持たざる者たち

ローズの告白①

 ジャンの家の抽斗を覗いてしまったのは、どう考えてもいけないこと、誰にも言ってはいけないことだった。


 でも、にも関わらず、わたしはああしていて良かったと思った。


「こんなこと打ち明けられるのは、ローズしかいないんだ」


 でなければジャンの話を聞いて、取り乱さずにいられたはずがない。


 リディと駆け落ちするなんて。しかもそれだけじゃなくて、二人がもう想いを伝え合って、何度も密かに会っていたなんて。確かにジャンは最近帰りが遅くなることが多かったけど、おじさんには仕事と言っていたそうなのに。


 ジャンがリディのチケットを返していないと、抽斗を覗き見て知っていたからこそ、ジャンが真剣な顔で二人きりで話がしたいと言った時に覚悟を決めることができた。わたしにとって決して嬉しい話ではないと。きっとリディに関する話なのだと。


「そんな――せっかくリディが幸せになれるのに」


 一応は驚いた振りをして、わたしは思ってもいないことを言ってみた。わたしが何か言ったところでジャンが心変わりするなんて欠片も信じていなかったけど。だって、宝石よりも絹よりも。舞台の主役よりも貴族の奥方の地位よりも。愛する人と一緒にいられる方が幸せに決まってる。


 だってわたしもそう思ってた。リディは――リディアーヌは全てを手に入れるかもしれないけれど、ジャンはわたしのものになるのだと。だから、リディを羨むことなく今まで普通に暮らしてこられた。……手に入ると思っていた幸せは、今にも零れ落ちそうになっているけれど。


「リディは、苦労をしても良いと言ってくれた。それに、あの子爵を愛することはどうしてもできないと」


 頑なに首を振ったジャンを見て、わたしは言わなければ良かったと後悔した。二人が心から愛し合っていると思い知らされるだけだったから。


 それでも大人しく頷くなんてできなくて――だってジャンと一緒にいた時間はわたしの方が長いのに――、わたしはとてもずるいことを言うことにする。


「おばさんはどうするの? リディもジャンもいなくなったりしたら――もっと具合が悪くなっちゃう。薬代だって、リディがいたから――」

「そのことも考えた」


 ジャンはテーブルの上に小さな箱を取り出して置いた。ジャンの家の居間、わたしも何度となく訪れて馴染んだ場所のはずだった。なのに今は全てがよそよそしくて、わたしのいるところではないと拒まれているようだった。


 縮こまるわたしに気づいてくれることはなく、ジャンは箱の蓋を開けてわたしに中身を示して見せた。


「わ……」


 それが何なのか理解する前に、太陽を直視したような輝きが目を眩ませる。ルビーやサファイア、小さな星みたいに光を放つダイヤモンド。色とりどりの宝石が、精緻な造りの金銀細工に嵌められて。どれ一つとってもわたしには一生縁がないであろう、高価な装飾品の数々だった。


「リディがあの子爵以外からもらった宝石だ。おばさんを看るのに十分な額になるはずだ」


 ジャンが箱の蓋を閉めると、部屋の中が一段暗くなったような気がした。それほど、宝石たちの輝きはまぶしかった。


「子爵様からって、どういう……?」

「あいつがリディのパトロンをしていたのは、リディを好きだったからだ。その気持ちに応えることができないなら、もらったものは返さなければ、って、リディが」


 ジャンが条件をつけたのが不思議で、それに他に何を言ったら良いかも分からなくて。耳に残った言葉を繰り返すと、ジャンは一拍も間を置かずに答えた。リディは、ひどいわ。あんなに子爵様に良くしてもらったのに、振り向いてあげないなんて。そんなにジャンが好きだなんて。


 とにかく、お金を理由に二人の心を動かすことはできないみたいだった。わたしが次の反論を考えている間に、ジャンは更に言葉を重ねる。


「リディからもらってた金の、俺の分も渡す。そもそもおばさんの面倒を見るためのものだったし、持っていくのは違うと思うから」


 ああ、ジャンとリディはわたしにおばさんを押し付ける気なのね。そうして二人きりで生きていくつもりなのね。


 わたしは涙がこぼれないように一生懸命瞬きをした。二人とも、わたしのことを友だちだと思ってるんだろう。だからこんなことを頼むんだろう。わたしだって二人のことをとても大事に思ってる。だから頼って打ち明けてくれたのは、喜んで誇りに思って良いはずだった。


 でも、それならどうしてわたしは泣きそうになってるのかしら。ジャンやリディの行く末を心配しているなら、泣くのは違うはずだった。胸が痛いのは――きっと、二人が捨てていくものがあまりに多いからだと思う。こんなこと、本当に許されるのかしら。


「リディは本当に良いって? どうして来てくれないのかしら」


 また傷つけられるような気はしていたけれど、問いかけずにはいられなかった。すると、ジャンは困ったように眉を寄せて言い淀んだ。


「……ローズに直接説明して、謝ることができないのを気にしていた。でも、公演や稽古があるからどうしても抜けられないって」

「そう。じゃあもう会えないのね……」


 わたしは自分が悲しいのかほっとしているのか分からなかった。リディに会える機会がもうないなんて、そんな日が来ることなんて夢にも思ってなかったのに。歌姫になった綺麗な子、舞台に飛び上がることができた子。わたしの自慢の友だちなのに。


 とても悲しい一方で、あの子の口からジャンのことが好きだとか愛しているとか、はっきり聞くのは嫌だった。わたしがほっとしているとしたら、そのせいだろう。


 ……リディだってそんなこと今まで一言も言ってなかった。


「あの子爵に見つかる訳にはいかないから、もう戻れないと思う。落ち着いたら手紙は出したいけど……」

「そうね。そうでしょうね」


 リディは、ジャンはいつから相手のことが好きだったんだろう。子供の頃、流れの劇団の舞台に上がってくるくる回ってたリディ、「リディアーヌ」の片鱗を見せてたあの子はとてもきらきらしていた。あの頃からだったのかしら。わたしは立ち上がることができないような子供だったから――だから、なのかしら?


「ローズ? 引き受けてくれるか……?」


 ジャンが心配そうに聞くので、わたしは思わず笑いそうになった。わたしが黙り込んでしまった理由を、彼は全然わかってないのね。


 わたしが断ったらどうするつもりなのかしら。おばさんを見捨てて二人で逃げようとしたかしら。いいえ、そんなことは考えてもいないはず。おばさんを見捨てることを、じゃない。何だかんだでわたしが言うことを聞くだろうと、二人とも信じきっているんだ。


 二人の信頼を、どうして裏切ることができるだろう。


「ええ。友だちだもの」


 何度も瞬きをして涙を乾かしてしまうと、わたしは笑顔を作って頷いた。


「ありがとう」


 ジャンのほっとしたような笑顔は、それは輝かしいものだった。決して、本当の意味でわたしに向けられたものではなかったけれど。

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