第3話 支度

 えーと着替え、ミルク、おむつにお気に入りのおもちゃ。

 自分は実家に着替えや日用品などはあるからと亮ちゃんに必要な物を一通り旅行用の大きなカートに詰めていく。

 普段から亮ちゃん用の品はほとんどひとまとめにしてあるので単純に右から左への移動作業。

 実家は徒歩10分の距離だし、今の私の足だともう少し時間かかるけど歩けない距離ではないよね。

 さっき電話して実家で療養する事を伝えたら皆忙しそうだったし車を出してもらう事は出来そうになかったので、歩いて行くのがいいよね。

 タクシー頼んでも距離短いと嫌がられそうだし。

 あっ、寝落ちしてよく見てなかったドラマでも観ながら作業しようかな。

 ちらりと亮ちゃんを見ると、今はベビーベッドの上ですやすやと寝息を立てている。

 よし。

 スマホを片手に、動画アプリを立ち上げて視聴済みになっているドラマのあらすじを確認していく。

 あれ、何話まで観てたんだっけ?

 主人公がヒロインと大喧嘩するシーンは覚えてるんだけど……。

 それにしても韓国の女性は強いなぁ、私はあんなに言い返したりもの投げたりなんて絶対出来ないよ。

 あれ?

 動画アプリの画面を遮って、別の……着信を知らせる画面に切り替わる。

 表示名は『しなちゃん』。

 しなちゃんこと、生駒志那いこましなは高校時代からの付き合いで私の数少ない心許せる友人だ。

「もしもーし」

『あ、アンタ! 大丈夫だったの? 右足を骨折って……』

 Twitterで昨日呟いたの、見てくれたのかな。

「あっ、うん。痛み止め貰ったしギプス固定も……」

『違うでしょ。そういう事じゃないの。亮ちゃんのお世話とか大丈夫なの?』

 心配してくれてるんだ。

「うん。だいじょぶだいじょぶ。今から実家行くし」

『はぁ? 啓介さん頼らないの?』

「……仕事忙しいから無理、って言われた」

『ほんっともう……とりあえずさぁ。近場でセッティングするから骨折記念女子会、やろ?』

「あっひっどぉ~い。他人の不幸をネタにして飲む気でしょぉ」

『ちぇ、バレたか~……なんてのは冗談で。アンタにもたまには息抜き必要でしょ? と思ってね』

 あ、気遣われてる……。

 昔からしなちゃんは皆の中心にいて、いつだって相手を思いやる事を欠かさない子だったなぁ。

「ごめんなさい……」

『でたでた、みうちゃんの『ごめんなさい』。これ聞かないと連絡とった感じしないわ~』

「ふふ……」

 割と酷いことを言われているみたいだけど、スピーカーから聞こえてくる声からは昔と変わらない優しい感じがするのでただ弄られているだけなのはすぐわかる。

 だから、自然と笑い声が漏れてしまうんだ。

『あ、やっと笑った。ホントにしんどくてどうしようもないなら相談しなね? 仕事ほっぽり出してでもちゃんと話聞くからさ』

「うん」

 でもね、しなちゃん。

 数日前、まだ私が骨折していなかった時に聞いた話だと何だかすごく大きい仕事を任されたとかですごくはしゃいでいたしなちゃんに迷惑かけるわけにはいかないよね……。

 ごめんなさい、しなちゃんの大事な仕事の邪魔をしたくは無いの。

 言ったら呆れられそうなので声には出さず、心の中で思うに留める。

 その気持ちだけありがたく受け取っておきます。

『じゃあさ、女子会セッティングするから……あ。ギプス取れるの一か月後とか?』

「あ、うん。たぶんそのくらいかなぁ」

『おっけー。じゃあ9月半ばくらいで計画練るね。メンツは……よっち、るー、イッキ、あぃな、それとそれと……』

 いつもの、『藤林女子高等学校・第52期合唱部メンバー』の名前が次々と挙がっていく、けれど。

「あ……イッキとあぃなは……」

『あーーそっかぁ。そうだった。ごめんねすっかり忘れてたよ~』

「ううん、私こそごめんなさい……」

 私より早くに結婚して家庭を築いたイッキとあぃなは私が結婚した当初、色々な相談を持ち掛けてはアドバイスをもらうくらいの仲で、しなちゃんとよりもずっと親しい、文字通り『仲良し三人組』、親友同士だった。

 彼女たちの旦那様はどちらもとても優しく、心から自分たちが選んだ伴侶を愛している感じがとても羨ましいと思っていたっけ。

 啓介さんだって、結婚する前は同じ感じだった。

 だから私はこの人なら、と結婚を決意した事もよく覚えている。

 けど……。

 ある時、私は二人に啓介さんの態度が変わって来た事について相談

 最初こそ私の意外過ぎる告白にびっくりして、初めての子供だからきっとどう接していいのかわからないんだよと言っていた親友たち。

 でもその親友たちはやがて、どんどんエスカレートして激しさを増す一方の啓介さんの発言や行動に対して精神的DVやモラハラ、と名前をつけ……最終的には『離婚しな』と口を揃えて言い始めた。

 おかしいのはみうじゃない啓介さんの方だと、勇気を出して自分の意見をきちんと言って、それでもダメなら離婚するしかないと、言ってくれた。

 私は素直にその意見を受け入れて、しっかりと啓介さんと向き合おうとした。

 亮ちゃんを足蹴にして欲しくない事やせめて私が家事をしている時だけでもいいから育児の手伝いをして欲しい事など。

 結局、啓介さんはこれまで見た中で一番激しく怒りをあらわに私に怒鳴り散らし、私はたぶん「ごめんなさい」を人生で最も口にした日となってしまった。

 その後、誰が入れ知恵をしたのかも激しく糾弾され……恐怖でどうしていいかの判断も付けられなかった私は言われるままに口を割るしかなかったけど……。

 個人名が出たとたん、啓介さんは無理やり私のスマホを奪ってすべてのSNSアカウントから彼女達を削除した上で電話帳に登録していた電話番号を着信拒否設定にし、設定解除したら亮がどうなっても知らないぞと言われ……。

 あれから1年が経過しているけど私はいまだに着信拒否設定を解除できずにいる。

『ねえ? 聞いてるー? みうちゃんー?』

「え、あ、うん。ごめんなさい。聞いてるよ~」

『ならいいけど。じゃあ日取り決まったら連絡するね。亮ちゃん連れてきても大丈夫な店探すから一緒にね』

「ありがとございます」

『いいから。じゃああんまり支度の邪魔しちゃ悪いから切るね』

「うん、電話ありがと。またね~」

 途中からスピーカーモードに切り替えて荷物の詰め込みをしながら通話していたのですでに荷造りはほぼ完了していた。

 後は自分のお財布とスマホを詰めればいいかな。

「さ、亮ちゃ~ん。起きてくださーい。お出かけしますよ~」

 幸いにもぐずる事なく目をパッチリと開けてくれた亮ちゃんを手早く抱っこ紐を使って抱っこ、右手に松葉づえ、左手に旅行用カートと言う不格好ないで立ちで自宅を後にする。

「いってきます」

 誰にも聞かれる事のない、長期の外出の始まりを告げるその言葉は、やがて何も発声しなかったかのように、虚空へとかき消えた。

 静まり返った自宅は、私の帰りを待ってくれるんだろうか。

 それとも…………。

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