第3話:セカンドネーム


 般若心経を唱え終わったとき、少女は天に召すように消えていった。

 僕は少し安堵しながらも、自分のとった行為が正しかったのか、複雑な心持ちでいた。


(これで正しかったはずだ)


 そう思いながらも自信が持てない自分がそこにいるのも事実であった。

 無垢な少女の姿を見たとき、絶望の深淵に突き落とすあの怨念の塊を身にまとう怨霊と同一であるとは思えなかった。どうにもならない事情があって怨霊になってしまっただけなのではないか? そして、そういった事情も何も知らぬまま、ただ悪として対峙してしまったのではないか? 何の根拠もないのだけれど、そんな思いを拭い去ることもできなかった。現状を素直に歓喜できずにいた。


(ただ。だけれども、もう終わったのである。今は難しいことを考えるのはよそう)


 辺りがホワイトアウトしていく。意識が薄れていった。そして、目が覚めた。



     ※     ※     ※



 目が覚めると、天井があった。我が家の天井に間違いない。

 清々しい朝、祝福の朝、のはずである。だが、やはり妙な後味の悪さにしばらく動く気になれない。


「よかったんだよな、これで……」


 そう声に出してつぶやいた。

 仰向けのまま、自分の体を意識してみる。手は両方あるのがわかり、ちゃんと動きそう。軽く握ってみる。問題ない。足も確認する。太ももに僅かな力を入れ、ふくらはぎにも同様に、ピクリとさせてみる。問題ない。そしてゆっくりと上半身を起こした。

 闘いの疲労感と、終わった脱力感と、後悔の無力感と、茫然自失のまま暫く、僕は上半身を起こしたままの状態でベッドの上に座っていた。が、疲労感と脱力感と無力感である。行動する気なんか起きるはずもない。もう今日の仕事は休むと決め、そのまま仰向けに、また体を倒す。


 口がひらいた。


 勝手に開いたのだ。仰向けに寝ころんだ自分の頭の斜め左上に、少女が佇んでいた。


(どうやら相当、疲れているらしい)


 もう一度、目を瞑る。

 きっと何かの間違いだろうと、目を開ける。



「あ、あの。あ、ありがとうございました」



 開いた口が塞がらなかった。

 何かの間違いであることを、ダメもとで願いながら、もう一度目を瞑った。



(いや、まだ夢の中にいたのか。金縛りではないけれど、やり過ごそう!)


「あ、あの、今はもう、つながりましたので、そ、その、夢の中ではありません」


(んー? つながりました!? つながりましたって、なに??)


「は、はい。あ、あなたが迎え入れてくださいましたので、無事、な、なかに入ることができました」


(これは、動揺なのだろうか? 混乱なのだろうか? とにかく、ゆっくりでいい。ゆっくりでいいから、状況を整理してみよう。まず、少女がいる。間違いなく、あの少女だ。怨霊に変身する少女だ)


「へ、変身というのは、少しちがうのです。間違ってはいないんですけど……、す、少し違います」


(ちょ、ちょっと待ってくれ。ちょっと整理したいから、静かにしててくれないか)


「は、はい。す、すみません」


(もう、何が何やら。わからないことだらけである。とにかく整理だ。先ずは、起こったことをもう一度思い起こす。読経して、怨霊は成仏したんだ)


「ち、違います」


(なんか言ってるけど、ここはもうスルーだ。すべて終わって、夢から目が覚めた。そしたら少女の姿をした怨霊がいた。夢の中にいた怨霊が成仏したら、現実の世界に現れた。…………。

 中に入った、とか言ってたよな。…………。成仏したかに見えたアレは、乗っ取りが成功したものだったのか! でも、今、僕は僕であると自覚してるんだけどな……)


「ち、ちょっと違いますが、方向性は近づきました」


「うん、もうわからんから、ちょっと説明してくれないか? どうやら君はおしゃべりが好きなようだし」



 僕は、いつの間にか声を出していた。少女の口元も動いていない。ただじっとこちらを見つめているだけだ。そのたたずまいは、夢の中で出会った時のままである。

 少女の声は、頭の中に直接入ってきていた。



「お、お話が好きというのは違いますが、せ、せ、せっかくお迎えいただいたので、が、頑張って説明します。き、緊張してるので、ちょ、ちょっとき、聞き苦しいかもですが、ご勘弁ください。そ、そ、それと声に出さなくてもだ、大丈夫です。か、考えていただくだけで問題ありません」


「う、うん、わかった。あ、うつってしまった。まあ、ゆっくり話してくれていいから」



 ひとまず、思念での会話というものを試してみた。



「あ、ありがとうございます」



 仰向けに寝たままの姿勢で聞くのは失礼に感じたので、僕は起き上がり、彼女を正面にベッドの上で胡坐をかいて座り込んだ。僕の行動に、彼女はいささか驚いたのか、瞬間、目を丸くした。

 僕は一度うなだれて目をつむり、深呼吸をする。怨霊と真っ向正面から話すことを決意する。ゆっくりと顔をあげ、彼女に再び視線を合わせた。



「い、今わたしは、あ、あなたの中にいます」


「わかってはいたけれど……、改めて言われると、それはそれで衝撃だな……」


「で、ですが、ひょ、憑依といったものではありません。で、ですから乗っ取ったりはしていませんので、ご、ご安心ください。そ、そうですね、背後霊みたいなものが、ち、近いですかね。

 は、入れましたのは、先ほども言いましたが、あ、あなたの許可を得たと言いますか、きょ、拒絶がなくなったためです。一度は消える覚悟をしていたのですが、受け入れてくださいましたので、安心して入れました」



 彼女の最後のセリフだけはなぜか流暢りゅうちょうで、そして彼女が少し微笑んだように見えた。とても綺麗で暖かで、透き通るような自然な微笑、そんな風に見えた。いやいや、魅入られている場合ではない!



「僕は一度だって君を受け入れようとなんかしていないぞ!」


「い、いえ、た、確かに受け入れてくださいました。わ、わたしが弱ってこの姿になったときに……」



 思い当たる節があった。僕が無垢な彼女を見て、ほんの少しだけ躊躇した時だ。



「いやいや、ちゃんと覚悟を決めて般若心経をだな……」


「は、般若心経には、そ、そういう効果はありません」



 少しショックではあったが、まあ、そうなのだろう。でなきゃ、こんなことにはなっていない。



「やっぱりそうだったか……。所詮、電子情報だな。ま、それは今はいい。それよりもだ。やっぱり油断させるためのその姿だったんだな。僕はまんまと、霊界ハニトラに引っかかったわけだ! 自分には絶対縁のないものだと思っていたのに……。何たる不覚」


「い、いえ、油断させるとかではありません。こ、こ、これは弱った時のわたしの姿です。ふ、普段はちゃんとしてるのですよ! それにしても、不思議ですね。あ、あなたはこんな姿のわたしに、そ、その……こ、好意を……」


「待て待て待て! その言い方だと、あのおぞましい醜悪な姿の方が本当の君だというのか! それと!! 好意など持っていないぞ! ……。ちょ、ちょっとだけ興味を惹かれてしまったというかだな……」


「し、し、失礼です!! し、醜悪だなんて! こ、こ、これでもわたし、大人気なんですから!」



 どうも話が噛み合わない。が、そこからお互いヒートアップしながら、やいのやいのやり合って、すこし理解が進んだ。

 まず、彼女の今の姿、つまりは無垢で純真そうな少女の姿は、自身の霊力が弱まったときの状態で、いわば“搾りかす”みたいなものらしい。そして、二度とお目にかかりたくない、あのおぞましい怨霊の姿のときこそが、正しい自己表現ができている自分だというのだ。


「し、し、搾りかすだなんて、ひどい! ……こ、好意を抱いたくせに」


 そして今は僕の中にいる。それは憑依というようなものではなく、ヤドカリの仮住まいのようなものらしい。で、それは僕のあの一瞬の揺らいだ心が招いたということなのだ。まったく悔やまれるというか、情けないというか、自分のお人好しな性格にはうんざりである。



「何度も言うけれど、好意など持っていないからな。僕は決してロリコンではないんだ。ところで、君には名前があるのか? 僕は……」


「か、仮住まいというのは遠からずではありますが、あ、あなたの魂がある限り動くつもりはありませんよ。あ、あと、わたしは、ロ、ロリータにカテゴライズされるような年齢ではありません。ま、全く失礼です!」


「えっ! そ、それは失礼、……悪かった。い、いや違うだろ! だいたい女性というのはすべからく、若く見られた方がいいというのが相場だぞ」


「そ、そんなだから、も、も、モテないんですよ!」



 ズバリ的中である。



 僕のこれまでの人生で、『女性ってのはこうだよね』と言ったときは、ほぼ百パーセントの確率で『あなたって、ちっともわかってないわね』というようなことを、驚くことに女からだけじゃなく、時には男からも言われるのだ。だがな、まさか怨霊にまで指摘されるとは、絶句する以外になかろう。というか、モテないとか大きなお世話だ!


「ふふん」


 鼻で笑われた……。それにしたって、なんでコイツは楽しそうなんだ?



「もういい。年齢のことは、僕の負けでいい。それよりもだ。僕が死ぬまで居候するってどういうことだよ」


「あ、ええ。い、移動はと、とても面倒なもので……。あ、安定的な住処を見つけるのは、な、なかなか難しいものなんですよ。そ、その点あなたは、下調べの時点でも優良物件でしたが、と、とても居心地がよさそうで、今からわくわく、そわそわ、どきどきしてます♪」


(ふう……、なにを嬉しそうにしてるんだか……。

 はぁ……、不安しかないんだが……)


「だ、大丈夫ですよ。ば、ばかなウイルスのように宿主を殺してしまうようなことはしませんから、ご安心ください。大切に住まわせていただきます。それと、お話をしているうちに随分と緊張が和らいできました。ありがとうございます。」


(イッタイ、ナニニ、ナニヲカンシャサレテイルンダロウ、ボクハ……)


「決して前を向き始めたわけではないことを、先に断っておく。その上で改めて聞くのだけれど、君の名前はなんていうんだ? 僕は……」


「ツグミヤタカアキですね。存じております。わたしはキャスミーロークです。今後ともよろしくお願いします」


「なんで僕の名前を当然のように知ってんだ! しかも、ザ・日本人みたいな容姿なのに、日本語でしゃべってるのに、名前は横文字なのかよ!」


「一週間ほどお近くで過ごさせていただきましたので、お名前を知る機会は何度もございました。それと、容姿については確かにそうなのですが、言葉については日本語をお話しているわけではありませんよ。あくまでも思念会話ですから、お互いの思念上でお互いが理解できる言語に置き換わっています。もっとも、わたしはこの辺りでの活動ですので、日本語はそこそこ堪能ですよ」


「ま、わかったよ。どうやら僕は自分の常識を一度放棄した方がよさそうだな。で、キャス……、いや、ローク。……。んー。んーー。どこが切れ目だ?」


「切れ目? ですか?」


「ほら、欧米の名前なんかは、ファーストネームとセカンドネームの区切りがあるだろ。キャスミーロークは、どこで区切ればいいんだ?」


「区切りですか……。そういうのはありませんね。みな、名前で呼ぶときはキャスミーロークサマとおっしゃいますよ」


「おい! 今、さりげなく敬称までセットにしただろ!」



 実際には表情は変わってなんかいないのだけれど、確実に、ニヤニヤしてやがる。ったく。



「もういい。僕の好きなように呼ばせてもらう。ロク……。うん、これからはお前のことをロクと呼ぶ」


「うーん……。ま、いいでしょう。特別ですよ」


「で、ロク、お前はこれからどうするんだ。何をしていくつもりなんだ。僕を呪い殺すことはないと言ったけれど、それでもホラ、なんというか落ち着かないだろう」


「そうですねぇ。どうしましょうか? とくに特別なことは考えてはいませんから、まぁ日常を過ごしていくというところでしょうか。いずれにしても、まずは回復しないとですね」



 決して余裕があるわけではない。状況は極めて最悪なのだ。けれども、ひとまず大きな動きはないということらしい。少しだけ、ほんの少しだけ、安堵した。安堵してよいものかどうかは別として……。



「これは興味本位で聞くんだけどな……、お前の今の姿は弱った姿と言っていたけれど、もう二度とお目にかかりたくないあの姿で襲ってきた後にそうなっただろ。その、弱まったのは、なんでなんだ?」


「そ、そ、それは、言えません!!」



 そういうと、ロクはスッと消えてしまった。

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