第眼話 close your eyes
◆◆◆ ある特別な眼を持つ少年の話
物心がついた時には既に父親の姿はなかった。
母親を名乗っていたモノの言い分を信じるのであれば、彼は自分が生まれる前に死んだらしい。
聖霊教の分離過激派に異端者として裁かれ、命を落としたらしい。
死を司る精霊と人間の
そしてそれは息子である“彼”にも正しく引き継がれた。
『■■■、貴方の瞳はとても特別なのよ』
血縁上の母親は、彼を愛していた。温かい食事、優しい言葉、貧しいながらも満ち足りた日々。
女手一人で幼い自分を育ててくれた母親だった人。
好きだったのだと思う。愛していた時期も確かにあった。
全て昔の話だ。今となっては情愛も憎悪もない。
無明の果てに広がる虚無。
母親であったモノに今の彼が抱く感情は、総じて零と呼ぶ他にない。
◆
『あぁ、ますますお父さんに似てきて……』
歯車が狂い始めた切っ掛けは故国を捨て皇国に移住を決めたあの時だったと思う。
……いや、彼女が時折見せた“女”の顔を思い返せば遅かれ早かれそうなっていたのかもしれないが、しかし実態としては確実に、彼女はこの国に来てからおかしくなった。
極寒の大国から極東の島国へ。
彼等“家族”が皇国の扉を叩いたのは、彼が七歳の誕生日を迎えたばかりの頃である。
異端審問官達から逃げるように皇国へと赴き、国の援助を受けながら慎ましやかな生活を手に入れたのも束の間、母親が怪しげなコミュニティに通うようになったのだ。
始めはただのお茶会だった。
しばらくして“教会”に通うようになった。
それから母は“お布施”をするようになった。
やがて彼女は国が用意してくれた生活困窮者用の集合住宅を捨て去り、カルト教団が運営する北方のコミューンに生活の拠点を置くようになり、そこで“みんな”と暮らすようになった。
輪廻転生、父祖の魂は子に帰る――――そのような妄言を吐く教祖の言葉を何故母は信じたのだろうか?
恐らく、彼女にとってその方が都合が良かったのだろう。
需要と供給は、信仰の世界にも存在する。
彼女は自分にとって都合の良い世界を選んだのだ。
失ったパートナーの面影を彼の中に見つけて、やがてそれを同一視するようになった。
『ねぇ
その教団は“
原料の栽培から、加工まで。
洗礼と称して、成人済みの信徒に“クスリ”を分け与える事もあった。
洗脳もあっただろう。同調圧力、密告制度、過密で過激なエコーチェンバー。
そういう諸々の要素が、彼女をおかしくさせたという点については彼も否定はしない。
けれども、
思い返してみれば、
彼女は元々自分の事をそういう風に視ていたようにも思う。
否定したくても、あの視線が邪魔をする。
『ねぇ、アナタ。もしも私達の子供ができた暁には、■■■と名付けましょうね』
目の前で母親が自分と同じ名前の子供が欲しいとねだってきたその時、彼は心の中で静かに親子の縁を切った。
◆
色々なものを奪われて、色々な絶望を知ったコミューンでの生活が終わりを告げたのは彼が十一歳の誕生日を迎えた時である。
国の遣いの者が軍隊を率いて現れて、教団の一方的な解散と運営メンバーの引き渡しを命じた。
教祖の男が終末思想を語るようになり、国家の転覆を掲げるようになってすぐの事だった。
細々と暮らしている分には見逃すが、こちら側に牙を剥ける気概ならば容赦はしない――――国からの解散勧告に際して、共同体の大人達がとった選択はおよそ最悪と呼べるものだったように思う。
『肉体の殻を捨てよう。母なる死が常春の楽園で待っている』
――――レコードから古い歌が流れ、別れの儀式が始まった。
おぼろげな記憶の中に残る大人達の貌は、皆一様に笑っていたと思う。
霊薬を飲み、痛みも感じず気持ちのよいまま大人達は旅に出た。
まだまともだった子供達は泣きながら、外へ逃げ出そうと試みたがその大半は笑顔の大人達に捕まって道連れにされた。
もしもあの人への情が欠片でも残っていたのなら、彼の運命もまた歌流れる終末の家の中で閉じていただろう。
『さぁ、
『さようなら、
彼は母親だった女性の手を振りほどき、そのまま彼女の旅立ちを確認することなく外へと逃げた。
親譲りの特別な瞳を持つ彼にとって、ただの大人達から逃げ出す事はさして難しい事ではなかった。
……これまでその選択肢を取らずにいたのは、自分が逃げ出した後に母親だった女性が罰せられる可能性を憂いていたからである。
しかし、もうその心配もない。罰を下す教祖も、血縁上の母親も皆素敵な場所へと旅立っていったのだから。
彼は逃げた。
もっと早くにこうするべきだったのかもしれないと思いながら、ひたすら逃げた。
◆
多くのものを自分から奪ってきたあの人の最後がどのようなものであったのかは定かではない。
どうでもいい事だ。
本当にどうでもいい事だ。
◆
終末から逃げ延びた彼は、国の管轄する保護施設に引き取られた。
新しい母、新しい家族。血は繋がっていないけれど本物の家族のように思ってくれていいとその人達は言った。
本物の家族。
それは実の息子を
あるいは、生まれる前に殺された男の事を言うのだろうか?
いずれにせよ、その言葉は彼にとってある種の忌避感を呼び起こすものであった事は間違いない。
しかしながら少年は、その感情を新しい家族に打ち明けることなくコミュニティの中に身を置いた。
子供が子供らしく振る舞う事には意味がある。
自分が養われている身分である事を自覚して、あまつさえ身寄りのない自分を引き取ってくれた“家族”に対して、……自分の薄汚れた本性を悟られるわけにはいかないと、幼いながらに少年は考えたのだ。
だから可能な限り良い子であろうと努め上げた。
礼儀正しく、出来る限り明るく、不平を漏らさず、文句を叫ばず、親の言う事はなんでも聞いて、聞いて、聞き続けて、
◆
『あぁ、■■■。私の息子。貴方のその瞳がどうしようもなく、どうしようもなく惑わすの』
◆
誰がいけなかったのかと問われれば、恐らく自分がいけなかったのだろう。
母親譲りの美貌が異性の家族を狂わせた。
父親譲りの瞳が共同体の秩序を捻じ曲げた。
赤い屋根の一戸建てに満ちていたささやかな幸せは、たった一年も経たずに嫉妬と劣情が支配する伏魔殿へと変質を遂げたのである。
義理の母と義理の姉達が言い争い、義理の父親は「お前のせいだ」と暴力を振るった。
終わっていた。
……いや、終わる直前だった。
もしも彼が後一日でも決断を先延ばしにしていれば、きっとあの家はおぞましい惨劇によって終末を迎えていた事だろう。
“眼”が報せてくれたのだ。
彼から色々なものを奪い続けた両の瞳が、終末の
少年は大人しく従った。
従わなければどうなるか、身を持って知っていたからである。
――その瞳に魅入られた大人は、彼を求めて情緒を乱す。
――その瞳は可能性を算術し、己に迫る危機を主に伝える。
――他者と己の視界を操り混ぜ合わせ支配する類稀なる精霊眼。
――――しかし、そのいずれもが本来“眼”が持つ力のサイド・エフェクトに過ぎない事をこの時の彼が知る由もなかった。
希望と絶望を同時に宿した眼で冬の夜空を呆と見つめながら、少年は走る。
あの家がこの先どうなってしまうのか? ……どうでも良かった。
身寄りのない自分を引き入れてくれた感謝と、奪われた尊厳に対する憎悪。
差し引いて、混ぜ合わせて、突き詰めれば、結局のところは
だからどうでも良かった。
愛の対義語は無関心ではなく、憎しみの反対も無関心ではない。
プラスとマイナスをぶつけ合ったゼロベースの境界線にこそ
だから彼はどうでもいいと割り切ることで赦したのだ。
愛と想い出を暗闇に注ぎ、
どうでもいいと。……どうでもいいがあの家の人々が終末を迎える事がないようにと。
そうやって他人事のように願いながら、少年は冬の宵闇に溶けて消えた。
◆
三日三晩かけて、出来るだけ遠くを目指した。
財布の中にしたためた身銭を頼りに列車を乗り継ぎ、西へ。西へ。
不相応に盛りあがった財布の中身は、義理の母や姉から頂いたモノである。
――――あの人達は良く小遣いをくれた。「これで好きな物を買いなさい」と。
その当時はどの口が言うのかと思ったものだが、おかげで今、財布の中には十二歳の少年が持つには不相応な金額が入っている。
罪悪感はない。憤りもない。
これはただのカネだ。そこに
四日目の朝、少年は
彼が降りた場所は、都から少し離れた古式豊かな盆地である。
縦に開けた煌びやかな龍の街から山を一つ挟んだのどかな街。
かつて血縁上の女性親が男性親と出会ったその場所に、どうして自分は足を運んだのか?
きっとそこにエモ―ショナルな理由はないのだろう。
ただ知っていたから訪れた。
春になれば“桜花”と並ぶ程の桜の名所として知られるこの場所も、命の芽吹かない冬となれば人の往来も少ない。
しばらくここに腰を落ちつけながら、今後の方針を決めよう。
カルト共同体の生き残り。
保護司の家から許可なく逃げ出した家出者。
――――皇国出身の父親と北方大陸出身の母親の血を引くハーフ。
更に言えば、この瞳は異端として扱われる恐れがあった。
……実際に、二番目の家族が『あぁなってしまった』事からも自分の処遇が良い方向に傾く可能性が薄いだろう。
何よりも今の彼には身寄りがない。
身寄りのない異国の地を引く異端者。
流石に数え役満だと己を嘲りながら、少年は見知らぬ土地を歩く。
歩き続ける。
そして、
◆
『あっ、ごめんなさいぶつかってしまって』
そして少年は出会ったのだ。
『わたし、目が視えなくて。ご迷惑をおかけ致しました』
その全盲の女性は、
『あじさい』という名の児童養護施設で“お母さん”をやっているのだと言う。
―――――――――――――――――――――――
・次回からまたゴリちゃん視点に戻ります! お楽しみにっ!
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