かれた椅子を並べ替えて、そこに三人を座らせた。

「じっとしててください」

 オーディオの電源を入れてボリュームを上げると、理奈はテープをデッキに入れた。壁がびりつくぐらいの音量で、プロコルハルムの青い影が流れ出したとき、亮也が理奈を手で呼び寄せた。洋平と和佳子は、二人が数分で幼馴染のように打ち解けていることに、驚いていた。理奈が耳を傾けると、亮也はその耳に直接話すように、耳打ちした。理奈は一瞬笑顔を作ると、頭を撫でながら言った。

「うん、だから大丈夫」

 音楽でかき消されて、亮也が何と言ったのか、洋平と和佳子には聞こえなかった。理奈は無造作に放られたダッフルバッグを掴んで丸めると、自分のバッグを肩にかけ直して、事務所から出て行った。理奈がドアを閉めると、ほぼ全ての音が、防音構造になっている部屋の中に閉じ込められた。

     

 突然流れ出した音楽に、鈴野は思わず二階を見上げた。音は相当籠っていて、メロディが分かる程度にしか伝わってこないが、店全体がライブ会場になったように震えている。雇い主から折返しの着信が入ったことに気づいた鈴野は、伊波に言った。

「あんたに代われと言われたら、俺は代わるからな。変な話はするなよ」

 返事など待っている余裕もなく、鈴野は一度大きく深呼吸をすると、着信ボタンを押した。しばらくの沈黙の後、あの寒気がするような機械的な声で、雇い主は言った。

『話せ』

「強盗に遭いました。薬も金も無事なんですが、中継地点の連中と一般人を巻き込んじまって、大変なことになってます」

 端的に十秒程度で伝えた。雇い主は長い話を嫌う。少しだけ間が空いた後、雇い主は言った。

『そこにいろ』

    

 一階に下りてきた理奈は、村瀬の元にそろそろと近寄り、言った。

「拳銃を貸してください」

「どうするんだ?」

「今、ちらっと見えたんです。電話で話してます」

 理奈は返事を待たずに、汗で滑る村瀬の手から拳銃を抜き取って、バッグに入れた。立ち上がると黒縁眼鏡にかかった前髪を払い、鈴野の前に全身を晒して、言った。

「銃を置け」

 鈴野は、思わず四五口径を見つめた。今、雇い主から銃を置けと言われた。電話越しのその声は、相変らず機械的に変質されていたが、同時に目の前からも聞こえた。鈴野は理奈の顔を見つめた。その右手に、ボイスチェンジャーのような小さな機械が握られていた。理奈は小ばかにしたような口調で、言った。

「聞こえなかった?」

 今度は理奈の声だったが、鈴野は慌ててテーブルの上に四五口径を置いた。雇い主は、この拠点を十五年に渡って見張ってきた。この地域で働く時は、絶対に服従しなければならない相手だ。それが、夫婦の娘? 頭に浮かんだ考えを打ち消す間もなく、理奈が言った。

「本当の親子じゃないの。私があなたの雇い主」

 言いながら、十五年前、初めてこの店の前に立ったときのことを、理奈は思い出していた。屋代夫妻の娘として見張りを続けながら、中継地点としての働きを見守る。それだけではない。警察や消防に出入りして、様々な情報を集める。そう聞かされたとき、私は十四歳だった。生まれたときから家族はおらず、海沿いに建つ組織が管理するホテルの中で、育てられた。最初は人を殺すための英才教育を受けたが、私が本当に得意だったのは、感情を完全に隠せるということだった。屋代夫妻と過ごした十五年間で、親子に見えないと言われたことすら、一度もない。

「あんた……、いや、すみません。あの、ホテル育ちなんですか?」

 鈴野は上ずった声で言った。その後ろで伊波が、自分のスーツケースを手に取った。

「そうだよ。十二歳のときに出たけどね。あなたは感情を隠せる? 嘘をつけるかって意味だけど」

 鈴野はうなずいた。一瞬でも迷ったり、隙を見せたら終わりだということが、直感で分かっていた。理奈はつかつかと伊波に歩み寄ると、庇おうとした手ごと、頭を撃ち抜いた。

「あなたの言う、強盗に遭ったストーリーで行こうか」

「あ……、あの、すみませんでした。手荒に扱って」

 鈴野が頭を下げると、理奈は眉をひょいと上げて、からかうように笑った。

「知らなかったんでしょ。仕方ないんじゃない。知っててやったの?」

 鈴野が慌てて首を横に振ると、理奈は関心を失ったように宙を向いた。村瀬は、二人の会話を聞いていた。理奈は、完全に感情が消し飛んだガラス玉のように透き通った目で、村瀬を見つめた。

「あなたは、今追われてる強盗なのね。名前を教えて」

 村瀬が短く名乗ると、理奈は厨房の方向を見つめた。階段に、村瀬の血の跡が残っている。上った方と、下りてきた方と両方。理奈はダッフルバッグを床に放った。

「村瀬さん。あなたはこれに金を詰め込んで、逃げようとした。組織の金を奪うとどうなるか、分かるよね?」

 村瀬が何も言えないでいると、理奈は鈴野に言った。

「一人前のモズなんでしょ。怪我してる相手に、銃なんか使わないで」

 鈴野はうなずきながら、もう歩き出していた。村瀬が後ずさるよりも早く、その首を掴み、体重をかけて壁に叩きつけた。片手片足が使い物にならなくなっている村瀬はどうにかして起き上がろうとしたが、鈴野はぽっかりと穴が空いたふくらはぎに蹴りを入れて動きを封じると、親指を両目に突っ込んだ。眼球を通り抜けて指が脳に達し、村瀬は足を何度か痙攣させた後、動かなくなった。

 理奈は、鈴野が持ってきたカバンを開けると、半分をダッフルバッグに移して言った。

「安心して。あなたがやらかしたことは、誰にも言わないよ。それか、ここに残ってあの家族を一緒に消す?」

 その意地悪な笑顔に、鈴野は全身の毛が粟立つのを感じながら、首を横に振った。同時に、理奈が考えていることも理解できた。村瀬の死体を消すつもりなのだろう。金を奪った強盗を皆が追いかける中、五千万円は半分ずつ懐に入る。それは、理奈にとっても手痛い失敗ということなのだろう。今まで、どんな恐ろしい人間かと思っていたが、その恐ろしさは変わらないにしても、今なら少しぐらいこちらから話しかけても、構わない気がした。それを後押しするように音楽が切り替わり、ジェームズブラウンのトライミーが流れ始めた。

「あの、聞いてもいいですか?」

 鈴野の言葉に、理奈はダッフルバッグのファスナーを閉じながらうなずいた。鈴野は言った。

「あの二人とずっといるのは、どんな感じでしたか?」

「私、それしか知らないからね。比べようがないから、正直分からない。そう言えば、一度逃げようとしたんだ」

「今みたいに、お金を持ってですか?」

「ううん。お金はなかったな。とにかく逃げたかったんじゃない。気持ちは分かるよ」

 理奈はそう言うと、半分に目減りした自分のカバンを担いだ鈴野に、笑顔を見せた。

「人間、何歳になっても、やり直したいもんなんですかね」

 鈴野は、それは自分にも当てはまるということに気づき、苦笑いを浮かべた。理奈はその表情の変化を見逃さず、言った。

「これで、嫌になった? 引退するのかしら」

「いえ。逃げ切る自信はないです。でもこの歳になって、今まで考えもしなかったようなことが浮かんだりは、しますね」

 鈴野はチェイサーの鍵をポケットから取り出すと、自分が座っていた席を一度振り返った。ずっとやってきた簡単な取引のはずが、山分けした金を持って、店から出ようとしている。ほとぼりが冷めるまでは、海外に出た方がいいだろうか。頭の中で念仏のように繰り返していた鈴野はふと、巡る考えを一時停止した。『山分けした金』。その言葉で頭の中が止まったとき、理奈が言った。

「もう私も若くないし、生きてて新しい発見なんてないと思ったけどさ。一つ、分かったことがあるわ」

 ドアに手をかけたとき、鈴野は気づいた。俺は、誰と金を山分けしたように見える? それでも、理奈の問いかけを無視するわけには、いかなかった。

「何ですか?」

 鈴野が上の空で返事をしたとき、理奈は言った。

「親を殺された、子供の気持ちだよ」

 こめかみに向けて放たれた一発が神経を一瞬にして断ち切り、鈴野はその場に崩れて死んだ。理奈はその頭にもう二発撃つと、拳銃を村瀬の手に握らせてから、ベルトに挟み込んだ。少し引いて全体を見回した理奈は、納得したように目だけで笑った。鈴野と村瀬が共謀して金を山分けした後、内輪で揉めたように見える。カウンターの椅子に腰かけた理奈は、窓の外に見えるアルトラパンを見ながら、思い出していた。前のタイヤが両方ともパンクしていた、十年前のあの日。耕助と香苗は逃げようとしていた。それだけで、契約不履行になる。今思い返せば、自分が二人に対して公平だったのかも、よく分からない。理奈は、あの時の自分の行動を、鮮やかに頭に浮かべながら思った。タイヤに穴を開けたときは、どうしてあの二人の身を助けることをしたのか、そこまで深く考えていなかった。でも、パンクさせたのが自分である以上、修理するのも自分だと思ったから、私はタイヤを交換した。思い出はたくさんあるはずなのに、自分が本当にそうするべきだと思ってやったことしか、今は思い出せなかった。

 理奈は、鈴野のカバンからダッフルバッグへ金を移すと、それを抱えて二階へ上がり、音の洪水の中で肩を寄せ合っている佐岡一家の前に置いた。オーディオの電源を落とすと、凍らせたように空気が沈みこんだ。

「これを預けますので、私の顔を忘れてもらえますか」

 洋平と和佳子は小刻みにうなずいた。理奈は、その目を見て初めて、自分が鈴野の返り血を浴びていることに気づいた。果たして、子供の口から両親に伝わるのかどうか、それは分からない。でも、自分の立場を理解して先手を打ったのは、この子だけだった。理奈は一階に下りると、非常出口の鍵を開けて、三人を送り出した。あの時、耳打ちされたこと。

『仲間なんだよね?』

 亮也は、鈴野が電話をかけたとき、理奈のポケットの中で携帯電話が光ったことに、気づいていた。理奈は思った。私は、常に公平であるべきだと教わった。自分の命を自分で買い戻さないといけない瞬間は、不意に訪れる。必要な機転を利かせることができる人間は、相応の報酬を受け取って、生き延びるべきだ。

 理奈はタオルで顔の返り血を拭うと、上着を着替えて、メインのブレーカーを落とした。店の電気が全て消え、真っ暗になった店の中で黒縁眼鏡を外すと、ポニーテールを解いた。村瀬の死体を伊波のレガシィに積み込み、店の脇に丸められたブルーシートを広げて、指名手配されているカローラフィールダーを覆った。時間を稼ぐための最低限の処理を終えた理奈は、『掃除屋』を呼ぶためにスマートフォンを取り出したが、すぐポケットに押し戻して店の中へ戻り、二階へ上がった。段ボール箱を空にすると、オーディオの傍らに置かれた棚から、テープを移し替えていった。後からここにやってくる誰も、気づかないだろう。テープがそこにあったなんて。私にとっては宝物だけど、それ以外の人間には価値のないものだ。理奈は、サンバーの中に置かれたテープも全て取り出して、段ボール箱へと入れた。これから、レガシィと村瀬の死体を消さなければならない。総取りして逃げおおせた、強盗二人組の片割れ。それが筋書きだ。そうすれば、屋代夫妻の名誉だけは守られる。

 十五年前、三人で廃墟のドライブインを見上げていたとき。二人は、私が発する言葉全てに、恐怖を感じているようだった。でも、私が名前を提案したとき、二人は振り返って笑顔を見せてくれた。

 誰かに笑いかけられたのは、あの日が初めてだった。

「今までありがと」

 そう呟くと、理奈は、段ボール箱を小脇に抱えて、星空の下で真っ暗な廃墟に逆戻りしたドライブインを見上げながら思った。三人でいることが楽しくなったのはいつからなのか、もう覚えていない。でも、思い出せないなら、答えは一つしかない。

 気づかないうちに、私は楽しんでいたんだ。

 多分、最初からずっと。

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