河太郎先生

増田朋美

河太郎先生

寒い日であった。冬というのはこれで当たり前だと言われてみればそうなのだが、そうならないと、不安になってしまうこともある。しかし、いざ寒くなると、なんだか嫌だねえという言葉が出てしまうのはなぜだろう?ときに、人間は、変な事を言ったり、おかしなことを言ったりすることもある。

その日も、由紀子は仕事がなかったため、製鉄所に行った。いつも、仕事がない日は、製鉄所に直行するのだった。

「こんにちは。」

玄関の引き戸を開けると、水穂さんがまた咳き込んでいるのが聞こえてきたので、由紀子は心配になって四畳半に行ってみる。やっぱり水穂さんは、えらく咳き込んでいて、杉ちゃんやブッチャー、またその姉の有希までが、心配そうに見つめているのだった。杉ちゃんが、ほら、これのみな、と言って渡した薬を飲み込むと、水穂さんはやっと咳こむのをやめてくれて、静かに眠りだしてくれたのであった。

「それにしても、よく汚してくれたよなあ。」

杉ちゃんが、水穂さんの吐瀉物で汚れてしまった畳を眺めていった。畳は真っ赤に染まっている。

「最近、だんだんこれがひどくなってらあ。本当は、医者に見せたほうが、いいのかな。」

「そうだねえ。」

杉ちゃんの発言にブッチャーはそのとおりだなと思いながら言った。

「だけどねえ、医者に見せるって言ったってさ。水穂さんが銘仙の着物を着ていたのなら、こんなやつを、うちの病院には、来させるなとか言って、追い出されるのが落ちだよ。」

「はい、全くそのとおりだよ杉ちゃん。俺が前に連れて行った病院では、穢多村から来たのかといわれ、診察どころか、玄関先で塩をまかれたこともあった。それは本人があまりにも可哀想だから、俺はしたくないね。」

杉ちゃんもブッチャーもそういって、お互い納得しあっているようであったが、由紀子は、何故かそれはできなかった。水穂さんだけが、医療を受けられないのは、おかしいと思った。

「まあ仕方ないといえば仕方ないよね。医者なんて、みんな鼻が高くて、水穂さんみたいな人をバカにするように教育されてる奴らですから。そんな奴らが、同和問題に対して、わかってくれると思う?多分無理だよね。まあ仕方ないや。僕らでなんとかしてやらなくちゃ。」

「そうだねえ。また塩をまいて追い出されるのも嫌だから、俺たちで頑張って世話をしよう。」

ブッチャーは、杉ちゃんの話にそう頷いたが、由紀子も、ブッチャーの姉である有希も、それはどうかなと思ってしまうのだった。

「よし、とりあえず俺、布団屋へ電話してみる。こんなに汚れた布団に寝かせていたら、ちょっとかわいそうだからさ。」

ブッチャーはスマートフォンをとって、電話をかけ始めた。杉ちゃんの方は、また着物を縫う作業に戻っていった。

「由紀子さん、ちょっと来てくれる?」

不意に、由紀子は有希にそういわれて、二人は食堂へ行った。

「私、車の運転できないから、お願いがあるの。ここへ連れて行って貰えないかしら。」

由紀子は、大病院のリーフレットを見せられた。

「ここ、富士でも有名な。」

思わず、由紀子がそう言ってしまうほど、その病院、つまり渡辺病院は、有名な病院であった。

「ここで何をするというの?」

由紀子は聞くと、

「この人を見てよ。」

有希はリーフレットのページを捲って、一人の女性医師の顔写真を指さした。

「この人なら、水穂さんの事を見てくれるかもしれないわ。」

「そ、そうだけど、この女性医師なら、私テレビで見たことあるわ。それくらい有名な医者だし、きっと杉ちゃんの言う通り、馬鹿にされるだけよ。」

由紀子がそういうと、

「大丈夫よ。それなら、こっちにも考えがあるわ。この先生がなんでこんな辺鄙なところに来たのか、知ってる?」

有希は言った。

「知らないわ。」

由紀子が答えると、

「実はね、この先生、重病の患者に間違った薬を投与して、患者を死なせてしまったのではないかっていう疑惑があるのよ。テレビではあんなに華やかに活躍してるけど、ネットのニュースでは、その患者の遺族や親族が、あの医者はひどいことを平気でいうとか、そういう噂話を垂れ流してる。もし、水穂さんの事を悪く言うのであれば、そこをうまく持ち出して、水穂さんを診察してもらいましょう。」

有希は随分勝ち気な感じで由紀子に言った。由紀子は本当にやってくれるのか心配になった。その医師は、リーフレットに、馬場和子という平凡な名前しか書かれていなかったのであるが、その名はテレビや、新聞でもよく取り上げられることも、由紀子は知っていたからである。

「じゃあ、早速渡辺病院にいってみましょう。善は急げよ、由紀子さん。由紀子さんだって仕事はあるでしょうし、水穂さんだって、早くみてもらったほうがいいわ。」

由紀子は有希を連れて、ポンコツの車を走らせ、渡辺病院に行った。立体駐車場が完備されているほど、富士市内でも有数な大病院である。これは何だか、病院というより、お城ではないかと思ってしまうほど、立派な建物だった。

二人は、病院に入って、受付に、馬場和子先生に合わせて貰えないか、と、お願いした。すると、馬場先生は取材中だといわれた。それでは待たせてもらいますと有希がいうと、受付は待合室で待つようにといった。二人が待合室に行って、近くにあったソファーに座ると、近くのテーブルで報道関係者とはなしている、女性医師の姿が見えた。とても背の高い、堂々とした感じの女性だった。この女性が多分馬場和子という医師ではないかと直感的に感じとった有希は、

「あの、取材中で申し訳ないんですが、私達の友人で、どうしても見てもらいたい男性が居ますので、一緒に来てもらえませんか?」

単刀直入に言った。

「取材中よ。」

馬場先生は、嫌そうな顔をしていった。

「待ってください。あたしたちの大事な友人です。だからぜひ、馬場先生のような腕の立つ医者に見てもらいたくて。」

有希はすぐに馬場先生に言った。

「だからお願いしたいんです。一度だけでいいから、見ていただけませんか。あたしたちは、何もできないけれど、彼をなんとかしたいという気持ちはたくさんありますから。」

有希は一生懸命そういった。由紀子も、

「私からもお願いします。」

と言った。二人が、そう懇願するので、馬場先生もそういうことならと思ってくれたらしく、

「それなら、行ってみましょうか。」

と言ってくれたのであった。由紀子も有希も喜んで、車の後部座席に馬場先生をのせて、喜び勇んで製鉄所へ戻った。有希が持っていたカバンに、ヘルプマークがついているのが由紀子はちょっと気になった。それを見せておく必要はあるのだろうか?ある意味ではバカにされるきっかけになってしまうのではないか、由紀子は不安だった。製鉄所に到着して、車を降りると、冷たい風が、三人の体に当たって、余計に寒く感じられた。

「あら、随分、古臭い建物なのね。」

馬場先生はいった。

「まあそういう事になっております。とりあえずこちらです。」

有希は馬場先生を製鉄所の建物の中へ入らせて、四畳半へ向かわせた。由紀子はその馬場先生が、こういう和風の建物は遅れているわねという感じの顔をしていたのが気になった。

「この部屋にいるんですが、患者さんの名前は、磯野水穂さんです。」

有希はそう言って、四畳半のふすまを開けた。

「この人です。診察してやってくれますか。よろしくお願いします。」

馬場先生は、有希にいわれた通り、水穂さんをみた。水穂さんは咳き込んで苦しそうであり、布団から起きることもできなさそうであった。由紀子は、馬場先生の表情をみて、せめて銘仙の着物を着替えさせるべきだったと思った。

「一体どういうつもりなのかしら。あなた達、私をはめようとでも思ったの?まるで明治から大正時代にタイムスリップしたみたい。それに、今の時代は、ここまでひどい例はありえない話だわ。あなた達、私の顔に泥を塗るつもりなのね!」

「そういう事言うんだったら、先生だって、間違った薬を投与して、患者を死なせた疑惑がありますよね。それ、ネットのニュースでよく出てますよ。それを言いふらしていいでしょうか?」

有希はそう堂々という、馬場先生に対抗したが、

「何よ。あなただってヘルプマークつけないと、行きていかれないでしょ。いわば、私達に助けてもらって生かされているようなものじゃない。それは、あなたには、社会に反抗する資格は無いと言うことよ!」

と、馬場先生は馬鹿にするように言った。

「こんな汚らしい人を見るきなんてサラサラ無いわね。帰りは、タクシー呼んで帰りますから。でも代はあなた方が払ってね。」

「待ってください。せめて、薬でも出していただけませんか。あたしたちの大事な友だちなんです。」

有希はそう言って、帰り支度をしている馬場先生を止めようとするが、馬場先生はどんどん帰ってしまうのだった。タクシーは、彼女が呼び出した。由紀子は、仕方なく、タクシー代を払った。それを受け取って、タクシーに乗り込んでいく馬場先生を見ながら、さすがの由紀子も腹がたった。馬場先生のスマートフォンがなる。ああ、佐藤さん、そうね、点滴追加しといて、こっちが終わったら、すぐ行くわと言っている。多分そういう現場にはもうなれてしまっているのだろう。それは医者であれば、必要なことで、こういう現場に動じないことはよくあることなのだが、患者を助けるという雰囲気からはかけ離れていた。そして最後の文章が、有希も由紀子も頭にきた。

「全くね。あんな汚らしい着物着て、まるで明治か大正時代にタイムスリップしたみたいだったわ。今の時代なら、絶対ありえないところへ連れて行かれたみたいだった。本当に変な人達よ。」

「ちょっとまって!」

と、有希が言おうとしたが由紀子はそれを止めた。こういう人に歯向かうことはできないと知っているからだ。二人は悔しそうな顔をして、貴人が帰っていくのを見送った。

結局、水穂さんは今回診察してもらうことはできなかった。日がたつうちに、季節は変わっていき、寒い日が続いた。これでは、水穂さんには堪えるだろうなと思われる寒さだった。水穂さんはあいかわらず、食事も少ししか食べないし、ブッチャーが入手してくれた新しい布団に寝たきりの状態のままになってしまった。咳き込んでしまう回数もだんだんに増えて、杉ちゃんでさえも非常に困るとぐちを漏らすまでになった。あれほど明るかった杉ちゃんが、非常に困るというくらいだから、相当ひどいのだろう。

今日も、横になったまま咳き込み続ける水穂さんを見て、有希は、

「私悪いことしちゃった。水穂さん、本当にごめんなさい。」

と、小さい声で呟いて、涙をこぼしてしまうのだった。由紀子もそうなってしまった有希を可哀想に思った。あの医者の弱点を口外すると言っても、あの医者には、自分を守るすべがちゃんとあるということだ。有希がそれを出しても、意味がなかったのである。由紀子は、自分自身も何もしてやれなくて、水穂さんには申し訳ない気持ちもあって、泣いている有希に対し、何もいえなかった。

それから、何日かたった。有希は相変わらず、涙をこぼしたままだ。有希のような人は、一生懸命やれるときは、普通の人以上に一生懸命やれるのだが、落ち込むとそれが度を越して、動けなくなるまでになってしまうことを由紀子は知っていた。その日も由紀子は来訪したが、咳き込んでいる水穂さんに何もしてやれないのかと思った其時、製鉄所の固定電話がなった。

「はい、もしもし。」

ブッチャーが電話をとった。

「あの、渡辺病院の受付の川田と申します。医師の木島先生が、診察をしたいといっていますので、何日にお伺いしたらいいか、都合のいい日をお伝えいただけませんか?」

はあ、という響きがあった。渡辺病院なんて、二度と電話をよこすことはない相手だと思っていたのに。今更何だと思うのであるが。

「渡辺病院なんて、今更電話しても、遅すぎますよ。俺たち、そんなひどい病院に、もうお世話になりたくありません。じゃあ、切りますよ。」

嫌になったブッチャーは、そういったのであるが、相手の人は、ちょっとまってくださいよといった。ブッチャーは、はあと言って、すぐには電話を切らずに居たところ、

「あの、磯野水穂さんはまだいらっしゃいますよね。あの、当院の医師の木島裕美先生が、そちらへ診察にお伺いしたいとおっしゃっておられますので、お時間や日にちを指定していただきたいんですよ。お願いできますでしょうか?」

「はあ、そうですか。じゃあそうしてもらおうかな。明日にでも来てください。」

ブッチャーは、そういったのであるが、どうせ渡辺病院の先生の言うことなんて、信用できるものではないから、診察に来たいなんていう言葉はすぐに忘れてしまった。どうせ、来るはずなんか無いだろう。それに裕美なんて性別がわからない名前では、もしかしたら、また自分たちの事をバカにして電話をよこしたのかもしれないし。

ブッチャーと杉ちゃんが電話のかかってきたことをすっかり忘れて、また咳き込んで苦しそうにしている水穂さんの世話をしていると、玄関の引き戸がガラッと開いた。

「失礼いたします。医師の木島裕美です。」

何だと思ったら、えらくしわがれた声だ。明らかに老人の声である。

「あれえ、木島裕美って言うから、女だと思っていたのに。」

「それでは、まるでものすごいおじいさんみたいだな。」

ブッチャーも杉ちゃんも顔を見合わせた。有希は体調が悪くて、製鉄所に来ていなかった。

「とりあえず、応対してきます。」

杉ちゃんとブッチャーは、急いで玄関先へ言った。すると、大きな目をして、痩せた老人が立っていた。頭は禿げていて、わずかに毛があるが、それがなんだかかっぱのお皿のような頭であったのである。でも、ちゃんと渡辺病院と書かれた白衣も来ているので、医者だとわかる。

「私、木島裕美と申します。有希さんという女性にこちらへ来るようにいわれまして、こさせていただきました。患者さんはどちらですかな。」

杉ちゃんは、笑いを堪えるのに必死で、ブッチャーは、姉がどうしてそんな事を頼んだのか、困った顔をしてその先生を見た。心配になってやってきた由紀子も、たしかに白衣を着ているが、かっぱのような顔をしたこの先生を信用してもいいのか、困ってしまった。いや、年をとっているので、かっぱというより、かわうばのような先生と言ってもいいかもしれない。ちなみにかわうばとは、かっぱが年をとったような容姿をしている妖怪である。

「ま、まあとにかくな。河太郎みたいな先生だけど、水穂さんに治療が必要なことは、ちゃんとわかっているんだから、とにかく入らせよう。水穂さんは尻を抜かれた人間よりも弱っている。」

杉ちゃんがそういうため、ブッチャーも、由紀子もそうすることにした。とりあえず、かわうばのような顔をした木島先生を建物の中に入れて、水穂さんのいる四畳半へ連れて行く。木島先生は、水穂さんが銘仙の着物を着ていても全く気にせず、水穂さんのガリガリに痩せ細った体を触ってみたり、聴診器で体の音を聞いたりして調べてくれた。その顔は、たしかにかっぱみたいな顔をしているけれど、真剣そのものの顔をしている。

「かなり重度だと思いますが、打つ手はありますよ。大丈夫ですよ。安心してください。」

と、三人に言った。そして、処方箋を書き、これらの薬を入手して、水穂さんに定期的に飲ませるように言った。

「ありがとうございました。本当に先生が診察してくださって、助かりました。」

ブッチャーと由紀子は、二人揃って頭を下げる。ブッチャーは処方箋を受け取って、急いで薬局に行ってきますと言って、部屋を出ていった。

「それにしても、どうして僕達のところへ、来てくれたんですか?」

なんでも知りたがる杉ちゃんが、木島先生に言った。

「有希さんが、直接、先生に診察をお願いに来たんでしょうか?」

「いえ、そういうことではありません。彼女が、渡辺病院に来て、馬場先生と喧嘩しているのを、偶然見かけたからです。彼女、つまり有希さんですが、ヘルプマークをつけていらっしゃった。彼女のような障害のある人は、本当のことしかいえないのを、私は知っていますし、あの有希さんが一生懸命訴えているのを見て、間違いは無いと思いました。まさかあの馬場さんを動かそうなんて、すごいことをするもんだと感じていました。あの馬場さんは、渡辺病院の中でも、彼女を動かすことはだれもできないほど、横暴になっていましたからね。」

木島先生はにこやかに笑った。

「私としてみれば、馬場さんにはもっと人前で恥をかいてもらいたいものです。彼女は医者としては有能なのかもしれないが、患者さんへの接し方とか、そういうことになると、全然だめというに等しいですから。きっと、自分の思い通りにならないことがあることを学ばないと、彼女はだめだと思いますよ。今回、有希さんがそれを仕掛けようとしてくれて、よかったと思いますよ。」

「な、なるほどね。確かに天狗になっているという雰囲気あったな。まあ、医者だからある意味しょうがないと思ってたけど。でも、そう思う事ができるってことは、先生も、そこらへんの医者とはかけ離れた、河太郎先生なんですね。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。由紀子は、そんな事が何故言えるのか、杉ちゃんに聞いてみたかったが、

「まあ、天狗を退治できるのは人間では無いでしょう。今回河太郎先生がこっちへ来てくれて良かったよ。河太郎が、天狗を退治したんだ。やった、嬉しいな。」

と、杉ちゃんがいう。それを考えると、有希が河太郎先生を呼び出すことができるということをやり遂げてしまうことは、彼女もやっぱり、普通の人間とは違い、自分たち以上のなにかを持っているのだと、由紀子は思った。

きっと、有希のヘルプマークは、そんな事を感じることなく、彼女のカバンにくっついているのだと思われる。



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河太郎先生 増田朋美 @masubuchi4996

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