第4話:褒めてくださっていいんですよ

 キャスミーロークこと、ロクは視界から消えたわけだが、さて、これも本当に一時的に離れてくれたのか? それとも僕の中に入り込んでしまったのか? また、この状況にあるときに僕の思考は観察され続けているのか? 何も認知されていないのか? 他にもいろいろと、ロクが消えた瞬間に、新たな疑問がたくさん出てきてしまった。

 やれやれである。仕方ない。次に現れたときにでも記者会見のような質問責めにしてくれよう。


 ひとまず嵐のような状況が去り、少し落ち着いて一息つくと、強烈な気怠さに襲われた。よくよく考えれば、あの死闘からまだ一時間も経っていなかった。終わった直後にも疲れ切っていたのに、すぐに張本人(あの怨霊とロクが同一人物、いや同一霊とは未だに、僕の中では釈然としないというか合致していないのだけれど、)とやり取りをしていたのである。当然だ。

 強烈な疲労感を自覚すると、もはや二度寝以外の選択肢はなかった。会社には体調不良の連絡をし、平日の二度寝を心ゆくまで楽しむことにした。



     ※     ※     ※



 目が覚める。

 悪夢もなければ、死闘もなく、目が覚める夢もなかった。本当に久しぶりにぐっすり眠れた気がした。ハッとして何時だろう? と端末を見ると、十三時を表示していた。


(えっ! ヤバい! 寝坊した!! 会社……! だ、誰からも連絡なかったのか!!)


 と、ここで休んだことを思い出す。


(ああ、そうだった……)


 自分で連絡も済ませて、ちゃんとしていたことにホッとした。社会の中で僕はさほどたいそうな人間ではないけれど、というよりもむしろ、居ても居なくてもどちらでもいいような価値の低い方の人間ではあると自覚はしているのだが、それでも人の道から外れるような、人に迷惑をかけて生きていくようなことはなるべく避けたい、少なくしたいと思っているのだ。

 ともあれ、休みなのである。平日休み万歳である。と、喜んだのも束の間、会社を休むことになったその原因についても思い出してしまった。


(ああ、そうだった……)


 さて、彼女、ロクは何をしているのだろう。

 まあ寝た子を起こすほど野暮なことはない。現時点で、彼女が僕の味方なのか敵なのかもわからない。今までの経緯から考えると味方である可能性の方が圧倒的に低いのだから……。そう思えばこそ、あらためて今朝、ほんの数時間前に起こった出来事を反芻しはじめていた。が、どんなに整理して、何とか理解をしようと、整合性を持たせようとしても、やはり自分の常識ではどうにもならなかった。


(外の空気でも吸いに行くか)


 軽く物を食べ、身支度を整えると家を出た。


 そういえば連日の不幸の連続はどうなるのだろうか。ま、増えることはあれ、なくなることはもちろんないだろう。注意するに越したことはない。




 外は、僕の心とは裏腹に晴れやかだった。三月という気忙しい時期なのだが、徐々に暖かくなる空気は、僕以外のすべての人間を活動的にさせているようだった。すっかり置いてけぼりである。とはいえ周りの空気感は、僕の閉塞した気持ちを幾分和らげてくれていた。


 川縁の土手をのんびりと歩く。

 土の匂いと水の匂い。

 桜の花の色と新緑の草の色と土の色と木の幹の色。

 川の流れる音と子供たちが遊ぶ声、犬の吠える声にランニングの足音。

 普段は気にも留めないそうした色や香りや音の調和が、とても心地よかった。


「外に出るなら起こしてくださいよ」


「っ! びっくりするじゃないか!」



 と、悲鳴が聞こえた!


 ―― キャイキャイキャインッ!! ――


 そしてふくらはぎに激しい痛み。

 また、やってしまった。すごい剣幕でおばさんが怒ってきた。



 僕は足がじんじんと痛かったけれど、前回同様、平たく頭を下げ続けた。散々ののしられた後、ようやく解放された。場所は違うのに、なぜか相手は同じ犬で同じ飼い主だった。慎重に行動していたのにこれだ。運命どうのこうので、こんなことが起こってたまるか! 悪意に他ならない!


「お前の仕業だろ、ロク!」


「うまくいきました。狙い通りです」


 なんだか笑顔がイメージできるのは気のせいではないだろう。

 誰にでも容易にイメージできるほどの声色だった。


「ひどいだろと言っても無駄なんだろうけど、ひどいだろ!」


「すみません。これが食事みたいなものですので」



 ロクは至ってにこやかに言ってのけた。

 どうやら霊というのは、不幸をエネルギー源にしているとのことだった。人に不幸が降りかかったときの様々な感情をおいしく戴くのだそうだ。悪霊が人を不幸にさせるという行為は、楽しんでやっているか、復讐心でやっているか、そんなところだろうと、ただ何となく思っていたのだが、まさかの食事だったのである。


「でも継宮さんの負担が少なくなるように工夫して効率よくしているのですよ。例えば先ほどの犬の尻尾を踏んでもらった状況だと、たくさんの不幸が生まれるんです。継宮さんは噛まれる不幸と怒られる不幸、犬は突然尻尾を踏まれた不幸、おばさんは自分の犬が怪我をする不幸と病院に連れていく想定外の出費の不幸、こんな風にたった一つのアクションでたくさんの不幸が生まれるんです。

 でも、もし継宮さんが部屋の中で転んでけがをするというアクションだと、継宮さん一人で一つの不幸しか生まれないんです。ね、これだと不幸の甲斐もなくなってしまうでしょう」


「うむう。いや、待て待て。危うく納得してしまうところだった。その言い分は、カツアゲした奴が『全部奪うのは可哀そうだから、千円だけは残しといてやる』みたいな、力を行使する側の勝手な理論だろ! なんだよ不幸の甲斐って!」


「おいしく戴きました。ごちそうさまです♪」



 ナメていた。

 そんなつもりは毛頭なく、常に気を張って備えていたつもりなのだが、気を張って備えるなどという発想と行為自体が、既にナメたものになっていた。そんなレベルじゃなかった。決して対等だとか、それに近い位置なんかではなくて、圧倒的に支配される側でしかなかった。

 やはり敵なのだ。少しばかり愛くるしい姿(なり)に騙されている場合ではない。そのことを思い知らされた。


「その不幸のエネルギーってのは、別に僕のものでなくてもいいんだろ?」


「ええ、そうですよ」



 その次の言葉を吐こうとして、少しだけ考えを巡らせて、飲み込んだ。僕も人の道を外れるところだった。



「今のはナシだ。それは、その回復ってのは、僕一人の不幸で事足りるものなのか?」


「足りませんね」


「ロクが、あの姿に戻れば、それで終わるものなのか?」


「いいえ。ずっとです。わたしたちがエネルギーを戴くそれは、人が生きている間中ずっと植物や動物の命を戴くのと、何ら変わりはありません」



 今日という一日で、いったい何度絶望するのだろうか。

 春の色付く世界の中で、僕だけがどんよりと黒くくすぶっていた。



「少し、寄り道をしてもらえますか? 犬に噛まれた傷は、それ以上、破傷風やパスツレラ症風にならないようにしておきますので」


「なんだ! そんなことも出来るのか!」


「わたし、これでもわりと上級なのです」


「それは僕にとっては、ますます困難じゃないか! やれやれだよ。で、どこに行けばいいんだ。というか、僕が行く必要あるのか?」


「はい。ご一緒してください。知っておいてもらいたいこともありますので。

 あそこの拡声器がついた小さな倉庫みたいなところへ行ってください」




 今まで意識していなかったけれど、確かに拡声器のついたポールがそびえたつ小さな倉庫のような建物があった。恐らく水防倉庫なのだろう。水害を防ぐための資材が入れてある倉庫だ。土手から外れたところにポツンと立つその小屋は、なるほど少し陰湿な空気というか、嫌なオーラを纏っていた。今はまだ夕方なので、見方によっては哀愁だとか郷愁だとか、そんな風に見ることもできるのだけれど、夜になれば確実に近寄りたくない建物になるだろう。

 そんなに遠くもなく、あと数十メートルというところまで来たとき、



「うーん。思ったよりも成長してますね。また今度にしましょうか」


「何かいるってことか?」


「はい。下級の地縛霊といえばわかりやすいですかね。

 下級霊というのはおバカさんで、人間や動植物を呪い殺してしまうのです。それだけでも貴重なエネルギー源の損失なのですが、呪い殺されたモノは、その後呪い殺す側、つまり下級霊になってしまうのです。それは完全な悪循環を意味します。この悪循環の連鎖はとても根深いものになりますので、村や町など一帯が失われるような事態まで進行してしまうこともあります。人間の世界の話だけではなく、特定の種の動物が絶滅してしまうことなども、実は背後にこういう状況があったりします」


「それはまたずいぶんと、穏やかじゃないな」


「はい。そういう訳でして、危険な不穏要因は早めに刈り取っていくのです。そしてそれが、人間の表現をお借りするならば、霊界におけるわたしの社会的な役割ということになります」


「もしかしてロク、お前、ものすごく偉いのか?」


「はい。上級です。エライです。褒めてくださっていいんですよ」


「そういう風に言われると、逆になんだかなぁ……。まあ、わかった。今回の件が片付いたら後で心ゆくまで褒めてやるよ」


「あら、言ってみるもんですね。ですが……、これは成長して、なかなかの力があるようです。残念ながら今のわたしの状態も不十分ですし、継宮さんもお怪我なさっていますので出直すとしましょう。継宮さん、ちょっと電子端末で一週間先までの天気予報を調べてもらえませんか?」


「え、そういうのは、第六感なんかで、わかりそうなもんだろ」



 僕は電子端末を取り出し、天気予報を調べた。



「明日、明後日は晴れだな。明々後日から三日間、雨らしい。それ以降は回復して晴れ」


「三日間ですか。……。台風とかではないですよね」


「台風ではないな。時期的にもシーズンじゃないからな。んー、前線の停滞があるようだぞ」


「わかりました。ありがとうございます。では、明後日にしましょう」



 ロクがそう言い終えるかどうか、その矢先であった。

 僕は何かに足を掴まれ、そのまま引きずられた!



「ぐあぁぁあっっ!!」



 すごい勢いで、川の方に引きずり込まれる! 止めたくても止まらない。

 知ってか知らずか、掴まれた足は噛まれていない方の足だった。だからこそ、もう片方の、噛まれた足では力が入らない。それでも両手と力の入らない片足で、なんとか止めようと試みたが、まるで歯が立たない。勢いを殺すこともできない。



 引きずり込まれる!

 手が、肩が、背中が痛い! 熱い!



 どうにも止められないと悟ると、水辺に引き込まれる恐怖が押し寄せてきた。



 ヤバい! これは死ぬ!!



 瞬く間に水面が近づき、そして引き込まれてしまった。

 川に引き込まれていきながら、掴まれた足がスローモーションではっきりと見えた。

 僕の足を掴んでいるものは、蛇だった。



 息ができない。

 水もずいぶん飲んでしまった。

 ちくしょー! なんだよこれ!



「大丈夫です。支援します」



 ロクの声がする。

 すると、呼吸ができるようになったのか、呼吸が必要なくなったのか。どういう原理なのか、ちっともわからないのだけれど、とにかく苦しくなくなった。と、怒りが湧いてきた!!



「てめぇ、この下級ヤローがぁぁああ! ふざけてんじゃねぇぞぉぉおお!!」



 怪我をした足も、痛みの感覚がなくなっていたので、僕の足を掴む、蛇の尻尾か何だかを、力の限り蹴りつける! 何度も何度も! 全力で蹴りつける!!


 霊蛇も水中での僕の反撃を想定していなかったのか、瞬間怯み、僕の足はするりと抜けた。



「上出来です。この場から離れて、陸に上がってください。後はわたしがります」

「僕とお前の距離は、近い方がいいのか」

「厳密には、そうです」

「僕の呼吸処理は負担が大きいか」

「いえ、全くです。」

「なら、僕もここに居てやる。

 お前が万全じゃないなら、少しでも力が出るなら、ここに居てやる。

 僕が、お前を助けてやる!」


 ニヤリとしたロクの姿は、あの憎悪の塊を纏った怨霊の姿だった!

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