第2話:目が覚める夢
あれから毎日。
目が覚める前に目が覚め、少女に会う。
あの恐怖の金縛りから、ちょうど一週間。彼女には六回会っている。
二日目は、連日の出会いに驚き、初日と変わらず何もできずに終わった。
三日目は、声をかけるか悩んだ挙句、またも何もできずに終わった。
四日目は、声をかける決意をしていたにもかかわらず、「こんにちは」か「君は誰?」のどちらにするかで悩んだ挙句、呆れることに何もできずに終わった。
五日目、今日こそは必ず! 「君は誰?」と声をかけるつもりだったが……、変化に気づく。「髪が伸びた? 頬がこけた? 少し大きく……成長した?」
六日目。出会った瞬間、あの戦慄、あの恐怖がよみがえる。
少女のその姿は、あの憎悪の塊の女だった。
が、以前ほどの畏怖はなく、金縛りもなかった。ただそこにいて、憎悪の念は向けられておらず、ただじっとこちらを見ているだけだったのだ。結局、状況の理解に戸惑ううちに目が覚めてしまった。
そして今日、これから七日目の朝を迎えるのだ。間もなく、目が覚める夢を見るのである。
※ ※ ※
準備は万端である。
昨夜、寝る前までにしっかりとシミュレーションをしておいたのだ。
ショックを感じていなかったわけではない。初めて襲われた時に撃退したつもりでいたことは、失敗に終わった事実が判明したのだから……。その上、この一週間。初日こそ何事もなかったが、二日目からは悪いことばかりが身の回りに起こっていたのだ。
仕事では、クレームが頻発したり(これのせいですごい残業)、やっと書類が完成したちょうどその時に隣席のコーヒーでパソコンが水没したり(これのせいですごい残業)、女性社員のおやつの盗み食いの濡れ衣を着せられたり(まだ絶賛犯人扱い中)、…………。
日常では、家の鍵を紛失したり(新しい鍵に交換)、誤って犬の尻尾を踏んで噛まれたり(更に飼い主にすごい剣幕で文句を言われた)、走ってくる子供を避けて自転車ごと側溝に落ちたり(かすり傷で済んだが廃車)、…………。
まあ小さなものばかりなのだけれど、それでも、およそ一年ぐらいかけて起こるであろう不運を、たったの一週間で経験した気分である。
ただ、小さなものばかりだったからこそタチが悪く、それの
近くの小さな神社ではあったが、お
準備そのものはこのくらいだ。素人にできることなど限られているのだ。だがそれよりもはるかに重要なことがある。心構えだ。
襲われたときに、いや、間違いなく襲ってくるのだろうが、それにどう対応するのか? 退治は必要ない。諦めてもらえればそれでいいのである。できることなんかはほとんどないのだけれど、とにかく気持ちが折れてしまわないよう、間違っても受け入れてしまうことがないように、負けない心で迎え撃つ!
僕は戦闘前の高揚感の中で、思わず苦笑いをしていた。これから寝ようというのに、出陣前の興奮状態にいるのだ。もちろん生まれて初めての経験だが、このままでは眠れるはずもないことは明白に思われる。
(徹夜したらどうなるんだろう?)
ところがである。眠れないという心配は、あっけないほど無様にご無用だった。いろいろな準備で疲れていたのだろう、滑稽にも瞬く間に眠りに落ちていた。
そして、前兆を感じた。間もなく、目が覚める夢を見るのである。
※ ※ ※
目が覚め、少女を認識する。
こちらをじっと見つめている。
ただの無垢な少女の姿に少しばかり驚いたのも束の間、するりするりと変化していく。あのおどろおどろしい姿になったと思いきや、今回は憎悪の塊をその身にまとわせる。まだ、その悪意はこちらに向けられてはいない。
だが、恐怖のどん底に叩き落されるほどのその憎悪に戦慄が走る。
金縛りにはなっていないようではあったが、これから襲われるであろう先の瞬間を想像するだけで、刻まれた恐怖の記憶は、僕の身も心も凍りつかせるには十分であった。全身の毛がよだつ。
(負けるな、負けるな、負けるな!)
圧倒的な恐怖の中で、もはや無くなりかけている勇気という一本の糸を手繰り寄せるように、自分を奮い立たせる。恐ろしくて、恐ろしくて。恐ろしいなんて言葉では到底言い表せていないのだけれど、全身の毛穴が開き、絶対に正しくない汗が噴き出し、体中の血液は凍り付いてしまってちっとも巡っていない中で、それでも!
(目をつむってはいけない!)
と正視していた。
決して来て欲しくはないのだけれど、「来るな!」ではなく、
「さあ来やがれ! コノヤロー!!」と対峙した。
―― ゔゔっ、ゔ、ゔ、が、あ゛、ああ、あ゛ ――
呻きをあげてきた!
(ん?)
聞こえたのは確かによくわからない呻き声だったが、なんとなく理解できる! 例のアレだ。
―― なかなかに面白い。恐怖の中で、まだ心折ることなく向かってくるか ――
なんか言ってやがるが、あまりの恐怖で対峙するので精一杯、頭に入ってなど来ない。相手が油断してそうな今のうちに、般若心経で防御を固める!
―― カカカ。無駄じゃ、無駄。そんなもの露ほども効いておらぬわ
何やら頑張って整えておったようじゃが、どれも話にならぬわ ――
そう言ってきたと、頭の中で理解した瞬間、
神棚も、もり塩も、身代守も、青い炎に包まれて、ボンッと消えた。
マジかよ……。いや、般若心経を唱え続けるんだ!
が、次の瞬間、体は宙に舞い、
そして、僕は般若心経を忘れてしまっていた。慌てて必死に思い出そうとするが、断片すら見出せない。もはや『般若心経』というその言葉が、その名の通りなのかどうかも分からなくなっていた。抵抗する術は、すべて奪われてしまったのだ!
―― 絶望 ――
何もできない僕に向かって、悪霊は、ついに悪意の塊、怨念の覇気を投げかけてきた。そして、こちらに向かってくる。じわりじわりと近づいてくる。
もうこれ以上はないと思っていた恐怖の底は、まだ深かった。絶望の、それこそどん底へ叩き落される。だが、落ちても落ちても、底に辿り着くことはない。いつまでも、いつまでも落ち続ける。
声なんか出ない。恐怖の絶叫なんて嘘だ。本当の恐怖は、声を発することすら奪う。息すらしていない。正確には、息をしているかどうかもわからない。
恐ろしくて、恐ろしくて、恐ろしくて……、ただそれだけしか、わからないのだ!
痛い!
絶対的な恐怖は痛かった。恐怖に、この身をズタズタに切り裂かれる。体中の毛という毛は総毛立ち、
ただ……。思考を失った中で、絶望という奈落の底へ落ちていく中で、ひとつ知ることがあった。
恐怖に
ここで諦めたら、恐怖に抗うことをやめたら、その先にシンとした虚無の世界があり、そこへ身も心も投じてしまえば、その恐怖から解放されることが、なんとなく、感覚的に理解できてしまった。
(ああ、もういいか……)
悪霊は目の前まで近づき、なおも近づいてくる。
そして眼前には彼女の顔。おぞましい。
皮膚は青白く、頭から血が流れ、裂けているように見えた口は何かを喰らった血の汚れだった。細い眼は充血して真っ赤だった。怨念の憎悪の塊が、僕の顔に吹きつけられる。もう、接触する。そのまま体の中に入ってくるのだ。
(ダメだ……、負けた……)
何もできない。ぼやけた思考の中で、僕には、諦めるという選択しか残っていなかった。
緊張の糸が、プツンと切れた。抵抗をやめ、絶望に身を投じる覚悟が決まったそのとき、怨霊である彼女の左目の下の
フッ
我ながらバカだと思う。間抜けだ。
こんな状況、こんな表情じゃなかったら、この
と、本当にバカなことを思ってしまっていた。
―― な、なにを馬鹿な…… ――
声が聞こえた。
知らない声。初めて聞く声。
誰の声?
何かはわからない。けれど、
僕は般若心経を覚えている! 読経できる。
反撃だ!!
と、般若心経を唱えるまでもなく、
恐怖に支配されていた暗黒の空間が、真っ白な世界に切り替わる。
憎悪の塊などは微塵もない、何もかもが透き通った世界。
あっけなく解放されていた。
目の前には少女、もっさりした例の女の子がいる。今しがた、僕を絶望の死へ追いやろうとした宿敵である。どういう理屈でこうなっているのかは全くわからないが、いずれにしても弱っていることは間違いなさそうである。やっつける絶好の機会到来だ。
しかし。今の敵の姿を見て敵意を持つことは、なぜかできなかった。ましてや、ついさっき左目尻にある黒子を可愛いと思ってしまった後なのだ。
(何を甘いことを言っている! 心を鬼にしろ!!)
今ここで見過ごせば、また襲われるのは間違いない。今日以上に圧倒的な力で瞬殺されるに違いないのだ。被害は僕だけで止まることもないのだ。これから先、何人もの人が犠牲になるんだ。だから、ここで見逃すことだけは、絶対に正しい選択ではない!
だが……、
そうこうしているうちに、力を回復してくるかもしれない。夢から覚めてしまうかもしれない。
(どうする、どうする、どうする!)
決めあぐねたまま、時間は刻々と過ぎていく。
真っ白の透き通った世界は、徐々に白みが増していき、それはちょうど深い霧に包まれる感じに似ていた。そしてそれは、間もなく夢から覚めるであろうことを直感的に理解させていた。
「ここで終わらせよう。それが正しい選択だ」
僕は自分に言い聞かせるように言った。そして般若心経を唱えようとしたその時、
―― ありがとう ――
そう聞こえた。
僕は般若心経を唱えた。
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