王の灯 アラン①
「あの子はいつも要領が良かった。ろくに働きもしないのに、可愛いからって何となく許されてしまうのよ。でも、それはわたしが面倒を見てあげてたからだったのに。……あの子、やることが雑なのよ。わたしが必ず見直してあげてたの。
なのにリディはあんなに綺麗になって、わたしはずっと働いてばかり。あの子の手を見るたびに思い知らされる。あんな綺麗で、真っ白な、何もしない手……あの子は違う世界に行ってしまった、って」
ローズが訥々と語るのを眺めながら、やはりな、と私は嗤った。彼女の立場でリディを心から案じているだけだ、などと。どうして信じられるだろう。
彼女は――彼女を含めた路地裏の住人は、リディが何もしないで今の地位を得たと思っているのだ。ローズがさっき語った子供の頃の大道芸、あんな話が何だというんだろう。リディの成功は、ただの運や勢いによるもののようじゃないか。
勝手なものだ。
歌姫に登り詰めるまでに、彼女がどれだけ苦労したか。私が庇護してなお、衣装を汚されたり舞台に上がるのを邪魔されたりといった嫌がらせは後を絶たなかった。聞こえよがしの陰口もあったし、先日彼女自身が言ったように、歌を生業にする女に対する世間の目は決して優しいものではない。化粧を乱さないように涙を必死に呑み込んで、笑顔を作って舞台に向かうリディを、何度見送ったことだろう。
栄光が輝かしいほどに、影もまた濃くなるのだ。ローズは、この貧しい少女はそれに思いを馳せたことがあるのだろうか? 指をくわえてリディを羨むだけではなくて? この娘は何もしなかっただけではないのか?
苛立ち嘲る一方で、ローズの告白は耳に心地良く、不思議な満足感も覚えさせた。取り繕った表面の下に醜い感情を抱えているのは私だけではないと確かめることができたから。リディのためと言いながら、この少女の目には暗く強い感情が渦巻いている。私にもはっきりと見えるほどに。
リディに見せてやりたかった。リディは路地裏の住人のことを貧しくも善意に満ちた人々だと思っているのではないだろうか。だから私を拒むのではないだろうか。
それがどうだ! 彼女と一番親しかったはずのローズでさえ、こんなに浅ましい嫉妬を隠している。人間などみんな一緒だ。いかにも清純そうな少女が吐き出す怨嗟の声。大変結構、良い肴になるじゃないか。
「でも、わたしはリディが遠いところに行ってしまって嬉しかったの」
甘く苦いブランデーを楽しんでいた私は、しかし、熱に浮かされたように――酒精で心のタガが外れていると言うべきか――紅く染まった頬でローズが呟いた一言を聞き咎めた。ローズの口元は自然な弧を描いていて、偽りや強がりには見えなかったから。
「――どうして?」
「ジャンとも離れてしまうってことだから。ジャンは、わたしと一緒にいるはずだったの」
問いかけに対して、ローズは幸せそうに微笑んだ。今やローズの瞳に宿っているのは昏い嫉妬だけではなかった。何かもっと熱く、もっと純粋な――その感情の名前を当てようとして、私はローズに問いかけた。
「……ジャンが好きなんだね?」
「ええ」
ローズは大きく頷いた。その夢見るような瞳が潤んでいるのは、一口だけ飲ませたブランデーのせいだけではないだろう。
「リディは全てを手に入れるの。拍手も名声も、ドレスも宝石も――結婚だって。何不自由ない夢みたいな暮らしよ。わたしたちとは大違い。でも、それだけなら全然羨ましくなんかなかった。ジャンさえ残してくれれば良かったの」
「でもジャンはリディを選んだ」
私の中に、先ほどの意地悪い悦びとは全く別の高揚が生まれていた。ローズ、君はどこまで私と同じなんだ。君もまた、私と同じように振り向いてくれない人を想っているのか。
思わず身を乗り出すと、縋りつくように腕を掴まれた。
「そう。ずるいでしょう……?」
ローズの呼気から香るブランデーは、グラスから舐める時よりも一層芳しかった。甘い毒のようなローズの熱情に、絡め取られ酔わされるようだった。きっと私が密かに醸しているのと同じ種類の毒だからだろう。
「わたしはジャンのためにもリディのおばさんのためにも働いてきたの。奥さんみたい、って自惚れたりもしてたのよ。でも、ジャンは何とも思ってなかったのね。リディの方がずっと、ずっと心配だったのよ。
お母さんが病気だから? 劇場では一人きりだから? ……望まない結婚をしようとしているからかしら」
「人は人を哀れむのが好きなものだ。不幸だ、恵まれないというだけで愛すべき存在に見えるのだろう。私には、君がとても可哀想に見える。だからとても可愛らしい」
私の怒りを恐れるように、最後は小さく呟いたローズの頭をそっと撫でる。小さな子供にするように。想いに気づかれることなく尽くし続けたローズはこんなに哀れで愛らしいのに、どうしてジャンは気づかないのだろう。どうして真摯に想っているだけでは報われないのだろう。彼女も――私も。届かない思いに身を焦がし続けることしかできないのだ。
「わたしだって。父さんや母さんが病気だったら一人で働きに出ていたわ。たまたまリディだったってだけなのよ。リディは可哀想で大変で、頑張っていて――そう、できることが羨ましい。そうやってジャンに気にかけてもらえるのが妬ましい。
わたしは普通に働くことしかできないのに。わたしだってリディと同じ立場だったら、同じようにしていたわ。わたしだって――ロザモンドに、なれたかもしれない」
ローズは目を伏せると悲しげに続けた。
ロザモンドという名前を、私は知らない。何かの演目の主役という訳でもないし、そんな前の歌姫もいない。歴史に逸話を残した貴婦人はいたかもしれないが、この場で、それも貧しい少女の口から出るにはあまりにそぐわない。
ただ、同時にこの上なくしっくりとくる名前でもあった。ローズの
「どうして、リディなの……?」
嫉妬と羨望を溜息に乗せて吐き出すと、ローズは顔を覆った。リディの悩み苦しみを、何ひとつ知らないくせに。
だが、ついさっきまでとは違って、私は彼女を責める気にはなれなかった。むしろ、私以外に彼女の気持ちが理解できる者はいないだろう。私と彼女は、ひどく似ている。
「その通りだ。ジャンはひどい男だね」
私の声に、肩を抱く腕に、心からの同情がこもっているのが分かったのだろう、ローズはとても嬉しそうに微笑んだ。けれど微笑みはすぐに心配そうな表情に取って代わられる。
「でも、リディに幸せになって欲しいのは嘘じゃないの。お願いします、リディを怒らないで。そして、ジャンと行かせたりしないで」
ああ、分かるよ。リディが私と結婚すれば、ジャンは君のところに戻るかもしれない。リディの幸せは、君の中では君の幸せと同じになっているんだね。
「大丈夫だ、知らせてくれて本当に感謝しているよ、ローズ。ジャンを劇場に来させなければ良いだろう。空のボックス席を見れば、リディもきっと諦める。そうなるように手を回そう」
できる限り優しく言い聞かせたが、ローズはまだ不安げに目を瞬かせた。
「わたしのことは……」
「心配しないで、リディにもジャンにも言わないから」
「……ありがとう」
やっと安心したように頷いたローズは、抱きしめたくなるほどに可愛らしくて弱々しかった。彼女の魅力に気付かないジャンは、大バカ者だ。ジャンのことを想いながら、リディを裏切った後ろめたさにも苛まれる、とても優しい心の持ち主なのに。
酔いを醒ますために水を飲ませてから、ローズを送るように馬車を手配した。乗る時には手を取って導いて、別れ際には手にキスをした。高貴な姫君にするように。豪奢な馬車の中、みすぼらしい服を恥じるように縮こまったローズは、まるで魔法の解けたシンデレラのようだった。
だが、彼女にはきっとそういう扱いが必要だと思った。ロザモンドになれなかった彼女には。
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