沖浜グランドホテル

@Tarou_Osaka

Fortunate one

 階段の踊り場に座って、タッパーに入ったサンドイッチを食べていると、銀色のアルミ皿を手に持ったツグミがひょいと隣に来て、わたしに言った。

「おつかれさま。ここじゃなくてもいいのに」

「仕事のあとだからさ」

 わたしはそう言って、最後のハムサンドイッチを手に取った。半分に千切ってツグミに差し出すと、はにかんでしばらく迷っていたようだけど、結局食べた。

「ありがと。太っちゃうな」

「大丈夫だよ」

 わたしが適当に相槌を打つと、隣に座ったツグミは、アルミ皿の中身を見せた。暗くてよく見えなかったから、わたしは訊いた。

「チーズケーキ?」

「差し入れだって。半分こにしない?」

「いいの?」

 ツグミは返事の代わりに、プラスチックのスプーンで真ん中に線を入れた。わたし達は、しばらく無言で食べた。あっという間に空になって、ツグミは立ち上がった。

「あとでね」

「うん。ごちそうさま」

 わたしが言ったとき、外で光っていた看板がふっと暗くなった。

 夜になると光って存在感を増す『沖浜漁業連合』の看板。通称、ハマ漁連。それも夜の十時には消えてしまって、夜中は波の音だけで後は真っ暗。わたしは十九歳。ツグミも同い年で、ハマ漁連の経営する沖浜グランドホテルで育った。カラオケからゲームに、大きなお風呂まで、本当に何でも揃っている、ひとつの町みたいなホテル。ロビーは広くて、座ると頭まで埋まってしまいそうな柔らかいソファが、いっぱい置いてある。ツグミは、わたしが五歳のときに、どこからともなくキッズルームへ連れてこられて、隣で遊び始めた。それ以来の親友だ。

 外の世界には学校というのがあって、そこで色んなことを習うらしいけど、わたし達はそういうことを全部、ホテルの中で先輩から教わった。ときどきツグミと一緒に夜中に抜け出して、海を見に行くことがある以外は、わたしはずっとホテルの中にいる。大事な仕事があるから、長い時間は外せない。

 支配人は、このホテルを観光客に貸すだけじゃなくて、『特定の仕事を稼業とする人』の拠点にしている。法律で裁かれると、その人たちのほとんどは死刑か無期懲役になると、先輩から聞いたことがあった。

 わたし達は、それが成り立つために、なくてはならない存在。子供のときからここで育てられて、家族や身寄りはいない。持ち物は、生年月日の書かれた紙と、堅苦しい黒色の制服。そして、呼び名だけ。


 ツグミは、いつも難しい顔をして地図とにらめっこしては、信号機のある場所に丸をつけたり、細かな路地にマーカーを引いたりしている。頭の回転が速くて、どんな謎かけもすぐに解いてしまう。そんな彼女の仕事は、情報収集と道具の準備。

 先輩のヒバリは二十四歳。ツグミが集めた情報を持って、ホテルの中を行ったりきたりしては、『特定の人』に伝達する。わたしと同じで背が高くて細身だけど、派手でひらひらしている。彼女は連絡係。ときどき、部屋に行ったまま、全然帰ってこないことがあって、そんなときはツグミと笑いながら噂話をする。

 最年少はメジロ。まだ十六歳で、仕事は割り当てられていない。のんびりした性格で、ヒバリの後をついていっては、色々と教わっている。

 そして、大先輩が二人。料理長のカワセミと、百七十室ある部屋の管理と掃除をしているクジャク。二人とも三十四歳。カワセミは優しくて色んな賄料理を作ってくれる。普通のお客さんに料理を出すことがあって、外の世界のことをよく知っているし、よくその話をしてくれる。クジャクはいつも澄ました出で立ちで、正直おっかない。でも、ヒバリだけは彼女から仕事を教わった『愛弟子』で、結構なお目こぼしを貰っている。

 ちなみに、ホテルをせわしなく出入りする『特定の人』は、全員同じようにモズと呼ばれる。彼らはほとんどが男で、意味もなく人を殺せる人たちだ。ツグミは、『血の匂いがするからすぐ分かる』と言う。わたしは生まれつき嗅覚障害で匂いが分からないから、それがどんな感じなのかは知らない。

 わたしの名前は、川井ひな。みんなの本名は知らないし、気にしたこともない。ヒバリは、わたしの仕事を『匂いが分からない人にしかできない』と言って意地悪そうに笑う。その証拠に、仕事のあとは一緒にご飯を食べてくれない。

 わたしは、カラスと呼ばれている。

 仕事は、モズが殺した人間の解体と、貴金属の回収。


 地下駐車場の、蛍光灯が全部外された奥の端。壁に沿って、ビールケースや台車が置かれている。その隣に、ブルーシートがかけられた場所があって、めくると車が一台通れる通路がある。そのさらに奥が、わたしの仕事場。人だけが運ばれてくるときもあれば、車ごとのときもある。

 チーズケーキをツグミと半分こにした次の日の夜中、運びこまれてきたのは、後ろのタイヤがパンクした軽自動車だった。紺色のバンで、あちこち錆びている。わたしは、広げたビニールシートの上に車体が全部載るように誘導した。エンジンを切ったモズは、ようやく厄介払いができたのが嬉しいのか、風呂上がりみたいにさっぱりした表情で運転席から降りると、わたしに『ひとりね。あとは、よろしく』と言って、従業員通路からロビーへ上がっていった。カワセミが何か美味しいものを作って待っているんだろう。わたしも食べたかったけど、仕事が先だった。

 シンダーブロックを四隅に置き、車に残った血が流れ出さないように、ビニールシートの端を持ち上げてくくり付けてからリアハッチを開けると、くの字に体を折った男の人の死体が、中に転がっているのが見えた。体を折ってあるのは、モズがそうしただけで、死ぬ前にその体勢を取ったようには見えなかった。下顎から頭頂部に向けて撃たれたみたいで、顎の真下に射入口があった。右の眼窩が砕けて、破裂した眼球がぺしゃんこの風船みたいにへこんでいた。わたしはリアハッチの真下に台車を置くと、死体を引っ張って乗せた。特に鍛えていないけど、ツグミはわたしのことを怪力だと言う。腕相撲は、負けるのが分かっているからか、相手もしてくれない。

 解体には、いつも特注のチップソーカッターを使う。人ひとりが載る台の上をスライドできるようになっていて、伸縮もできる。片方ずつバラバラにしていって、半分が終わったら破片を片付けて、体重が半分になった体をうつ伏せにひっくり返す。力の入れ方を間違えると腰を痛めてしまうから、いつも慎重にしている。でも、その前にやることがあった。それは、内容物を全部外へ出してしまうことと、死後硬直が解けるまで待つこと。頑固な死体は、ウィンチで吊って大きなバケツを下に敷き、股関節のわきを二箇所切って開いておく。しばらく経てば、厄介な内臓が切り口から落ちるし、残っていても手を突っ込めば引っ張り出せる。それに、ガスがたまりにくいから解体も楽だ。デメリットは、わたしには関係ないことだけど、作業場に誰も近寄れないぐらい、臭いがひどいということ。

 くの字になったままの死体をウィンチで吊り、時計を眺める。数時間はかかるはずだった。そういうときは、昔のことを思い出すようにしている。何年か前、クジャクに教えてもらった。

『人間って、いつも思い出していることは、いずれ忘れられなくなるんだってさ。そういう記憶はほっといても頭の片隅にずっといて、自分の好きなときに、自分から出てくるようになるのよ』

 ツグミが『怖い』と言い、ヒバリは『人間は弱いから』と笑った。

 わたしは、その逆のことを思った。それは、ずっと思い出してさえいれば、その記憶は頭の中で命を持つのだろうかということ。それはとても素敵なことだと思った。

 十年前、わたしは九歳だった。電気がほとんど落ちた、薄暗いロビー。それは、いつも夜中だった。

 わたしは眠れない子供で、よく夜中に布団を抜け出しては、廊下やロビーをうろうろしていた。モズ達も夜中が好きみたいで、煙草をふかしながら駐車場で話したり、電気の消えたゲーム機の椅子に座って、こそこそ話したりしていた。そんな中に、女の人が混じっていた。その人は海外から帰ってきたばかり。男ばかりのモズの中で目立っていて、周りの目を撥ねつけるように誇らしげに振舞っていた。そして、たまにやってきたときは、眠れないわたしをよく可愛がってくれた。そのために起きて、待っていたこともあった。

 女の人はいつも少し眠そうな目で、爪にヒビが入っているときもあった。でも、夜中に何時間も付き合ってくれた。よく話したのは、外の世界に何があるのかということ。朝、気づくと布団の上に戻っているときもあって、そんなときは、その女の人がカワセミに言って、わたしを部屋まで戻してくれたんだろうと思った。

 そして、そんな関係が続いて一年ぐらいが経ったとき、車が猛スピードで何台も入ってきて、大騒ぎになった。クジャクは当時、今のヒバリと同じ二十四歳で、今思い出すとそっくりだった。意地悪そうに『失敗したのね』と呟くと、煙草をふかしながら部屋に戻っていった。

 それから一週間ぐらいが経って、わたしは夜中にまた女の人と会った。しばらく話していると、孫の手を持っている女の人は言った。

『これで、背中のこの辺をさ、掻いてくれないかな』

 わたしは言われたとおりに孫の手を持って、女の人の背中に当てた。少しずつ動かしていると女の人がうなずき、わたしはその上で孫の手を動かした。かさぶたのような、固い感触があった。うまくいかなくて、直接手で触ろうとすると、女の人は身をよじってこっちを向いた。触って欲しくないみたいだった。孫の手を持ったままぽかんとしていると、女の人は右手でわたしを抱き寄せて、胸の中で抱きしめた。左腕がぶらんとしているのを見て、『ああ、この人は大怪我をしたんだ』と思った。そういうモズがどういう運命にあるか、それは九歳のわたしにも分かった。女の人は、真っ暗な広場みたいなホテルの中で、外の世界を知る唯一の友達だった。

『いやだ』

 わたしは自分からそう言った。まだ女の人は何も言っていなかったのに。

『引退するの』

 女の人は、モズのひとりに話すみたいに、淡々とした口調で言った。わたしはその口調に、自分も冷静にならなければいけないと思ったことを、よく覚えている。

『もうここには来ないの?』

 わたしが言うと、女の人は残念そうにうなずいた。

『ごめんね』

 何も言えないでいると、女の人は傍らに置いたかばんから封筒を取り出した。手が離れて心細くなったところに、その柔らかな封筒が置かれた。

『耐えられないぐらいに嫌なことがあったら、これを開けて。それまで、誰にも見られないようにね』

 わたしがすぐに開けようとすると、女の人は疲れた顔のまま笑った。

『今じゃなくて、これからずっと先のことよ』

 わたしはうなずいて、封筒を服の中に隠した。しばらくして、カワセミが『早く寝ないと』と言いながら迎えに来た。女の人は、手を振った。わたしも手を振り返した。それが、彼女を見た最後になった。

 何日か経ったあと、カワセミが料理を作る手を止めてぼろぼろと泣いているのを見たわたしは、女の人は死んだのだと確信した。封筒を開けようかと思ったけど、ずっと先という言葉を信じて、そのときは我慢した。

 それ以来、封筒はロッカーの中にしまってある。辛いことばかりかというと、そうでもない。ツグミと話している時間は楽しいし、わたし達は夫婦の死体から回収したおそろいの指輪をつけている。ツグミは夫の太い指輪を中指に、わたしは妻の指輪をそのまま薬指に。それに、お客さんが忘れて何年も取りに来ない服がロッカーにたくさん置かれていて、制服が苦しくなったときは、ふたりでそれを着て遊んでいる。

 悪いことや悲しいことには、できるだけ出会いたくない。でも、自分に起きた一番悲しいことなのに、あの十年前のことは、少しでも時間が空いたら、いつも思い出すようにしている。色落ちしたり、錆びたりしないように。


 次の日、ツグミと昼ごはんを食べていると、メジロが横をさっと通っていった。わたし達が顔を見合わせていると、メジロははしゃぐように戻ってきて、わたし達の顔をかわるがわる見た。

「どうしたの?」

 ツグミがフルーツをつつく手を止めてメジロの方を見ると、メジロはツグミの制服のポケットから、メモの切れ端を取り出した。ツグミは目を丸くして、フォークを置いた。

「今入れたの? すごいじゃん」

「分からなかったですよね?」

 メジロは、ツグミの評価を待てない様子で言った。

「全然わかんなかったよ」

 ツグミの評価に、メジロは笑顔を隠せない様子で、わたしのポケットからも小さなメモ用紙を抜き取った。

「これも、今入れたんです」

「私、カラスのほう見てたのに、全然気づかなかった」

 ツグミの驚いた顔が、わたしは好きだ。ほとんどのことは先読みできるぐらいに頭がよくて、彼女が何かに驚くことはまれだから。

「すごいなあ、進化してるね」

 わたしが言うと、メジロは頭をぺこりと下げて、颯爽と歩き出したけれど、テーブルの足につまずいて転びそうになった。わたし達は笑いながら、同じように笑顔で食堂から出て行く彼女を見送った。メモ用紙を開くと、それぞれに綺麗な字で『ご協力ありがとうございました』と書いてあって、また笑ってしまった。誰にも気づかれないように紙を滑り込ませるやり方は、ヒバリの得意技だ。おっちょこちょいなメジロも仕事を覚えつつある。それは嬉しいことだけど、個性の強いモズ達と接触しなければならないのは、荷が重いように感じた。

 エレベーターホールで、クジャクとヒバリが話し込んでいるのを見たわたしは、階段から降りた。平日はお客さんが少ないから、みんな持ち場を離れて自由にしている。地下に通じる階段の踊り場は、わたしが仕事の日にご飯を食べる場所。そこから数階上の四階の踊り場は、モズのひとりに言い寄られた場所。彼は腕がいいらしくて、死体を預けにきたときも、『ここを一発で撃って仕留めてやった』とか、そういう自慢をしていた。でも、一年ぐらいが経ったある日、その人が死体になって運び込まれてきた。

『逃げたんだよ』

 モズが冷たく言うと、頭に穴の空いた死体を置いて出て行った。何日か前に『一緒に来てくれるなら、おれは引退する』と言われたわたしは、きっぱり断ったのを後悔していた。でも、結局わたしに関係なく引退したんだと思うと、断って正解だった。ヒバリにも、こうやって誘いをかけてくるモズがいるはずだし、部屋に上がったきり帰ってこないときは、その『彼』と一緒にいるんだと思っていた。わたしが同じことをやったら酷い目に遭うだろうけど、ヒバリは部屋を管理してるクジャクのお気に入りなのだ。

 このホテルの色んな場所にある、色んな思い出。通ると、パッと明るくランプが点くみたいに、色んなことが蘇ってくる。地下の仕事場に戻ったわたしは、硬直が解けた死体の足の付け根を、両方ともナイフでバッサリ切った。バケツの中に黒く変色した血がだらだらと落ちてきて、待っていると永遠にかかりそうだったから、腋の下を両方ともナイフで突いて、空気が入るように強く揺さぶった。

 台に載せられるぐらいに軽くなったところで時計を見ると、もう夕方になっていた。階段の踊り場でツグミと晩御飯を食べて、彼女の仕事を少し見学した。

『この信号は、人が制御してる。人がいなくなるまでは赤のままなの。だから当てにしちゃいけないんだ』

 機械のように淡々と言いながら、大きな眼鏡をかけたツグミは、大通りにバツ印をつけた。道路と仲良しの彼女には、とっておきの地図がある。一度だけ見せてもらったことがあって、それは彼女が偶然見つけた『お気に入りの場所』だった。四方に海が見える、展望台のような場所。『晴れてたら、すごい景色だよ』と、何年か前にツグミは言った。そんなときでも『晴れてたら』と条件をつけるところが、彼女らしいなと思った。

 仕事場に戻ったわたしは、体重が半分ぐらいになった死体を台の上に動かして、ウィンチから外した。チップソーの刃を撫でたとき、すぐ近くで車がぶつかったみたいな音が鳴った。焦ったモズが車を柱にぶつけたときのことを思い出して、笑いそうになった。その柱は今でも歪んだままだ。わたしは手袋とエプロンを脱いで、くくった髪を下ろした。音が聞こえたのは、階段室の方向。

 ドアを開けると、目の前に、人がうつ伏せに倒れて死んでいた。

 メジロだった。頭から血を流していて、すぐ上の階から落ちたのだと分かった。


 全員が、厨房に集められた。『仕事中』のわたしから律儀に距離を置いているヒバリと、カワセミが何かを言うのを待っているクジャク、寒そうに肩をすくめているツグミ。わたしは、自分が見たことをそのまま伝えた。カワセミはしばらく黙っていた。リーダー役というわけではないけど、何かあったときに沈黙を破るのは、いつも彼女の役目だった。でも、今回は少し違うみたいで、カワセミは自分に向けられた視線を息苦しく思っているみたいだった。

 クジャクは、厨房で禁止されているはずの煙草をふかしていた。誰かが何か言うのを待っているんじゃなくて、誰も何も言えないということを確認しているみたいだった。煙を飲み込むと、みんなが羨む大きな二重まぶたの目をパチパチとさせて、わたしの方を向いた。

「あれこれ考えても、しょうがないわ。バラして」

 カワセミも同じことを思っているみたいだった。ただ、わたしに言いたくないだけだったのかもしれない。

「はい」

 わたしはうなずいて、その場から立ち去った。みんなはまだ何かを話していたようだったけど、急がなければならなかった。階段室まで戻ったとき、後ろから追いかけてきたツグミが言った。

「一緒に運ぼう」


 台から男の死体をどけて、わたし達は台を綺麗に拭いた。その上にふたりでメジロの死体を乗せて、ツグミが余ったエプロンを巻こうとしたのを、わたしは止めた。

「ここから先は、わたしがやるから。ありがとう」

 ツグミは少しためらっているみたいだったけど、部屋に戻っていった。わたしはメジロの持ち物を、いつもやるみたいにひとつずつ脇へどけていったけど、彼女が持っていたのは、制服とメモ帳の切れ端だけだった。いつもなら数十分かかる作業が、すぐに終わってしまった。そのとき思った。わたしも、死んだらこうなるんだと。死んだ人間から奪った指輪と、何も疑わずに着てきた制服。たったそれだけだ。モズが殺した人たちはみんな、財布や、家族の写真や、指輪や、車の鍵を持っていた。でも、わたし達には、何もない。気づくと、わたしはメジロの体にすがるみたいに泣いていた。嬉しそうにしていたけど、ヒバリみたいにメモを滑り込ませられたとして、それが何になるんだろう。

 わたしはメジロの亡骸から離れて、休憩用のパイプ椅子に腰掛けた。すぐにやらなきゃならない。でも、時間がかかりそうだ。そう思ったとき、わき腹の辺りに痣があることに気づいた。わたしはメジロの足先から痣の位置までを測った。悪い予感が、全身を芯まで冷やした。部屋から飛び出して、階段室の手すりの高さを測る。同じだった。すぐに分かった。彼女は突き飛ばされて、手すりにぶつかってから落ちた。

 事故じゃない。メジロは殺された。


 結局、時間には勝てなかった。誰にも言えないまま、わたしはメジロを解体した。夜中の二時になっていて、わたしは眠気でふらふらになっていた。途中までとりかかっていた男の死体を台へ戻すと、エプロンを脱いでお風呂に浸かった。

 ロッカーに制服をしまいこんだとき、隣にあるメジロのロッカーを見て、しばらく考えこんだ。可愛くて、おっちょこちょいなメジロ。みんなの後をついていっては、可愛がられていた。どうして、彼女が殺されなければならないのだろう。

 わたしは自分のロッカーを開けた。仲間のひとりを解体したのは初めてだった。そして、制服が馬鹿らしく思えたのも。今がそのときなのだろうか。自分でも確信が持てないまま、わたしは封筒を取り出した。十年前の記憶。封筒には頼らずに、女の人との約束を守ってきた。

「いいのかな……」

 わたしは宙につぶやいて、しばらく待った。誰もいない更衣室。もう一度周囲を確認すると、わたしは思い切って封筒を開けた。中には写真と、銀行の名前が書かれたプラスチックのカードが入っていた。

 写真は、手に赤ちゃんを抱いて、微笑んでいる女の人。裏には綺麗な『川井ひな 1998.5.11』の文字。わたしは思わずベンチに腰掛けた。

 お母さん?

 ずっと生きている記憶。わたしはその写真をもう一度見つめた。間違いない。記憶より若いけど、あの女の人だ。この赤ちゃんがわたしなんだろうか。驚いたのは、それが外の世界で撮られた写真だったということだった。背景にはデパートがあって、S字にくねる高速道路が見えている。わたしは封筒に写真とカードを戻して、ロッカーを閉めた。心臓の鼓動が痛くて、思わず胸を押さえた。

 部屋に戻る途中、厨房の電気がまだ点いていることに気づいたわたしは、恐る恐る中を覗きこんだ。カワセミがいて、目が合った。

「こんな時間までかかったの。おいで」

 わたしは呼ばれるままに厨房へと入った。カワセミは可愛いお皿に並べたチーズとハムのカナッペを差し出した。

「私も眠れないの。食べる?」

 わたしはうなずいて、カワセミと一緒に夜食を食べた。カワセミはワインを飲んでいて、少し顔がピンク色になっていた。

「大変だったわね」

「はい」

 嘘はつけなかった。わたしにとっては、今までに仕事中に起きた中で、一番大変な事件だった。

「終わったの?」

「はい」

 痣の話はできなかった。わたしは代わりに言った。

「十年前、わたしを可愛がってくれてたモズは、お母さんなんですか?」

 カワセミはワインを飲む手を止めて、わたしの目をじっと見た。

「自分のお母さんを、モズなんて呼んじゃだめよ」

 やっぱり、そうだったんだ。わたしは強がったことを少し後悔した。

「名前、知ってますか?」

 わたしが言うと、カワセミは首を横に振った。

「ごめんなさい。それは知らないの。ルールだから」

「でも、わたしのお母さんなら、苗字は同じですよね?」

 わたしが食い下がると、カワセミは疲れた顔で笑った。十年前にお母さんが見せた表情に、そっくりだった。

「そうとは限らないわ。あなたの名前は、苗字も下の名前もお母さんが決めたのよ」

 わたしが黙っていると、カワセミは続けた。

「私、昔はモズだったの。お母さんは、私の大先輩。あなたを産んだときは、二十歳だった。一番の稼ぎ頭だったわ。私はすぐに中の仕事をするようになったけど、お母さんに料理を教えてもらったの。自分は出ずっぱりで作れないから、代わりにあなたに食べさせてあげてって」

 わたしは、カワセミの作る料理が好きだ。お母さんが教えた味だから、いつも懐かしさを感じるのだろうか。お母さんが作る料理は、一度も食べたことがないはずなのに。

「私、モズだったころはカップラーメンしか作れなかったのよ」

 わたしが思わず笑うと、カワセミも笑った。

「今日は眠れる?」

「はい、大丈夫です。ごちそうさまでした」

 わたしはそう言って、部屋に戻った。仕事用のノートを引っ張り出して、新しいページを開いた。毎日写真を見ることはできない。でも、顔が見えないように絵にしておけば、人目を気にせずにいつも見ることができる。さっき見たばかりの写真を頭に呼び起こして、顔は書かずに、細い線で絵に起こした。


 眠れなかったけど、朝になって、ツグミも同じように起きていたことが分かった。目の下にクマができていて、眠そうだった。

「寝てないよね」

 わたしが言うと、ツグミはオレンジジュースを飲みながらうなずいた。

「うん。無理だよ。今日はめがねもかけたくないよ」

 眼鏡をかけたくないというのは、仕事をしたくないという意味らしかった。

「でも、今日は大きいのがあるんだ。後でね」

 ツグミは大きく伸びをすると、先に食堂から出て行った。わたしは午前中に男の死体を片付けて、仕事場を掃除した。昼からは何もなくて、その日の仕事は終わりだった。昼ごはんを食べるために階段の踊り場に上がったとき、そこでメジロが死んだことを思い出した。手すりにぶつかって、くるりとひっくり返って頭から落ちる。ドジなメジロなら、事故もありうるだろうか? いや、自分から手すりに突っ込んでいかないといけないし、しかも横向きに手すりを乗り越えるような勢いじゃないと無理だ。

 仕事のあとのご飯どきにいつも来るツグミは、結局来なかった。わたしはタッパーを片付けて、ツグミの仕事場を覗いた。眠気でぼんやりとしている頭をフル回転させて片付けたらしく、ツグミは呆けたような表情でわたしに言った。

「いけなくてごめん。先に終わらせちゃった。やっと眠れる」

 わたしは、ツグミが仕上げた資料をちらりと盗み見た。精密な線と、丁寧なメモ書き。逃走経路と、信号の位置。車幅ギリギリの路地。

「夜行性になっちゃうね」

 わたしが言うと、ツグミは自分自身に呆れたように笑った。地図のそばには、車の鍵とシルバーの拳銃が置かれていた。弾が、何もない場所を囲うように六発立てられていて、それを見ていることに気づいたツグミは言った。

「それを使うんだって。触っちゃだめだよ」

 手にとってみたいとわたしが思ったのを、どうして分かったんだろう。わたしは少し身を引いた。後ろ手に持っている紙を見たツグミは、言った。

「それはなに?」

「疲れてるみたいだから、今はいいよ」

「なになに、見せてよ」

 わたしは、人の姿を消しゴムで綺麗に消した絵を見せた。

「どこかの町? このデパートの名前は聞いたことがあるわ。もしかして、クイズ?」

「時間があるときでいいから」

 わたしが言うと、ツグミはすでに考え始めているようで、地図を手元に手繰り寄せた。でも、すぐに諦めたようにもう一度伸びをすると、『おやすみ』と言って眠ってしまった。


 ロビーに降りると、モズのひとりがチェックアウトし、ヒバリとすれ違うところだった。優雅で無駄のない動きで、ヒバリはモズが着るスーツのポケットに、仕事用の携帯電話を滑り込ませた。

 いつの間にか隣に立ったクジャクが、わたしに言った。

「昨日は大変だったわね。辛かった?」

「いえ、大丈夫です」

 わたしの返事に満足したようで、クジャクはヒバリに目で合図を送った。ヒバリはエレベーターに乗り込むと、上の階へ上がっていった。ロビーにいる関係者は、わたし達だけになった。

「少し、いいですか?」

 わたしが言うと、クジャクは大きな目を向けた。真っ白に透き通った白目と、茶色い瞳を見て、思った。わたし達と違って、昨日はぐっすり眠ったはずだと。

「メジロの体に、痣がありました。殺されたんだと思います」

「それは、確かなの?」

「はい」

 クジャクは少し考え込むように目を細めたあと、小さくうなずいた。

「もしほんとなら、大変なことね」

 信じてもらえただろうか。動こうとしないクジャクを置いて、わたしはツグミの仕事場に戻った。まだ眠っていたけど、机の上は綺麗に片付けられていて、あの拳銃と弾も片付けられていた。


 数日が経ったけど、ツグミはまだ目の下のクマが取れないと言っていた。わたしは薄情なもので、すぐにぐっすり眠れるようになっていた。

「久々に、海まで歩かない? リズムが逆転しちゃって、夜が辛いんだ」

 昼ごはんを食べているとき、ツグミが言った。わたしはうなずいた。

「いいよ」

 前に歩いたのはいつだっただろうか。大きな岩の下を抜けて、海岸に出られる道。岩の下にいる間は暗くて怖いけど、暗闇に目が慣れてから見る夜の海は透き通っていて、月が出ていると淡いグレーに見える。


 ヒバリは、またモズの部屋から中々帰ってこなかった。

 ツグミは、綺麗に片付けられていたのが嘘のように乱雑に散らかった仕事場で、くつろいでいた。

 クジャクは、『起こさないでください』と書かれたカードの中から、曲がったものを捨てていた。

 カワセミは、いつも通りみんなの分、美味しい賄い料理を作った。

 わたしは確信していた。ここで過ごすのは、今日が最後になると。


 夜中になって、わたしはこっそり部屋から抜け出すと、ロッカーに立ち寄って、制服のポケットに封筒を入れた。封筒以外何も持っていないわたしが、どこまで行けるだろうか。試す価値はあると思った。

 すぐに追われて殺されるとしても、自由な瞬間が欲しかった。

 それに、何も持っていないわけじゃない。少なくとも、わたしは家族の写真と死ねる。

 もしツグミを誘えたらと思うけど、そんな無謀な計画に引っ張り込む勇気はなかった。ただ、別れの挨拶ができるなら、それは夜の海以外にないと思っていた。そんなときにツグミから声をかけてくるなんて、すごいことだ。

 ツグミがロビーで待っていた。わたし達は裏口から抜け出して、遊歩道を歩いた。夜の風は昼と同じ空気とは思えないぐらいに涼しかった。ツグミは一度立ち止まって後ろを振り返っただけで、あまり話さなかった。岩の間を抜けた先に、いつもと同じように、月に照らされた海が広がっていた。わたしは思わず足を止めた。

 ヒバリが立っていた。お洒落な服に着替えていて、別人みたいに見えた。ツグミは足を止めずにもう数歩歩いたところで、ゆっくりと立ち止まるとわたしを振り返った。わたしは、確信がないままヒバリに言った。

「どうして、メジロを殺したんですか?」

「犯人探しとか、もういいじゃん」

 ヒバリは面倒そうに言うと、ツグミの体を上から下までぽんぽんと触り、うなずいた。何か武器を隠していないか確認しているということに気づいたのは、ヒバリが自分の鞄から、あのシルバーの拳銃を取り出したときだった。わたしがクジャクに言った、痣の話。あれはすぐにヒバリに伝わるはずだと思っていた。ふたりがわたしを殺そうとするとき、あの拳銃で身を守れたらと思っていたけど、ツグミまで一緒だったなんて。ヒバリは言った。

「あたしが殺したけど、それが何?」

「理由が知りたいんだと、思いますよ」

 わたしとヒバリの間に立ったツグミが、冷たい声で言った。ヒバリは拳銃を慣れた手つきで構えた。銃口と目が合って、わたしは一歩後ずさった。ヒバリは言った。

「あたし、今日で引退なの。引退って言うとあれだけど、モズと出て行く」

 それは、メジロを殺す理由と関係がなかった。わたしが頭で思ったことを読み取って、ヒバリは続けた。

「でも、それってルール違反なんだ。バレたら一発退場。みんな気づいてたと思うけどね。メジロが一人前になっちゃったら多分終わりだって、クジャクに教えてもらったの。彼がもうちょっと早く決心してくれたら、別に殺さなくてもよかったんだけど。タイミングの問題だね」

 そんな馬鹿みたいな理由で、人を殺すなんて。わたしの怒りに気づいたのか、ツグミが少しだけ身を離した。ヒバリが言った。

「これ、このまま撃てるの?」

「はい。二メートルです」

 ツグミは、返り血が飛ばないギリギリの距離を知っている。ヒバリは言われた通りに、わたしにつかつかと近寄った。二メートル先だけど、目の前に感じた。ヒバリは言った。

「あたしは出て行く。あんたは、メジロをバラバラにしたショックで自殺する。てかさ、よくできたよねあんた。ケロッとしてたし。いつも思ってたんだけど、ちょっとネジが緩んでるわ。ツグミみたいに言いなりになってくれないし、クジャクには告げ口するし。ほんと何なのあんた?」

 人を殺す前に、ぽんぽんと出てくる罵倒の言葉。わたしは、もはやヒバリを人間として見ていない自分を可笑しく思った。

 まだ何かを言おうとしているヒバリを遮って、ツグミが言った。

「カラス、よく聞いて」

 今さら、何も聞きたくなかった。でも、ツグミはわたしの目を見て言った。

「半分こだよ」

 一瞬、頭にチーズケーキが浮かんだ。ヒバリが引き金を引いた。乾いた音が鳴って、わたしの目の前の景色は、そのままだった。ヒバリはもう一度引き金を引いたけど、何も起きなかった。ツグミの言葉が頭の中で意味を持って、わたしはヒバリに体当たりした。仰向けに倒れたヒバリの手を両手で掴み、じりじりと体重をかける。銃口がヒバリの頭に向き、わたしは用心金の中に親指を滑り込ませた。するりと引き金が動いて、また同じ、乾いた小さな音が鳴った。

「馬鹿じゃないの、空なんでしょ」

 ヒバリは拳銃を諦めて手を離すと、言った。その文句の半分は、ツグミに向いていた。もう、わたしには分かっていた。空なのは、最初の三発だけ。立ち上がったわたしは、まっすぐヒバリの顔に拳銃を向けて、言った。

「半分はね」

 ヒバリの顔が凍りついた。わたしは引き金を引いた。銃声で耳が聞こえなくなって、ヒバリの鼻と目から血の塊が噴き上がった。

 ツグミはわたしの手から銃を取ると、言った。

「急ごう」

 わたし達は、ヒバリの死体を地下に運び込んだ。ツグミと話したかったけど、先にやってしまわないといけないことは、分かっていた。

 ヒバリの体を台の上に乗せると、ツグミはエプロンを巻いた。わたしが止めようとすると、首を強く横に振った。

「こうすることになってるの。早くしないと、クジャクが帰ってくるわ。あいつ、アリバイ作るためにモズと外に出てるの」

 わたしは自分もエプロンを巻いて、チップソーの電源を入れた。ツグミは拳銃のシリンダーを開けると、わたしが撃った一発以外の弾を抜いた。そして、傍らに丸められたヒバリの服を探ると、新しい弾を抜き出して、五発を装填した。

「自殺する人が、何発も撃つわけないし」

「どうして助けてくれたの」

 わたしが言うと、ツグミは拳銃を持ったまま笑った。

「裏切るわけないじゃん。怖がらせてごめんね」

 ヒバリが撃とうとした二発と、わたしが空振りした一発。ツグミはその三発の後ろ側を見せた。

「雷管の中身が空っぽなだけだよ。結構大変だった。ヒバリは弾とか全部チェックすると思ったから、こうするしかなかったの」

 言いながら服をゴミ袋の中に押し込んだツグミに、わたしは言った。

「ツグミ、目を閉じて」

 チップソーの刃をヒバリの体に当てて、全速力で回した。数十分で、頭から下がバラバラになった。髪を全部そり落とすと、銃弾で顔の半分が破壊されたヒバリの顔は、誰なのか分からなくなった。ノックの音が聞こえて、ツグミが凍りついた。

「ツグミ! 終わった?」

 クジャクの声。わたしが隠れようとすると、ツグミが手をつかんだ。わたしの指から指輪を引き抜くと、手首から先だけになったヒバリの手を拾い上げて、薬指にはめこんだ。刃物を並べた棚の後ろにわたしが隠れると、ツグミは言った。

「どうぞ」

 棚の細い隙間から見ていると、ドアが開いて、クジャクとカワセミが入ってきた。クジャクは準備していたはずが血の匂いに耐えられない様子で、露骨に顔をしかめた。カワセミは冷静な表情で、まるで別人のようだった。

「もうバラしちゃったの?」

 クジャクは呆れたように笑ったけど、血は苦手なようで少し涙目だった。

「すみません」

 ツグミが言うと、クジャクは答えずに拳銃を手に取って、シリンダーを開けた。五発がバラバラと手の中に落ちて、その一発一発を確認したクジャクは、薬室に張り付いて取れなくなった一発の雷管がへこんでいる様子をじっくり見つめた。クジャクは、誰も信用しない。その執拗な確認の仕方を見ていると、自然と鳥肌が立った。手首の先に光る指輪をじっと見つめていたクジャクは、大きな目を一度閉じた。

「かわいそうな子」

 ヒバリのことかと思ったけど、それは違った。クジャクはわたしのことを言ったのだ。

「じゃあ、残りもお願いね」

 クジャクはそう言うと、きびすを返して部屋から出て行った。カワセミはそのあとに続いたけど、出て行く直前に足を止めて振り返った。その目がまっすぐ棚の隙間に向いて、わたしは息を殺した。カワセミは笑顔でうなずくと、出て行った。


 ふたりだけになってしばらく経ったとき、ヒバリの服をゴミ袋から取り出したツグミは、言った。

「サイズ、ほぼ一緒だよね」

 わたしは、制服を脱いで、ヒバリの場違いに派手な服を着込んだ。ツグミは笑顔で言った。

「いいじゃん、ヒバリより似合ってる」

「ありがとう」

 わたしはそう言って、制服から封筒を取り出した。上着のポケットに入れて、一度深呼吸した。ツグミは言った。

「本当に、出て行っちゃうんだ」

「ごめんね」

 わたしが言うと、ツグミは小さなクリアファイルを、作業場の机の中から取り出した。わたしの机なのに、そんなファイルが入っていること自体、知らなかった。

「勝手に忍び込んでごめん。仕事場に置いてたら分かんなくなっちゃうから。これを持って行ってほしいの」

 わたしは、中身を開けた。地図が入っていて、すぐに分かった。ツグミの『お気に入りの場所』だ。展望台の地図。わたしは思わず言った。

「一緒に行こうよ」

 ツグミはしばらく黙っていたけど、小さく首を横に振った。ヒバリの手から指輪を抜いて、自分の薬指にはめた。指の上で並んだ指輪を見て、笑った。

「いつか、そこで会おう。私、いずれクジャクを殺すと思う。そしたら、追いかけるから」

「約束だよ」

 わたしはそう言ったとき、地図がもう一枚挟まっていることに気づいた。

「それは、あなたの地図」

 ツグミはそう言って、少し眠そうな目をこすった。

 あのデパート、S字の高速道路。ホチキス留めされたわたしの絵。消した跡が鉛筆で足されて、また人の形に戻っていた。わたしが驚いて何も言えないでいると、ツグミは言った。

「今は違うデパートになってるけど、そこしかないよ。歩道橋の手前の、噴水広場から見た景色だと思う」

「……ありがとう、調べてくれたんだ」

「仕事だからね」

 ツグミは舌を出すと、笑った。わたしは言った。

「何から何まで、ありがとう。また会えるよね」

 ツグミは強くうなずくと、ふと思い出したように言った。

「ねえ、名前を教えてよ。思い出すときにカラスじゃさ、なんか変じゃん。私は楠木千尋」

「わたしは、川井ひな。でも、苗字も下の名前もお母さんが決めたんだって。だから、本当の名前じゃないかも」

 ツグミの驚いた顔が、わたしは昔から好きだった。頭の回転が速い彼女は、滅多に驚いたりしないから。でも、今どうしてそんな顔をするんだろうと思った。ツグミは言った。

「いい名前じゃん。『かわいい雛』でしょ。お母さんが、そう思ってたんだよ」


 夜明けの空、駅のターミナルはがらがらだった。まず自分がいる駅の名前が分かって、千尋のメモ書きから、乗るべき電車の名前と方向が分かった。

 一番使い道が分からなかったのは、封筒に入っていた銀行のカードだったけど、それはお母さんが使っていた口座で、見たこともないような額のお金が入っていた。暗証番号は、最初から知っていたみたいにすぐ分かった。『〇五一一』、わたしの誕生日。

「切符ですか?」

 年配の女の人が、声をかけてくれた。わたしはうなずいた。方向を指差すと、不思議な顔をしながらも、女の人はどの切符を買えばいいか教えてくれた。

「ありがとうございます」

 わたしが言うと、女の人はスタンドから路線図を一枚抜いて、手渡してくれた。わたしは驚いた。死んだ人間だけを通して想像してきた『外の世界』は、とても怖いところだと思っていたから。

 指が触れて、わたしは路線図を握り締めた。知らない人の手の感触。それは、すぐに手の平から消えてしまうぐらいに儚くて、でも、ずっと覚えていられるぐらいに、暖かかった。

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