Freefall
@Tarou_Osaka
本編
ネイルが乾かない。子供相手にバイバイをするみたいに開いた両手を見つめていると、後ろからタケマルが息を吹きかけた。思わず手を丸めると、咳ばらいをして、離れていく足音になった。二年ぐらい付き合っている。竹丸水産と書かれたTシャツをよく着ているから、本名とは関係なく、タケマルと呼んでいる。本人は気にもしていないし、返事もしてくれる。
足音が戻ってきて、咳ばらいを挟んで、横に並んでタケマルになった。無精ひげに包まれた横顔を見慣れすぎて、最初にクラブで出会ったときの精悍さが恋しくなる。ちょうど日付が変わった辺りだった。わたしが腕で払いそうになった缶ビールをひょいと止めて、タケマルは溢れた中身を口で受けてそのまま一気に飲み干した。一緒に来ていた未希と万由里が歓声を上げて、ワンテンポ遅れてわたしもそれに付き合った。絶対に未希を狙っていると思っていたら、一週間ぐらいのメッセージのやりとりで、それがわたしだったということが分かった。剃ったら、元の顔が出てくるんだろうか。わたしがその横顔に息を吹きかけると、タケマルは笑った。
「なんだよ」
「ヒゲ剃ってよ」
「おれ、表に出る予定ないし。ナオはいーよな。ヒゲとか生えねーしな」
タケマルは出不精だ。わたしも人のことは言えない。共通する問題点。それはお金。二十二年の人生において、気軽に使える存在になった試しがない。それは二歳上のタケマルも同じらしい。
「なんかテレビやってねーの?」
その言葉が向いているのは、わたしじゃない。多分、タケマルはリモコンと話している。音無しで光るテレビの音量が上がっていき、せっかく乾きかけている爪が震える。
夕方六時。事務で入っている会社は休みの日。バーテンの仕事だけは、深夜二時まで関係なく続く。社員に昇格したタケマルが、何よりの救い。下請けの下請けに入る日雇いというポジションから、下請けの下請けの社員になった。今日の明休だって、シフトで決まっている休みだから、何も心配いらない。タケマルの収入が安定するなら、わたしはバーテンだけに絞っても大丈夫かと思って、そのことを話したら、猛反対された。理由は、一緒にいられる時間が少ないから。昼の仕事だけに絞るのなら、それは構わないらしい。無精ひげに覆われているけど、タケマルが採算を度外視したロマンチストなのは、疑いようがない。わたしと言えば、お金のことだけを考えていた。五時間酔っ払いに『うん』とか『へえ』と相槌を打っているだけで、昼の仕事と同じか、上回るお金が入ってくるんだから。最近のマイブームは『えーしらない』。これを言ったら、相手はわたしが全てを『知る』まで、延々と話し続けるし、わたしはその間、別の世界に飛べる。タケマルのことを考えているときもあれば、そうじゃないときも。
「ろくなニュースやってねーな」
タケマルはそう言いながら、わたしがアップにした後ろ髪にポンと触れた。後ろから何かが来るのは、嫌いだ。それが息であっても、手であっても。肩がひょいと上がって、誰から見ても、怯えているのが丸わかりになる。
「いいニュースやっても、人は見ないじゃん」
「悪いニュースばっか選んでんのか」
タケマルはリモコンで立膝をぽんぽん叩きながら言った。わたしはネイル越しにテレビの画面を見つめた。
「誰それが、昇進して彼女ができましたとかさ。どうでもいいし。でも、誰それが、昇進して彼女ができたけど死にました、ならニュースになるよ」
わたしが言うと、タケマルは顔をしかめた。五分振りぐらいに、目が合った。わたしが冷静な言葉を放つと、いつもこの目線。まるで、怪物でも見るみたいだ。派手で軽い雰囲気のわたしから、そんな言葉が出るのは、意外だろうか。見た目で判断するなら、頭の中にクッション材が詰め込まれていると思われても、仕方がないかもしれない。
「人は悪いニュースを見たがるってことか」
タケマルは、語尾を上げない。質問かどうかが分からないから、わたしはテレビに向かって言った。
「見たいんじゃなくて、見ずにいられないんだよ」
怪物の時間は続く。わたしから過去に向かって伸びる、何本もの糸。手繰っても千切れた先が見えるだけだけど、こういうときは、少しだけ何かが引っかかって、ついてくるときがある。実家の、スニーカーの上にスニーカーが積まれた玄関。少しの風で大合唱する、すりガラスの窓。錆びついた臭突。そういう単純な表現に抑え込めるようになっただけで、自分が大人になったと実感する。
最近よくテレビで流れる、田舎の家の特集。タケマルはそういうのが好きらしくて、珍しい動物を観察するみたいに、いつも食い入るように見ている。工業地帯で煤煙を離乳食代わりに育った男だから、対照的なものを好むのかもしれない。でも、わたしからすれば、自分の過去に直結しているから、見るのは正直つらいものがある。放っておけば一生習うことのない漢字で構成された村の名前。渡壁という変わった苗字。皆、最初は『わたかべ』と読む。実際には『とかべ』が正しい。祖父の趣味をそのまま引き継いで、人間が四人住むことを想定していなかった、狭くてボロい実家。しっかりと足を伸ばして座れる家じゃなかった。妹の早苗が小さい頃は、まだよかった。
「おれは、いいニュースも好きなんだけどな」
タケマルの言葉に、指先の動きだけで返事をする。『そうかしら』の意味だったけど、伝わっただろうか。そう、早苗が小さかったころは、まだ身動きが取れた。わたしとは五歳離れている。高校受験のシーズンが始まりそうになっていたころ、十歳になった早苗は急に大きくなって、何をしても視界を遮るようになり、わたしの居場所は半分に圧縮された。そんな早苗は、今は十七歳。
高校を出るのと同時に家を出て、渡壁という名前を持つ人間とは、誰とも連絡は取っていない。タケマルと結婚でもすれば、わたしの苗字は変わって、痕跡はなくなる。
「人の話、聞かねーよな」
タケマルの呆れた笑いと、缶ビールの蓋を開ける音。さっき立ち上がったのは、冷蔵庫にビールを取りに行ったんだな。わたしはテーブルの上に置かれた鏡に向かって、目をぱちぱちと瞬きさせた。話は確かに、あまり耳に入っていない。それは、普段はずっと何かを頭の中で再生していて、話しかけられるたびに一時停止ボタンを押しているから。
「なんの話だっけ?」
「いいニュースの話」
わたしのスマートフォンは、今はロックがかかっていて画面は真っ暗だ。でも、一昨日届いたメールは、わたしが渡壁家の人間だということを思い出させるのに、十分だった。電話なら、出なければ済む。でも、メールは開かないわけにもいかない。SNSは、アドレス帳から辿れるどんな細い糸でも、見逃すことはない。ちょっとだけかじって放置していたSNSのアカウントに、久々にメッセージが届いたという通知メール。
『お姉ちゃんだよね? 渡壁早苗です』
しばらく考えてから、自分が渡壁奈央であることを白状した。待ち構えていたように、返事が来た。
『実家、潰すんだって。要るものあるなら、取っといてほしいって』
すでに眠っていたタケマルを一旦起こして、一緒に眠ろうとしたけど、無理だった。六時間ぐらいかかって送った返事は、短かった。
『わたしのものなんて、何か残ってるっけ?』
返事は、また一瞬で返ってきた。
『知らない。鍵開けてあるから』
一日中テレビを見ていた母と、緑色のトラクターで畑を行ったり来たりしていた父。二人とも、自分だけが座れる『居場所』を、雑然とした家の中に用意していた。居間や廊下にわたし達が入り込める隙はなく、父は『家が狭くなってきたな』が口癖で、その言葉は大人サイズになったわたしと、いずれそうなる早苗に向けられていた。反抗期を迎える代わりに、中学校時代、わたしは勉強漬けだった。少し時間はかかっても、いい高校に入るのが人生の抜け道だと思っていた。自分の頭の回転の速さに自信があったし、これでも昔は、真面目な性格だったのだ。それが今は、体にできる限り有害なものを仕込んでは、吐いて、化粧で隠しての繰り返し。でも結局、真面目に不真面目をやっているだけで、根っこは変わっていないということを、時々思い知らされる。スマートフォンを手に取って、端で頭をコツコツ叩いていると、タケマルが言った。
「大丈夫か?」
「いってきまーす」
タケマルを遮るように言って、わたしは姿見で全身を確認すると、同棲して一年になるアパートを飛び出した。駅までの道はにぎやかで、塾に向かう子供や、習い事の帰りの子供がいる。すれ違ったり、一緒に歩いたり。話し声が耳に入ることもある。早苗は、高二に上がる年だ。あの部屋でわたしと同じように、勉強をしたのだろうか。少なくとも、部屋に自分しかいなかったんだから、自由は利いたはずだ。
バーのカウンター裏は狭い。いつも一緒に入っているアラレさんは、空手チョップで瓶を粉々にできる大男で、料理と賑やかし担当のわたしに対して、客が一線を越えないよう見張っている。
「嫌なことがあった?」
何も言ってないのに、超能力者のような一言。わたしが思わず笑い出すと、首を横に振った。
「ごまかそうとしても、分かるよ」
何も負い目のない他人だからだろうか。わたしは、アラレさんに結構家の話をしている。タケマルには言えないことまで。
「なんか、SNSって怖いですよね」
わたしが言うと、アラレさんは身に覚えが百個はあるように、苦笑いを浮かべた。
「なんだよ、やましいことしてんの?」
わたしはエプロンを巻きながら、首を横に振った。
「してないですけど、生きてたら色々、積み重なってくるじゃないですか。アラレさんだって、昔よく知っていたけど、会わなくなった人から久々に連絡来たら、怖くないですか?」
早苗って言う代わりに、随分、言葉数を稼いで遠回りをした。アラレさんはしばらく宙を仰いでいたけど、ぴったりの例を思い出したように、眉をひょいと上げた。
「高校時代の同級生から、急に連絡が来たことはあるよ。当時から、割と可愛い子だった。プチ同窓会みたいな感じで、飲みに行ったな」
「そういう、いい再会もあるんですね」
わたしが上目遣いで覗き込むように見ると、アラレさんはまた苦笑いを浮かべた。
「いい感じになって、家についてったら、居間にホワイトボードがあった」
「ホワイトボード?」
「マルチ商法の説明用だよ。即、逃げたわ」
アラレさんは、何も否定しない。わたしが『怖い』と感じたことは、どれだけ言葉を紡いでも『怖い』ままだ。だから、ついつい話し過ぎてしまう。顔を見合わせてひとしきり笑った後、常連の鴨井さんが入ってきて、わたし達は表情を切り替えた。
午前三時。ドアを閉めるときに手が滑って音が鳴ったけど、タケマルは起きなかった。できるだけ静かにシャワーを浴びて、部屋を薄暗くして最弱の風でブローする間も、寝室からいびきが聞こえてくるだけだった。二つ部屋がある物件にこだわったとき、タケマルは『なんでだよー』を連発して、納得いかない様子だった。家賃は割高になるけど、わたしはどうしても、自分が一人になれるスペースが必要だと思っていた。狭い実家で育ったから、その反動なのは間違いない。常に何かの音がしている、うるさくてたまらない環境。学校にいても追い出されるし、家には一人になれる場所がなかった。早苗の『おねーちゃん、また勉強するの?』という無邪気な声。文字だと、その口調は伝わらない。でも頭の中では、中学校に上がった頃の早苗の声で再生される。深夜番組を音無しで見ているときみたいだ。
『実家、潰すんだって』
声で聞いたら、一体どんな感じなんだろう。
「起きてんのか?」
タケマルが冷蔵庫までの短い道のりを『ビール往復』して、隣に座った。
「なんかあったのか?」
「実家から連絡が来たんだ」
「見つかったみたいな言い方だな」
ビールはわたしの分もあった。わたしはタケマルと乾杯して、一口飲んだ。店で飲むお酒とは違って、ちゃんと味がした。
「見つかったみたいなもんだよ」
「おれが育った家は、後から分かったんだけど、家じゃなかった」
タケマルはテレビをつけると、音を限界まで下げた。一瞬だけ聞こえたガヤの笑い声がすっと遠くなり、わたしはフラッシュを焚かれたみたいに光を跳ね返すタケマルの横顔を見た。
「家じゃなかったの?」
「工場の事務所だった。おれは好きだったけどね」
「わたしの家は、人が四人住むことを想定してない家だったわ。物ばっかり並んでてさ。書斎は、先祖代々買い置きした本の倉庫だし、台所にはプラケースが積まれてるし、なんだろ。ごみ屋敷みたいな」
タケマルにこんな話をするのは、初めてだった。どうしても、アラレさんに話してきたように、笑い話にはできない。
「二段ベッドがあって、勉強机が一つあって、先祖代々伝わる箪笥が、窓を半分塞ぐみたいな形で置いてあった」
「箪笥がなけりゃ、広く感じたんじゃない?」
「そうだよね。しかも、わたし達のじゃなくて、おばあちゃんのやつだったんだよ」
タケマルは缶ビールの中身を振りながら、首を傾げた。
「わたし達って、誰?」
「妹だよ」
「へえ」
そう、タケマルはわたしの家のことを、何も知らない。わたしも、早苗のことをよく知っているとは言えない。
「早苗ってんだけど、どんな子なのか分かる前に、わたしが家を出ちゃったから」
「何歳離れてんの?」
「五歳。今年、十七かな?」
「えーっと、そうか。十八で家出たつってたよな。てことは、最後に会ったときは、その子は中一?」
「そうだね。それが四年ぶりに、連絡してきたんだ。実家を潰すんだって」
ぽんぽんと続いてきた会話が、そこで止まった。タケマルはビールを一口飲むと、顔をしかめた。
「荷物、取りに行かないとな。それか、送ってもらうか」
「そんなことしたら、わたしがここに住んでるってことが分かるじゃない」
「それすら、嫌なのか?」
「うーん、むしろそれが嫌だね」
わたしは口角を上げて笑顔を作った。『それ以上は聞かないで』という意味で、共通の言語だったはずだけど、タケマルは止まらなかった。
「直感だけど。ナオ、ガリ勉だったろ?」
その言葉を聞いて、視界が薄暗くなった。端っこにもやがかかったみたいに、黒っぽい影ができる。わたしはうなずいた。
「想像もつかないぐらいね。勉強には自信があったよ」
「賢い人ってのは、シャーペンの持ち方とか、紙を押さえるときの手で分かるよ」
もう、踏み込まれたくない。タケマルがタケマルでなくなってしまう。わたしのしかめ面に気づいたのか、缶ビールを飲む手が止まった。
「いつ、取りに行くんだ?」
「分かんない。わたしの私物がどれかも、思い出せない気がする」
「箪笥が半分塞いでいる部屋で、妹の相手をしながら勉強かよ。大変だな」
タケマルの頭の中には、もうガリ勉時代のわたしと、茶色の古臭い箪笥が浮かんでいるだろう。そのイメージは相当具体的だろうし、ほぼ的中しているに違いない。
「気の休まる暇がなかったね。結局、推薦狙いだった志望校には落ちたし。ガチで受ける前に心が折れたんだ」
わたしが言うと、タケマルはビールの一口に逃げた。
「模試とか、問題集とかで、力試しするじゃん。タケマル、相似って分かる?」
「明日、昼からやっちゃうつもりだけど?」
「掃除じゃないって。面積を求める問題でさ。大きさは違うけど、実は形が一緒の図形が隠れてることがあるの。それに気づけたら、ぱっと見手掛かりがない図形でも、角度と辺の比は簡単に決まるでしょ」
タケマルは、すでにわたしの話なんかは聞いていなくて、掃除の面倒さに今から憂鬱なようで、少し顔を曇らせていた。でも、二部屋ある理由は、なんとなく分かってくれたはずだ。しばらく間が空いて、返事が口から漏れた。
「へえ」
「まあ、そんな図形がいっぱい重なった問題なんだけど、一つだけ、どうしても分からなかったんだ」
「答えを見ても?」
「見たらすぐに分かったよ。自力で無理だったってだけ。いつも、赤本の問題だけコピーして、学校で答え合わせしてた。その場で分かったら、覚えられないから。てか、そこまで難問じゃなかったんだ。なんか自信なくして、息切れしちゃったんだよね」
昨日のことのように、すらすらと思い出せる。小学生だった早苗も、突然机に向かい始めたわたしに、戸惑っていた。すぐ目の前にいるのに、一緒に遊ばなくなったし、わたしは、問題が解けないときはこの世の終わりのような表情をしていた。
「集中できないからさ」
ビールと一緒に飲み込もうとしたけど遅かった。思わず言葉に出ていた。苦い後味だけが残ったとき、タケマルが言った。
「よくケンカした?」
「いや、あの子は素直だったし、それはなかったよ。わたしは、勉強する時間を決めてた。学校から帰ってきて、晩御飯の時間までの三時間。ここしか、集中できる時間はなかったんだ」
タケマルは、目の前に行き止まりが突然現れたように、顔を強張らせた。
「最低な人間だよ、わたし。早苗の部屋でもあったのに。晩御飯までの時間は一人にしてって言って、部屋から追い出してたんだ。もう、機械みたいに正確なサイクルだった。当たり前だけど、帰ってきたら、必ず早苗がいるんだ。で、部屋から追い出して、後に用事を残したくないからまずお風呂に入る。パジャマに着替えたら、三時間ぶっ通しで勉強。晩御飯に呼ばれたら、一階に下りる。超速で食べたら、あとは寝るだけ。その繰り返し」
一気に言ってしまった。わたしが息を整えていると、タケマルは三者面談でもしているみたいに、何もない空間を見つめながら言った。
「その、早苗ちゃんは、晩御飯のときはちゃんと帰ってきてたのか?」
「帰ってきてたよ。受験までの一年間は、ずっとその繰り返しだった。一人だから、やりたい放題だし、スマホで頭をコツコツ叩く癖も、その頃はガチ勉強中に分度器でやってたんだ」
「だから、二部屋にこだわってたのか。ストイックな性格だと思ってたけど、誰かに言われてそうしたわけじゃないんだろ?」
「完全に、自分の意志だね。言いなりになってたら、今ごろ畑を耕してるよ」
時計を見たタケマルは、目を丸くした。
「四時だ」
「タケマル、高校のときはどうしてたの?」
返事の代わりに、わたしの膝裏に片方の手を滑り込ませたタケマルは、片方の手を背中の辺りに回した。こうなったら、抵抗する術はない。ひょいと持ち上げられて、飼い猫のようにベッドの上に下ろされた。
「それは、明日話す。とりあえず寝ろ」
「腰は大丈夫?」
「あと十年は持つんじゃねーか」
タケマルは笑うと、ジャージのポケットから煙草を取り出して、一本をくわえた。ベランダの扉を開けて、スリッパに足を突っ込みながら言った。
「高校時代は、今みたいに人を持ち上げてたよ。頭は支えないから、逆さづりだ。そしたら不思議なもんで、誰のもんでもない財布が、勝手に床に落ちてくるんだ」
猫背で煙草に火をつける後ろ姿を見ていると、弱い者いじめをする最悪な部類の不良だったころのタケマルが頭に浮かぶ。そのイメージは大事にしたい。お互い同類の最低な人間だと分かっているから、安心して一緒にいられる。
でも、わたしがどんな人間かは置いといて、荷物は取りに行くべきだ。
実家までの道のりは、百六十キロ。よくもこれだけ離れたものだと、距離を見たときは驚いた。でも、車だと、二時間の距離でしかなかった。昼前に、会社のロゴが入ったライトエースを路地に寄せたタケマルが、窓を見上げながら手を振った。わたしは、段ボールとガムテープを荷室に積み込んで、助手席に座った。
「いいの?」
「社長には言ってある」
今日は日曜日なのに、本当だろうか。ついに無精ひげが剃り落とされたタケマルは、自分の手足のようにライトエースを操りながら、高速道路に乗った。外の景色の流れる速さに、少し怖くなった。車を持っていないから、ドライブをするのは初めてだ。行程の半分以上を過ぎたところで、タケマルが言った。
「助手席にナオがいるのは、変な感じだ。いつも、汗かきの清水が座ってるから」
わたしが思わず腰を浮かせると、タケマルは笑った。
「毎朝掃除してるから、大丈夫だよ」
AMラジオから流れるしわくちゃの声に耳を傾けていると、タケマルが言った。
「自分の車、欲しいな。目標できたわ、今」
「これ、もっと古くなったら買い取りなよ」
わたしが言うと、タケマルは笑った。
「気に入った?」
「あまり車とか乗らないから、分かんないけど。広々としてて、いいよ」
部屋の半分を占めていた、誰のものでもない箪笥。当時のわたしなら、わたしと早苗が自由に使える面積を計算できたに違いない。それをできるぐらいの、心の余裕があればよかった。懇願するように部屋から追い出すんじゃなくて。早苗は、母がテレビを見ている居間や、本だらけの書斎には、近づこうとしなかった。早苗のお気に入りの場所は、あくまで二段ベッドの上段で、追い出すようになるまでは、そこから勉強しているわたしを見下ろしていた。
「早苗は、頭が良かったんだ」
「ガリ勉姉妹だったのか」
タケマルは猛スピードでトラックを追い越すと、笑った。
「なんだろう。機転が利くっていうか。算数だと、ゴリ押しで正解する方法と、できたらこの法則に気づいて、こうして解いてほしいっていう、理想の方法があるんだけど。早苗は、理想の方法を見つけるのが速かった。受験が本格的になるまでは、早苗の勉強はわたしが教えてたの」
言えば言うほど、自分が鮮明に記憶しているということを思い知らされる。タケマルも、わたしがこんなに早口で話す人だとは、思っていなかっただろう。
「おれ、小学生でも教えられる気がしないわ」
タケマルは、わたしのスマートフォンに映るナビに、視線を落とした。高速道路から降りて、その道の険しさに目を丸くした。
「おー、下りたら別世界だな」
「田舎でしょ」
道はまだ、わたしの記憶と結びつかない。ニ十分ぐらい、急に狭くなったり、あらびきの胡椒が振りかけられたみたいな小石だらけの道をくぐりぬけていくと、ようやく視界が開けて、道路の両脇に田んぼが見えた。
「思い出してきた?」
タケマルは信号待ちで言うと、車がまばらに停まる公民館の方に目を向けた。
「思ってたより、賑やかなとこだな」
わたしは、この道を通って学校に通っていた。それを言おうか迷っていると、タケマルは畑を指差した。
「お父さん、畑にいたりしない?」
「万が一いたら言うから、引き返してよ」
「なんでだよ」
「お父さんもお母さんも、興味がある振りをするのだけは、得意だったよ。公民館で、渡壁家のことを聞いてみたらいいわ。多分、先祖代々伝わる家に住んでる、上品な一家だと思ってるよ」
わたしの記憶。正しく覚えているものもあれば、ねじ曲がっているものも。でも、これは率直な感想だ。タケマルからすれば、『外面だけへつらうのは、どんな家でも同じだ』と言いたくなるだろう。確かに、それは完全に正しい。
「どんな家でも、そーゆーとこはあるでしょ」
タケマルが言った。わたしはうなずいた。これ以上、話したくない。公民館の前を通りすぎて、最後の角を曲がると、あの妙に縦に長い、木造二階建ての家が姿を現した。壁の色から赤茶けた瓦まで、全てが記憶通りだった。わたしが望んでいた通りに色褪せていることもなかった。
「タケマル、あれだよ」
わたしが言うと、タケマルはボロ家に目を凝らせた。
「歴史のありそうな家だな。そんな狭く見えないけど」
「入ったら分かるよ」
わたしは少し広くなった路肩を指差した。
「待っててくれたら、パッと入って、パッと出てくるから」
返事を待たずに車から降りて、リアハッチを開けた。全力で遠ざかったはずの場所が、今目の前にある。玄関をよく見ると、伸び放題だった鉢植えや、郵便受けの上に置いてあった猫のぬいぐるみはなくなっていた。段ボールとテープを取り出していると、運転席から降りてきたタケマルが言った。
「一人で行くのか?」
「うん、そんなに私物ないし。来てくれてありがと」
わたしは玄関の引き戸をゆっくり引いた。早苗の言う通り、鍵はかかっていなかった。昔から、鍵をかけているところは見たことがなかったけど、都会暮らしが長くなった今では、あまりに不用心に思える。玄関はがらんとしていて、靴は一足もなかった。埃は綺麗に払われていて、色とりどりの靴ベラもなければ、傘立てもない。障害物競争のコースみたいに置かれた、野菜の絵が描かれた段ボール箱や、小指をぶつけると死ぬほど痛かったプラスチックケースも、なくなっている。ただ、置いてあったところだけ微かに色が違うから、そこだけは記憶と繋がっている。
父の『居場所』だった書斎の本は片付けられて、生き残った本はガラス棚の中に整然と収められていた。棚なんかに収まるはずのない冊数があったはずだから、かなりの冊数を捨てたんだろう。居間には新しくなったテレビと、新しいこたつに、積まれた座布団。横倒しに置かれたままになっていた竹馬は、片付けられていた。
「すっからかんだ……」
思わず、口に出た。これ、本当にわたしが育った家なの? あまりに広くて、がらんとしている。何をするにも、物を避けるか、乗り越えるしかなかったのに。しばらく一階にいて、タケマルを待たせていることを思い出したわたしは、早足で二階に上がった。絶壁のような急な階段を上がり切ると、すぐに現れる引き戸。レールは少し曲がっていて、開けるにはコツがいる。少しだけ持ち上げるようにしながら開けないといけない。試しに力をこめて引っ張ると、外れそうになった。この辺は相変わらずだ。部屋の中には、二段ベッドと勉強机がまだあった。
そして、あの箪笥も。ここだけ、昔の記憶のままだ。『大した私物なんかない』とは言ったけど、勉強机の引き出しの中身は、ほとんどがわたしのものだったはずだ。一つずつ開けていくと、わたしの筆箱や、卒業アルバムがそのまま残っていた。画面にヒビが入った、昔の携帯電話もある。
段ボール箱が要るほどでもなかったな。ガムテープを指でくるくる回しながら、考えた。でも、目覚まし時計とか、薄いピンク色の小物入れに、電子辞書。あと、オーディオプレイヤー。その辺が見当たらない。私物と聞いてすぐに浮かんだのは、卒業アルバムとかじゃなくて、そういう類のものだった。とりあえず卒業アルバムと筆箱を机の上に出すと、わたしは小さく息をついた。箪笥で半分塞がれた窓越しに、タケマルの声が聞こえた。
「あ……、こんにちは。ええ、あの……」
誰と話しているんだろう。わたしは窓を小さく開けた。タケマルの車が見えたけど、人の姿は確認できない。その分、声はよく通った。タケマルの声が再び響いた。
「ええ、そうなんすよ。私物を取りにってことで……。あ、そうです。お付き合いさせていただいてます」
「まあ、そうなんですの」
お母さんの声。わたしは窓を閉じて、隠れるようにその場に座り込んだ。玄関の引き戸が開けられる音。部屋の中に声が響き渡った。
「おーい、奈央。帰ってきてるのか?」
お父さんだ。早苗は『いつでも取りに来たら』みたいに言っていたけど、まだ住んでるんだから、家族と鉢合わせするのは当然だ。どうしてそんな単純なことに気づかなかったのか。もう、引き返せない。覚悟を決めたわたしは、二階から声を張り上げた。
「帰ってきてます。急にごめんなさい」
家の中が賑やかになって、足音で満たされていく。タケマルの足音すら混ざっている。わたしが二階から下りると、居間と廊下の間で立ち話をする三人が見えた。背中を向けているタケマルはやや猫背で、ぺこぺこしている。その背中越しに、父と母がいた。四年経っても、その笑顔は変わらない。身内には決して見せない表情。タケマルが振り返って、渡壁家の長女であるわたしに言った。
「私物、集めた?」
「うん」
「奈央、随分変わったな」
会話に割り込むように父が言った。母が子供時代のわたしを見透かすみたいに、表情をやわらげた。
「ほんとね。でも、化粧上手だわ。益田さん、奈央は気が強いでしょ」
タケマルの本名。益田直樹。ほんとはナオキと呼びたい。でも、自分の名前と被っているから、どこかで引っかかってしまう。
「どうでしょう。繊細だとは思いましたが……」
わたしに言ったこともない印象を、今日初めて会った母に話すナオキ。その印象がわたしを『ほぼ』表しているとでも言うみたいに、深くうなずく父。三対一なら、多数決でわたしは『繊細な人間』ということになってしまう。ただ、早く帰りたいだけなのに。母が言うことは、想像がつく。そして、ナオキが断らないということだって、わたしには分かっている。渡壁家の象徴である七福神のような笑顔は、人から『遠慮』を奪ってしまう。
「ご飯でも食べていったら?」
母が言った。父がうなずく。ナオキは手を横に振って、とりあえず断る素振りを見せた後、わたしの方を見た。何か言うまでは黙っているだろうから、わたしは言った。
「迷惑じゃなければ……」
「迷惑なわけがないでしょ。四年ぶりよ。ほとんど失踪だったんだから。出て行った後、一度だけ電話をくれたでしょ。あれがなかったら、届けを出してたわ」
母が言った。ナオキも母の立場になって、この状況を整理しているように見える。わたしは小さくうなずいた。
「ごめん。とにかく気分を変えたかったんだ」
「そんなことで、謝らなくていい」
父が言った。わたしは、畳んだままの段ボールを家の中に置く権利を得たような気がして、ガムテープと一緒に、床に置いた。母が言った。
「お茶出すから、立ってないで。居間でくつろいでて」
まるで、結婚前の顔合わせだ。次は、父がナオキに『娘はやらん』とでも言うのだろうか。わたしは座布団を四枚出すと、ふんわりと腰を下ろした。ナオキの目には、わたしの言っていた『ごみ屋敷』と完全に矛盾した景色が映っているだろう。
「すごい片付けたんだね」
わたしが言うと、父はうなずいた。
「手狭だったからな」
気づくのが十年は遅い気がするけれど、こんなに広々とするとは、思ってもいなかった。母がお茶を四つ持って来て座ると、テレビをつけた。その所作を見ながら、ふと思った。本当にこの家を潰す気なのだろうか。売るつもりなのかな? わたしは言った。
「こんなに片付けたのに、売っちゃうの? それとも、売るから片付けたの?」
母が目を丸くした。
「売るって何を?」
「この家」
わたしが言うと、父が笑った。
「そういう話が出ることもあるけど、何も具体的には決まってないよ」
早苗は確かに『実家を潰す』と書いていたはずだ。そこで初めて、姿がないことに気づいた。
「早苗は? 学校?」
わたしの言葉に、母が呆れたように苦笑いを浮かべた。
「もうすぐ帰ってくるわ」
何もおかしなところはない。高二に上がる年だし、六限目が終わって帰ってくるのは、おそらく四時前ぐらい。
「早苗にも、家を売るとか、そんな話はした?」
わたしが言うと、父は小さく首を傾げた。
「もっと賑やかなところへ引っ越したいかって、聞いたことはある。本人は嫌だって言ってたけどな」
たったそれだけで、『実家を潰す』なんて話には飛躍しない。でも、そもそものきっかけが、早苗からメールが来たことだったのだ。それをどう伝えるか頭の中で整理していると、ガラガラと扉が開く音がした。
「ただいま」
早苗の声だった。靴の数に驚いているだろうか。靴下が廊下を踏む静かな音が近づいてきて、居間にひょっこりと顔を出した早苗は、わたしの顔を見ると、口角を上げて微笑んだ。
「お姉ちゃん、久しぶり」
「久しぶりだね」
わたしが同じように笑顔を返すと、早苗はナオキに気づいて表情を引き締め、小さく頭を下げた。
「あ、あの。初めまして」
「初めまして、益田直樹です」
ナオキは軽く頭を下げると、わたしの顔をちらりと見た。『これってどういう状況?』と目で訴えているのが分かる。わたしは、母に言った。
「ご飯は何時?」
「うーん、六時ぐらいかな」
母が笑顔を見せた。ナオキが気まずそうなうなずきで応じた。父が言った。
「益田くんも、食べていきな」
わたしと、父と母の間で視線を泳がせていたナオキは、ようやくうなずいた。
「あの、本当にご迷惑でなければ……」
わたしはわたしで、早苗に聞きたいことがあった。どうして、実家を潰すなんて嘘をついたのか。
「タケ……、いや、ナオキ。車にケータイの充電器忘れたんだけど」
わたしが立ち上がりながら言うと、ナオキは同じように立ち上がった。一旦家から出て、車の前に立ったところで言った
「帰りたいんじゃないの? いいのか?」
「実家を潰すって話は、嘘だったんだよ。どうしてそんなことを言ったのか、確かめたいんだ」
わたしの言葉に、ナオキは首を傾げた。
「なんだろ、妹さんがそう思い込んだんじゃねえの?」
「それも含めて、早苗から聞きたいの」
ドアを開けて、シガーソケットからケーブルだけ抜いたとき、鍵がついたままになっていることに気づいて、わたしは言った。
「ちょっと、鍵つけっぱだし」
「こんな車、パクるやついねーだろ」
ナオキは少しだけタケマルに戻って、笑った。鍵は閉めないし、パスワードは何もかも、全部ゼロで設定する男。ゼロがだめなら、わたしが代わりに設定して、覚えるようにしているぐらいだ。
居間に戻ると、台所に立った母の代わりに、早苗が座っていた。改めてその制服を見たわたしは、思わず声に出した。
「早苗、すごいじゃん。受かったんだ」
わたしの志望校。その制服に袖を通すのが夢だった。母が言った。
「奈央が出て行ってから、大変だったんだから。家中のものを捨て出したのよ」
父もそれが遠い昔の出来事みたいに笑った。受験シーズンなんだから、ここ二年ぐらいの話だろう。早苗は言った。
「集中できないから」
その言葉に、ナオキが表情を固めた。姉妹で全く同じ言葉が出るとは、思っていなかったのかもしれない。
「狭かったもんね」
相槌を打つと、早苗はうなずいた。二階に上がったとき、部屋の中がそのままだったことを思い出したわたしは、言った。
「でも、部屋はあのままだったね」
「あれは、思い出だから別。分からないときに、お姉ちゃんが分度器で頭をコツコツやる癖とか、覚えてるし。今は、書斎が半分私の部屋みたいな感じ」
「お父さんを追い出してるの?」
わたしが言いながら父の方を見ると、父はうなずいた。
「追い出されてるよ」
誰かを追い出さないといけないのは、わたしが受験勉強をしていたころから変わっていなかった。父は、ナオキに言った。
「建設業をやっているのかい?」
「は、はい」
「肩で分かるよ」
父はそう言って、わたしの方を向いた。
「奈央は、子供の頃から畑仕事をよく手伝ってくれてた。今でも、すぐに勘を取り戻すんじゃないか」
「どうだろ。虫は無理になったよ」
わたしが言うと、父と早苗は顔を見合わせて笑った。ナオキはその反応を見て、虫を素手で捕まえるぐらいに、何も怖がらなかった昔のわたしを見て取ったに違いない。
「今はほんと無理」
「大人になると、無理になるもんもありますよね」
ナオキは部屋に向かって話すように、はきはきとした口調で言った。早苗はわたしとナオキを交互に見ていたけど、急にあっと声を上げた。
「付き合ってるの?」
「そーだよ。二年」
わたしが即答すると、ナオキが申し訳なさそうに肩をすくめた。このどうしようもない『茶話会』から引き上げたい。それに、父がいるから、早苗が『嘘』をついた理由は聞けそうにない。少し間が空いた後、父が言った。
「奈央は、早く家庭に入るタイプだと思ってた」
結婚するなんて、一言も言ってない。でも、ここで明確に否定すると、ナオキを傷つけてしまうかもしれない。
「十八までしか知らないのに、そんな雰囲気出てた?」
わたしが言うと、父はうなずいた。早苗が父の顔色をちらりと伺って、わたしの方を向いた。
「実家を潰すぐらい言わないと、お姉ちゃんは帰ってこないと思ったの」
「へえ。帰ってきてほしかったの?」
わたしが言うと、早苗は小さくうなずいた。
「まあ、家も広くなったし。ある意味、潰したようなもんでしょ」
その淡々とした言い回しに、思わず笑った。確かにわたし達の知っている実家は『潰れた』と言ってもいいぐらいだ。父が、ナオキの方を向いて言った。
「益田くん、仕事はずっと建設系なのか?」
「建設なんすけど、事業を広げるみたいで、今は電検を取れって言われてます」
わたしが何度も聞き逃して、忘れた言葉。電検三種。問題集を家で見たことがある。最近は、ダーツ投げの的になっていた。
「建設業は大変だろ。現場代理人にでもなったら、気が休まらない」
「そうっすね、現代やってて、病んだ上司とかはいます」
ナオキを、日雇いの現場作業員から社員のポジションまで引き上げた人のことだ。わたしは、その話もよく聞いていた。名前は忘れたけど、もう会社を辞めてしまっている。父は主に、わたしの身なりを観察してから、ナオキに言った。
「雰囲気からすると、都会暮らしか? 何をするにも高いだろ」
「そうっすね。家賃とか……」
言いながら、早苗が興味津々で聞いていることに気づいたナオキは、苦笑いを浮かべた。
「月、五万ぐらいしますね」
実際には、四万三千円だ。どうして高い方にサバを読んだんだろう。わたしは早苗と目を見合わせて、眉をひょいと上げた。早苗にはその意味が通じなかったらしく、小さく首を傾げただけだった。父が『月五万』の重みを噛みしめるように、言った。
「住むだけで月に五万円は高いな。この辺にも、似たような仕事はあるぞ。暮らすのに金はかからないしな」
母が台所から帰ってきて、言った。
「スカウトしちゃだめよ」
「してない」
父の即答に、早苗が小さく笑った。母は台所を指差した。
「早苗、手伝って。お父さんも」
早苗が立ち上がり、素直に居間から出て行った。父も大儀そうに立ち上がり、痛がってもいなかった膝をさすりながら、母に言った。
「さあ、支度しますか」
二人が台所へ入って行ったのを見届けると、七福神のような笑顔で母が言った。
「ごめんねえ。久々だから。晩御飯まで居間には誰も来ないから、ゆっくりして」
静かにふすまが閉まり、わたしとナオキだけになった。
「金がかからない暮らしか……」
第一声がそれで、わたしは驚いた。もう二十四歳なのに、そんな簡単な言葉でぐらついてるんだろうか。
「マジで言ってる?」
わたしが言うと、ナオキは首を傾げた。
「いや、田舎に住むって話。そんなに金がかからないのかなと思って」
今まで、お金の苦労から解放されたことはない。ナオキからすれば、魅力的に思えても仕方がないかもしれない。特に根を生やしているわけじゃないから、どこにだって行ける人だし、それはわたしも同じだ。
「町内会とか、結構色々と拘束されるけど、でもお金はかからないかな。一週間分のご飯が、お裾分けで賄えたりとかさ」
「それ、すごいな」
ナオキは、作業服から洗濯ばさみ一本まで、全部自力で手に入れてきた人だ。人の財布から出てきたお金の場合もあるだろうけど、何かをもらったり、分けてもらった経験はあまりないんだろう。
「この家に住みたい?」
わたしは、冗談めかして言った。すぐに答えが返ってこなかったから、続きを自分で言った。
「リフォームされたみたいになってるけど、あとで二階を見てよ。ゴミ屋敷の面影があるから」
「勉強部屋?」
「うん。まあ、わたしと早苗の部屋なんだけど」
「あー、断捨離すっか?」
今の言葉遣いはどちらかというと『タケマル』だった。
「ほんとに、田舎に住みたいんだ?」
「いや、別に。都会は便利だし、そっちの方がいいっしょ」
百パーセント同意したい。でも、最後の一パーセントがどうしても埋まらなくなってしまっている。どうして早苗は、わたしを帰ってこさせようとしたんだろう。ナオキは同じことを考えているみたいに、呟いた。
「なんか、想像してたのと違ったな。お父さんとお母さん、明るい人だし。早苗さん? はポーカーだけど。でも、ナオに帰ってきてほしかったぽいし」
「身内だけのときは、あんな風に笑わないんだけどね」
記憶している限り、父と母は、明日まで生きるために最小限の呼吸だけをしているように、表情のない人間だった。第三者が入り込むと、それがスイッチのように七福神に切り替わるのだ。
「わたしは、渡壁の血を思い切り引いてるけど。怖いときとか、ある?」
「ナオはいつも明るいだろ」
ナオキは思い出す必要もないように、即答した。
並んでスマートフォンでゲームをしていると、あっという間に六時になった。突然二人の大人がやってきても、対応できるだけの食材がある。今朝、わたし達は卵二個から作ったスクランブルエッグを半分に分けて、コンビニでサンドイッチを買い足した。ナオキは、テーブルに隙間がないぐらい皿が並ぶ豪華な食卓に、驚いていた。父がお酒を勧めようとしたけど、ナオキは『車だから』と丁重に断った。わたしは、自分がいなくなった数年で、食卓を囲む風景が変わったのか、それが気にかかっていた。わたしがいた頃、食事は『食べる時間』。誰とも、ほとんど会話を交わしたことがない。父が食器を手に取り、母が続いて、早苗が『いただきます』をした。渡壁家の『無言の食事』は凄まじく速い。わたしは、敢えて何も言わなかった。ナオキが圧倒されて、うちの家が『何かおかしい』ということに気づいてくれればと思って、無言で食べ続けた。三十分もしない内にテーブルの上に置かれた皿は空になり、母と早苗が片づけを始めた。わたしはナオキの横顔を見た。小さく息をついたナオキは、立ち上がってホットプレートを抱えた。
「ごちそうさまでした。手伝います」
台所から戻ってきた母が、鉄板ごと軽々と持ち上げるナオキの姿を見て、笑った。
「益田さん、力持ちね」
わたしが手伝おうと立ち上がると、母は首を横に振った。
「奈央、久々なんだから。ゆっくりしてて」
父は半分ぐらい残ったビールを持って、書斎に引き上げていった。わたしはナオキのスマートフォンに『部屋に上がってます。あとで来てみて』とメールを送り、二階へ続く階段を上がった。勉強机とセットになった椅子の高さは、今のわたしにもぴったりと合う。高三まで使っていたんだから、当たり前か。早苗は、書斎から父を追い出して勉強していた。だから、参考書はそのままになっている。学校でコピーしていた赤本の束も、クリップ留めにして挟んである。背表紙に書かれている年号は、わたしが高校を受験したときのものだ。一冊を抜き出して開くと、電気スタンドをつけた。細かい字で隙間なく解説が書きこまれている。七年前の、わたしの字。英語や国語は勉強しなくても、ある程度ついていけた。でも、数学だけは別だった。
筆箱を取り出して中身をひっくり返すと、綺麗な『お気に入り』の鉛筆と、ストレスをぶつけて先端が凹んだ鉛筆がころころと転がって出てきた。もう一度揺すると、嫌な音が鳴らない芯が入ったシャーペンも、遅れて出てきた。中に残っているのは、目盛りの消えかけた定規と、戦闘に使われたみたいに、斜めに削られた消しゴム。スチール製の小さな分度器も出てきた。四十五度なら四十五度で、どんな問題文に書かれている図形も、一度測らないと気が済まなかった。わたしはそれを手に取って、昔やっていたみたいに、頭をコツコツと叩いてみたけど、その鋭さと痛さにすぐやめた。
「ありえないな」
独り言を言いながら、分度器を机の上に置いた。こんなに痛いなんて。部屋の電気に分度器をかざして、影絵のようにしていると、ゆっくりと階段を上がってくる音がした。ノックのやり方は、昔から変わらない。母特有の、間がある。
「奈央、ちょっといい?」
わたしが返事の代わりに扉を開けると、母が言った。
「早苗のことなんだけど」
何となく、その話になる予感はしていた。わたしは、早苗に謝らなければならない。ちゃんと話すなら、二人きりがいいと思っていたけど、もう全員が聞いていたとしても、構わない。
「わたし、勉強に集中したくて」
言い出すと、栓を抜いたみたいに止まらなくなるのは分かり切っていた。でも、ぐだぐだになりそうな一回目を母にだけ言えるというのは、どこか安心感があった。
「早苗に、勉強の邪魔しないで、三時間だけは一人にしてって、言ってたの」
母は小さくうなずいただけだった。それが遠い昔の話で、記憶を辿るのに千切れた糸をいくつも結ばなければならないみたいに、目を細めた。
「高校受験のとき?」
「うん。家帰ってきてさ。ご飯までの間、勉強してたでしょ。その間は一人にしてって、言ってた。他にいるとこなんてなかったのに。ほんと、どうしてあんなに余裕がなかったんだろって、今になって思うの」
母は黙って聞いていたけど、ふと勉強机に目を向けた。
「益田さんとは、結婚も近いの?」
「お母さんまで、その話? 荷物取りに来るの、手伝ってくれただけだから。でも、一緒には住んでるし、友達からは夫妻って呼ばれてる」
「そう。色々片付いたら……」
母はそう言って、部屋の壁にかかったカレンダーを見た。四年前で止まっている。でも、お互い明日は月曜日だってことが分かっている。
「もう八時だよ」
「帰るのに、どれぐらいかかるの?」
「二時間ぐらい。家は売らないんだよね?」
「私らがこの家から出ることは、ないと思うわ。そろそろ、おいとまかしら」
母はそう言うと、やり残したことを思い出したように、後ろを振り返った。そのまま体ごときびすをかえして、階段を下りていった。そう、わたしはもう帰らないといけない。
机の上に我が物顔で置かれた、わたしのスマートフォン。派手なカバーがついていて、どう見ても場違いだ。あの高校に通っていたら、もっと地味なカバーをつけていただろうか。わたしは、かつて自分が行こうとしていた高校を検索した。早苗が着ていた、あの制服。袖を通しているのがわたしだったら、何かが変わっただろうか。スマートフォンで検索すると、『もしかして』に違う候補の高校が出てきて、わたしは笑った。あれだけの努力をしたのに、別の高校とごちゃ混ぜになるなんて。でも、何度検索しても、『もしかして』が消えない。
母はそもそも、何を言いに来たんだろう。また、階段を上がってくる音がして、その足音は母のものだったけど、少しだけ速かった。鍵ががちゃりと回って閉じられる音がして、母が言った。
「奈央、絶対に部屋から出ないで」
わたしは握りしめていたスマートフォンの画面に、視線を落とした。そこに答えがある気がしていた。
『もしかして』の候補に上がった高校。その沿革のページに、答えが書かれていた。
わたしの志望校は、二年前に統合されて、学校名も制服も変わっている。
「お母さん、早苗の制服……」
「あの子、精神的にちょっとおかしくなってて。病院に通ってるの」
早苗は、高校に通ってなんかいない。もう存在しない学校の制服を手に入れて、外をうろついているだけだ。家中のものを捨て出したのに、二人とも放っていた理由が、やっと分かった。
『部屋見たいけど、ぼちぼち帰るか?』
頭の中をかき混ぜるために送られてきたみたいに、タケマルからの返信が届いた。『あとで部屋に来て』と言っていたことすら、忘れていた。わたしは手短に返信した。
『うん、帰ろ。先に車に乗ってて』
「早苗は、奈央がどんな風に暮らしているのか、気にしてた。あなたの言うことだけは、よく聞く子だったから」
確かに、わたしの言葉は、早苗にとって絶対だった。『部屋から出て』と言うだけで、お風呂から上がって、勉強モードになったわたしが部屋に戻ってくると、もぬけの殻になっていた。
「わたしを目標にしてたってこと? 幻滅させちゃったかな」
わたしが言うと、母が扉の向こうで笑ったのが、空気の揺れで分かった。
「幻滅なんかはしてないわ。ただ、私もお父さんも、早苗が何を考えてるか、分からないの。危険なことをするわけじゃないから、見守るしかないのよ。でも、時々うわごとみたいに、話し出すと止まらないときがあって」
それは、早苗だけの問題じゃないはずだ。
「お母さん、さっきの話だけどね。早苗に謝りたいんだ。それで、あの子が楽になるなら……」
「何を? 一人にしてって話?」
母の語気は、柔らかななまま変わらなかった。わたしがずっと後悔してきたこと。母からすれば、どうってことないのだろうか。姉妹の『あるある』だとは、どうしても思えない。わたしが黙っていると、母は続けて言った。
「そんな話は、一度もしてなかったわ。第一、私は部屋で一緒にいると思ってたのよ」
わたしは思わず、机の上に散らばったかつての勉強道具に目を向けた。早苗は、わたしが分度器で自分の頭をコツコツやる癖のことを、どうして知っているんだろう。
「ねえ、うわごとってさ。何て言ってるの?」
母は、それが不可解な世迷言であるように、少し間を空けた後、言った。
「勝った、って。ごめんね、夜まで引き留めて。ずっと普通じゃなかったから、奈央が帰ってきて、ほっとしたのかも。とりあえず、ちょっと部屋にいて」
「分かった。ありがと」
そう答えると、母は階段を下りて行った。頭の中で勝手につながった、一本の線。わたしは、今までに触れもしなかった箪笥の扉を開いた。祖母の服が数着かけてあるだけで、がらんとしている。元々、大したものは入っていなかったんだろう。天板に穴が空いていて、光が漏れている。わたしは服をどけて、中をスマートフォンで照らした。
隙間がないぐらいに書かれた、幼い文字。ただ殴り書きされたものではなくて、全て数式。早苗は、部屋から出ていなかった。わたしが勉強している間、ずっと箪笥の中で見ていたんだ。同じ問題を解きながら。わたしが諦めるきっかけになった、あの難問。その図が、他の文字を塗りつぶすように大きく書かれていて、当時のわたしが見落とした相似形の三角形二つが、合板を抉るように囲われていた。その下に書かれた文字が、つい数時間前更新された、今の早苗の声で頭に響いた。
『勝った』
わたしは、スマートフォンを手に取った。手先が震えて時間がかかったけど、どうにかしてタケマルにメールを送った。
『今から出るから』
箪笥を傾けて窓を開けると、わたしは二階のひさしを伝って、一階に下りた。反抗的な高校生だった頃の習慣が、こんなところで生きるとは思ってもいなかったけど、体を支える力は明らかに弱くなっていた。息を殺したまま玄関を開けて靴を履くと、車の方へ歩き始めた。
早く、ここから離れないといけない。真っ暗でしんと静まり返った中に、乗ってきた車が見える。でも、エンジンはかかっていない。わたしが家を振り返ったとき、スニーカーのかかとを片足立ちで押し込みながら、タケマルが歩いてくるのが見えた。
「出てたのかよ。かーちゃんから、もう遅いから帰りなさいって言われた」
わたしの母は、早々に『かーちゃん』になっていた。タケマルが運転席に座ってエンジンをかけるのと同時に、わたしも助手席に滑り込んだ。
「早く、行こう」
「箱は?」
「いいの。マジで早く」
タケマルは暖房を緩くつけると、ヘッドライトを点けながら車をUターンさせて、来た道を戻り始めた。家が遠ざかっていくのをバックミラーで一瞬見た後、わたしは大きく息をついた。タケマルが対向車に合わせてハイビームとロービームを忙しなく切り替えながら、言った。
「おい、大丈夫かよ。なんか飲むか?」
「大丈夫、マジで止まらないで。とにかく家まで戻ろう」
しばらく山道を走っていると、高速の入口が見えた辺りで、タケマルは思い出したように言った。
「おれ、挨拶もちゃんとせずに出てきたんだけど、感じ悪くなかったかな?」
タケマルとわたしの間で、あの家に対する考え方は山頂と海底ぐらい違うだろう。比べられないぐらいに。わたしが思わず笑い出すと、タケマルもつられて笑った。
「早苗は、病気だったんだ」
つられた笑いを止めるのに力が入ったのか、車が少し揺れた。タケマルは一度咳ばらいをして、言った。
「病気って? 普通に元気そうに見えたけど」
「体じゃないよ」
わたしはナビを表示し続けるスマートフォンで、自分の頭をこつこつ叩いた。タケマルは呆れたようにちらりとこっちを見た。
「精神的なやつか?」
高速道路に乗ってタケマルがスピードを上げると、ライトエースの中が途端に騒々しくなった。来るときはジェットコースターみたいで楽しかったけど、今はうるさくて仕方がない。同じ会話の続きとは思えないぐらいに間が空いた後、わたしは言った。
「そうだよ。いつからかは分からない。親も、早苗が何をしたいのか分からないって、言ってた」
あの制服は本物じゃないし、高校にすら通っていない。それを次に言いかけているということに気づいたわたしは、自分で自分を制した。追い越し車線を走る軽自動車にパッシングを浴びせてどかせたタケマルは、猛スピードのまま走行車線に戻って言った。
「ガリ勉ほど、キレるとこえーんだよな」
その雑なまとめ方は、タケマルそのものだった。どうしようもない粗暴な男と、そんな男がビールを飲む横で、ネイルが乾くのを待っているわたし。そうやって逃げてきた先でも、頭から消えないこと。早苗の、最短ルートで正解を見つけ出す才能。小四であれが解けたなんて、やはり天才だった。
タケマルがしわくちゃのAMラジオをつけて、車内が賑やかになった。間を繋ぐ役割から解放されて、わたしはシートに深くもたれた。それから一時間以上、わたしたちは無言だった。見慣れた景色はすっかり夜になっていて、アパートの前の路地に車を停めたとき、重荷から解き放たれたように、タケマルが言った。
「こいつを返してくるわ」
「明日はだめ?」
「朝、車がなかったら、バツ悪いでしょ」
タケマルはそう言った後、わたしの表情をしばらく眺めて、小さくため息をついた。
「あー、コインパ入れてくるか」
「どこの?」
「そこ」
一本裏の通りにあるところだった。数十メートルしか離れていない。目の前すぎて、笑ってしまった。わたしはアパートの前で降りると、隣にある小さい公園の遊具に座った。しばらく待っていると、タケマルが帰ってきて、隣の遊具に座った。バネで前後や左右に揺れるタイプのやつで、わたし達はそれとなくぶらぶら揺れながら、たまに顔を見合わせた。しばらく無言でいたけど、わたしは言った。
「ありがと」
タケマルは返事代わりに、遊具の上で大きな体をよじらせて、あっと声を上げた。
「あれ、ケータイがない」
いつも尻ポケットに入れていたはずだ。わたしが覗き込むと、確かに入っていなかった。
「ねえ、まさか家に忘れてないよね?」
「えー、知るかよ。ちょっと車見てくるわ」
タケマルがコインパーキングまで小走りで走っていくのを見届けて、わたしはため息をついた。一人になると、また渡壁奈央に切り替わってしまう。早苗の『勝った』という言葉。わたしに負けたことなんて、なかったのに。今のわたしがどんな生活をしているか知ったら、ばかばかしくなるだろうな。でも、それが知りたかったのだろうか。逃げたい一心だったということまで、分かっていたからこそ。自由を求めて抜け出した先の不自由さで、結局囚われているのが、今のわたしだということを、確かめたかったのかもしれない。
タケマルがすぐそこにいるはずなのに、わたしはスマートフォンを手に取った。
『あった?』
メールを送ると、すぐに既読になった。あったんだ。わたしは小さく息をついた。もうあの家に、何かを取りに帰りたくはない。
『あった。先に乗っててって、慌てさせるから』
返信が来て、わたしは笑った。いやいや、先に乗ってなかったじゃない。後から来たでしょ。わたし同様、タケマルは人の話なんか聞いていない。当然、わたしの言うことなんか、気まぐれで聞いたり聞かなかったり。でも、早苗なら。
わたしは頭に割り込んだ考えに、思わず肩をすくめた。早苗なら、何? 自分自身に問いかけると、すぐに答えが出た。早苗なら、絶対に言うことを聞く。
先に乗れと言えば、必ず。
『早苗?』
メールを送ると、揺れていた遊具が突然止まった。
見下ろすと、白い手が足元の棒を掴んでいた。それは、真っ暗に見える地面から伸びていて、タケマルのスマートフォンを握る、もう一方の手が見えた。着信を知らせる画面が暗闇を照らすと、その先に、ずっと欲しかったものを掴み取ったような笑顔の、早苗がいた。
「勝った」
Freefall @Tarou_Osaka
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