ローズの告白②
気がつくとわたしは知らない道を歩いていた。
もう暗くなっていて、足元がおぼつかなくてもおかしくないのに、不思議と歩みが止まることはなかった。ただ月と星が明るい夜だからというだけじゃない。滑らかな壁や汚れ一つない石畳が、月や星の明かりにほの白く輝いて見えるから、迷うことなく進めるんだと思う。
割れた瓶が転がっていたり、酔っぱらいが倒れていたりなんてことのない閑静な通り。悪ふざけする人もいないからか、街灯さえも揺らぐことなく確かに明るく灯っている気がする。夜目にも輝かしく美しく整えられた家々が並ぶ一角。
わたしは、貴族の屋敷が立ち並ぶ高級住宅街をさまよっていた。
どうしてこんなところにいるのかしら、と思う。まだ食事を作ってないのに。うちの分も、リディのおばさんの分も。それから縫っておかなきゃいけないほつれた服もあったはず。その後は後片付けと、明日の
そう思うのに、わたしの足は止まらない。まるでどこに向かうか知っているかのように、不思議に思うわたし自身を導くように、角を曲がり通りを渡ってどこかへと進んでいく。
そしてあるお屋敷の前で立ち止まった時、わたしはやっと自分が出かけた理由を思い出した。
それは、ファルマン子爵――リディの婚約者のお屋敷だった。
貧しい姿のわたしを見て、扉を開けた人は最初嫌な顔をした。けれど、あの人の名刺――いつ取り出したのか全く覚えていなかったけど、わたしはしっかりと握りしめていた――を示すと、頷いてわたしを招き入れてくれた。
毛足の長い絨毯に、ぴかぴかと光る材質のテーブル。どこまでも沈み込んでしまいそうに柔らかいソファ。通された部屋の調度品はとても高価だと分かるのに、同時にとても居心地が悪かった。さっきのジャンの家と同じだ。どこにもわたしの居場所なんてないみたい。
執事――と呼ぶのが正しいのかもわたしには分からなかったけど――の人が出してくれたお茶に手をつける気にもなれなくて、わたしは膝の上で手を組んでひたすら小さくなって待っていた。消えてしまいたいと思いながら。そうしたらこんな何だか分からない胸の痛み、心を引き裂くような悲しさを感じることもないのに。
「ローズ? こんな時間にどうしたんだ。義母の容態に何か?」
やっぱり来なければ良かったと思い始めた頃に入室した子爵の声はとても穏やかで丁寧で、わたしはどうにか返事をすることができた。
「いいえ、違うんです。おばさんは何も。――お知らせしたいことがあるんです」
わたしが話している間、子爵はグラスを傾けて聞き入っていた。ワイングラスよりも背が低くて丸みのあるグラスに入っている液体は、淡い琥珀色をしている。ブランデーだって。グラスから立ち上る芳醇な香りだけでも酔いそうなほどだったけど――それとも、もう酔っているのかしら。頭がぼうっとして夢の中にでもいるようだった――わたしは全てを話した。
リディのこと。ジャンのこと。二人が初日の後、夜明け前に遠くへ逃げるつもりだということ。
「リディがそんなことを……」
子爵がグラスをテーブルに置く音でわたしは我に返った。かつ、という硬い音。ガラスと木材のぶつかる音が、必要以上に大きい気がして、子爵の怒りを示しているようで怖くなってしまったのだ。
「あの、リディを怒らないでください。あの子、よく分かってないだけだと思うんです。自分がどれだけ幸運で恵まれているか。結婚したら分かるはずです。だから――」
「私がリディを傷つけるはずはない。そんな心配をしているなら無駄なことだ」
言葉と裏腹に子爵の声も、細めた目もとても尖って不機嫌そうなものだった。
当たり前だわ。リディはこの人を裏切ったのと同じだもの。怒らないでなんて言えるはずがない。かける言葉が見つからなくて、わたしはただ目を伏せることしかできなかった。
「そんな顔はしないでくれ、君には感謝しているんだから。よく知らせてくれた。――だが、どうして友だちを裏切ったんだ?」
「裏切るだなんて!」
子爵の声はまだざらざらと怒りと不快を滲ませた恐ろしいものだった。でも、言われたことがあまりにひどかったから、わたしは叫ぶように言い返す。顔を上げると、子爵の険しい目に迎えられた。貫かれるような気分を味わいながら、わたしは縺れそうになる舌を懸命に動かした。
「わたしは……リディに幸せになって欲しいだけです。駆け落ちなんて苦労するに決まってるもの。そんなバカなことは止めて、ちゃんと結婚して……歌姫だって、せっかく主役になれたのに……」
「リディのために告げ口か。まったく美しい友情だ」
わたしは子爵を睨みつけた。この人の屋敷の中でそんなこと、いけないことかもしれなかったけど――揶揄うような言い方に、腹が立って仕方なかった。
「あなたには、分かりません」
見れば見るほど、この人はわたしたちとは違う人間だと思う。わたしや、ジャンとは。こんな豪華なお屋敷も、着ているものも、働いたことなんかなさそうな手も。グラスを片手にソファに寛いでいる姿がこんなに様になるなんて、いったい普段はどんな暮らしをしているんだろう。
「リディとはずっと一緒だったんです。一緒に遊んで働いて――だから、今回のお話がどんなに幸運なことか、わたしが一番分かっています。水で手を荒れさせたり、ぱさぱさの髪や肌で我慢しなくても良いことが。朝起きてから夜寝るまで、次は何をしなきゃ、って考えなくても良いことが。ううん、寝る時だって考えてるわ。今日はこれができなかった、明日はあれから始めなきゃって。
着ているものだって。ツギだらけの服より流行りのドレスの方が良いに決まってる。おまけにたくさんの人の喝采を浴びて褒めそやされて――」
わたしは何を言っているんだろう。この人に話しても分かってもらえるはずなんてないのに。きっとわたしたちの暮らしがどんなものだか、想像したこともないはずなのに。わたしにとって、リディが何なのか。あの子がどれだけ眩しいのか。光り輝く世界に住んでいるこの人には、きっと想像もできないだろう。
「子供の頃、大道芸みたいな劇団が来たことがあったの。客席の子を舞台に上げる演出があって――誰も、恥ずかしくて行けなかったんだけど。リディだけは、飛び出したの。あの子は他の子と違って羽ばたくことができる、だから歌姫にもなれたのに。それをダメにしちゃいけないわ」
子爵はグラスを口元に運んだ。琥珀色の液体が揺らめいて、部屋の中に濃く甘い香りを撒き散らす。その強すぎる香りに、わたしの頭は一層ぼんやりとしてしまう。
そして次に言われたことに、わたしは心臓が止まりそうなほど驚いた。
「君はリディが羨ましくて仕方ないんだね」
違うわ。リディのためよ。わたしはリディを心配してるの。
驚きの次に襲ってきたのは怒りだった。あまりに激しい感情だったから、ちゃんと口に出して言えたかは分からない。わたしはリディのためにここに来たはず。だがら堂々とそう言わなければいけない。でも、子爵に見つめられると頭が真っ白になって口が言うことを聞いてくれない。さっきまでの怒ったような顔じゃない、訳知り顔の揶揄うような表情でもない。どこか真剣味を帯びて、心からの関心を向けられている気がした。
ブランデーの香りが一段と濃くなった。グラスをもうひとつ運ばせた子爵が、新たに琥珀色の液体を注いでわたしに差し出したのだ。間近に強いお酒の匂いを嗅いで、わたしは酔ったようにふわふわとした気分になってしまう。
「君の本音が聞きたいな。――ブランデーは初めて?」
頷きながら、グラスを受け取る。おそるおそるグラスを傾けてブランデーに口をつけると、身体に火がついたような熱い感覚が喉を降りていった。そしてそれはすぐに頭に上る。わたしの理性を、見栄を。建前を、燃やしてしまう。
「本当にリディのためだけに来たの?」
そうよ。
そう言おうとしたのに、わたしは首を振っていた。きっとブランデーのせいだ。血に溶け込んだブランデーがわたしの身体を勝手に動かしている。わたしの舌さえ。
そしてわたしはやっと口に出して認めた。
「リディは……ずるいわ」
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