闇へと続く道 ジャン②

 自分がどこにいるのかを把握するまでに、何度か瞬きをしなければならなかった。


 リディのこと、この先のことを考えながら歩いているうちに、俺はいつしか汽車の駅にまで辿り着いていたようだった。どうやって子爵や劇場の連中に気付かれずに街を出るかの算段を、頭の隅では考えていたんだろうか。だからこんなところにいるんだろうか。

 今日の汽車は全て出た後なのか、レンガ造りの駅舎はひたすらに黒く、夜空を背景にぼんやりと影のように佇んでいる。そして、押し潰されそうな建物の質感以上に俺を慄かせるのは、ほの白く浮かび上がる線路が、闇に呑まれていく様だった。この線路を辿れば、知らない街に行けるのだろう。でも、そこに幸せが待っているかは分からない。俺はリディを、破滅へと続く道に導こうとしているのかもしれない。


 闇の濃さと深さによろめきそうになって──俺は、ぴしゃりと自分の頬を叩いた。

 いや、そうはならない。させてはならない。俺が怯えててどうする。リディは俺を信じてるじゃないか。あいつが信じた幸せを、掴み取るんだ。気丈なようでいて、あいつはずっとおばさんのために我慢を重ねてきた。これ以上、自分を犠牲にさせて良い訳がない。


 しっかりしろ。今の俺は、責任を負うのが怖いだけだ。あの子爵や世間に指を指されて責められるのを恐れているだけだ。リディが幸せにすることさえできれば、奴らを見返すことだってできるはずだ。そうだろう?


「夜逃げかい? 乗せてやろうか」


 線路を睨んで自問自答を繰り返していると、不意に近くから声が響いた。


 文字通り飛び上がりながら声がした方を振り向くと、制服を着た駅員らしき男が佇んでいた。いつの間にこんなに近づいていたんだろう。闇の中では顔かたちはよく分からないが、大分年配のようだ。俺は破裂しそうにどきどきとする心臓を抑えて、恐る恐る問いかけた。


「汽車……まだあるのか?」

「旅客列車は終わってるが、貨物は深夜や早朝に出入りすることもある」


 夜逃げか、と言われたこと──それに、男の含みのある声音から、何となく分かる。普通は貨物列車に人を乗せないだろう。だからきっと、こいつは裏の取引を持ち掛けている。俺はよっぽど思いつめた顔をしていたんだろう。吹っ掛ければ、儲けになると睨んだのか。


「切符は? どこで買えるんだ」


 何気なく問いを重ねることができるのが、我ながら不思議だった。俺は今まで、後ろ暗いことに手を染めたことは一度もない。普段だったら、怪しい話を持ち掛けられたらすぐに背を向けてこの場を立ち去っていただろう。ただ──今なら、リディと逃げるのに使えるな、と思ったんだ。


「窓口で、じゃないな。値段も相談次第になる」


 暗闇の中で、白い歯がちらりと閃いた。男が笑ったんだ。俺が食いついたと見て、距離を詰めてくる。足を踏み出して近寄ってくるだけじゃなく、心の上でも。

 ああ、馬鹿なことを聞いてしまった。まともなじゃないんだから、まともな切符があるはずもない。侮られてしまったのではないかと恐れながら、俺の方もじわじわと足を進めながら、また別の問いを投げかける。


「二人分の席は、あるか? 今日じゃないんだが」


 リディアーヌの初日の日付を告げると、男は頷いた。俺の事情をどのように推し量ってか、好奇心に目を煌めかせながら。


「ああ。どうにかなるだろう」

「前金は、必要か? 明日の晩にでも、持ってくるが」


 明日は、リディとは会えない日だ。だから、俺一人でまたこの場にやって来ることもできる。リディに相談しないまま、話を進めてしまっていると思うと、心臓が脈打つたびに痛んだけれど。でも、今夜この駅まで来たのは運命のようだ、と思った。

 幼いあの日、リディは舞台に跳び上がったじゃないか。あれが、あいつと俺の最初の分かれ道だったと思う。動くことができたリディと、できなかった俺と。あの時の一歩が、俺たちを隔ててしまったんだ。リディを助けようとするなら、今、俺が思い切って動かなくてどうするんだ。


 闇の中だから、俺の額から汗が伝うのは、相手には見えなかっただろう。いや、見えたとしても、金になるなら良いのだろうか。こんな話を持ち掛けてくる男なら、リディの素性を詮索することもないだろうと信じたかった。


「そうだな……そしたら、詳しい場所と時間も教えてやろう。行き先もな」


 男が手を差し出したのは、契約成立の握手を求めているようだった。気付くまでにたっぷり数秒掛かってしまったが。恐る恐る差し出した手は、相手の年齢に似合わぬ力強さで握り返された。


「もう一人は、どんな──いや、詮索するつもりはないが」

「そうしてもらえると助かる」


 男はにやりと笑って答えると、闇の中へと消えていった。まるで、夢でも見ていたかのような──でも、手には彼の熱がまだ残っている。

 俺も跳んだ。舞台に跳び上がった、と思った。未来を切り開くために、望んだ人生を生きるために。これで、リディと同じになれただろうか。吐いた息の深さと荒さに、ほとんど呼吸さえ忘れていたのに気づかされる。


 とにかく──もう、先に進むしかない。リディを連れて、どこまでも行く。これで良いのか、は考えちゃいけない。ただ、あいつを幸せにすることだけを考えるんだ。

 決意も新たに、俺は今度こそ家を目指して歩き出す。進む先の闇もまた、底知れず深かった。

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