闇へと続く道 ジャン①

 俺は、リディのアパルトマンの最寄りの角まで彼女を見送った。リディと別れる時の、お決まりの場所だ。


「好きよ、ジャン」

「俺もだ」


 人目を盗んで、闇の中でもなお暗い物影に隠れるようにして、慌ただしく掠めるだけのキスを交わす。背伸びをしてふらつくリディの、細く軽い身体の感触が愛しかった。


 リディは何度も振り返りながら、アパルトマンの入り口へと消えていった。「歌姫リディアーヌ」の住まいだと知っている住人もいるというから、子爵以外の男との逢引なんて見られる訳にはいかない。本当は、もっと手前で別れるべきかもしれないけれど、別れるのが辛かった。何より、女の子に夜道を歩かせる距離はなるべく短くしてやりたい。あの子爵だったら、アパルトマンの入り口まで馬車を乗りつけるのだと聞かされたのを、俺は気にしてしまっている。


 夜道に佇んでアパルトマンを見上げていると、リディの部屋に明かりが灯った。そしてすぐに、バルコニーに華奢な影が現れた。


「また、な」


 聞こえないことは承知で、俺はリディに手を振った。名残惜しいのを振り切って踵を返す俺の背に、彼女も手を振り続けてくれていることだろう。




 一人で夜の街を歩くと、不意に気温がぐっと下がったように感じられた。夏とはいっても、夜になればかなり涼しくなるのは普通のことだ。でも、さっきまでリディと寄り添うように歩いていた俺には、寒いくらいだった。

 いや、これは身体が感じる寒さじゃない。さっき話したことに怖気づいてしまっているからでもあるのだろう。


『じゃあ――逃げる、か?』


 さっき自分の口から出た言葉が、いつまでも頭の中で巡っている。暴れまわっている。心臓が弾けそうに高鳴って、こめかみの辺りに痛みさえ感じる。俺は、どうしてあんなことを思いついたんだろう。どうして口にできたんだろう。俺の言葉に、リディは目を輝かせて飛びついてきたじゃないか。子爵との結婚がそれだけ嫌なのだとしても、俺を――好いていてくれるのだとしても。簡単に言ってしまって良いことでは絶対になかったはずだ。


 リディと二人で、田舎町で暮らす。あいつは劇場の歌姫なんかじゃなくて、ただの職人の奥さんで。俺が帰るとリディが笑顔で出迎えてくれる。質素だけど清潔な服、豪勢ではなくても温かい食事。豊かではなくても幸せな家。


 でも、それは誰にとっての幸せだ?


 闇に高く靴音を響かせながら、俺は早足に歩いた。自らが動くことで起きる風が、頬の熱さを、寒気を催させる悪い病気のような熱を、冷ましてくれることを願って。

 俺は、リディを愛している。それは確かだ。思いを伝えることができて良かったし、リディも俺を愛してくれている。そう確かめることができたのはこの上ない幸せだ。わずかな時間でも会って、言葉を交わすことができるのは嬉しい。手を繋ぎ、唇を重ねると天に舞い上がる心地がする。それも、絶対に間違いではない。でも、恋に浮かれて酔いしれて、道を踏み外しかけていないかと自身に問うと、完全に首を振ることはできなかった。


 リディを愛しているからといって、あの子爵から奪い取ってしまって良いのだろうか。あの男の方が俺よりずっと裕福で教養もあって、リディアーヌを幸せにできるはずなのに。リディも望んでいるからというのを、言い訳にしてしまって良いのだろうか。リディを初めて抱きしめたあの夜、俺はあいつと一緒にいるために何でもすると決めた。でも、その何でも、の中にリディを不幸にすることも含まれているのだろうか。


「お兄さん、何急いでるの? 私と──」

「悪い、どいてくれ」


 甘い香りを漂わせながらしなだれかかって来た街娼を、俺はできるだけそっと脇に除けた。何よ、とか不満の声が聞こえてきたのを無視して、更に足を急がせる。家へ向かう道ではない。自分でもどこに向かっているか分からないまま、何かから逃れるように。


 俺は、リディにはまともに働いて普通に暮らして欲しかった。さっき語った夢は、俺がずっと考えていたことそのままだ。歌姫なんかじゃない、庶民としての平凡で穏やかな生活だ。リディには、きっと魅力的に見えただろう。歌姫リディアーヌとして、貴族の奥様として生涯を生きていくことに不安を覚えた今のあいつなら。……俺は、あいつの不安につけ込んだんじゃないないんだろうか。俺が望む慎ましくもつまらない幸せを、あいつに押し付けようとはしていないだろうか。何年か経った後、リディは後悔しないだろうか。俺を詰ったり、恨んだりすることは?


 いや、あいつに幻滅されるだけならまだ最悪の事態じゃない。俺が何より怖いのは、二人きりで、親や近所の人たちの手助けもなく、それどころか子爵からは追われる身になって、本当に生きていけるか、だ。見知らぬ街、知らない人だらけの場所で、俺は二人分の食い扶持を稼げるだろうか。さっき誘ってきた街娼が、未来のリディの姿になる可能性だって十分にある。そうなったら、俺はどう償えば良い?


 それに、おばさんのことだってある。そもそもリディが下町を飛び出したのは、おばさんの薬代を稼ぐためだ。リディが俺と逃げるということは、おばさんを見捨てるということだ。リディに何もかもを捨てさせて、それでも選んでもらえるだけの価値が、俺にあるんだろうか。


「ああ……暗い、な……」


 ふと顔を上げた俺は、辺りの闇の深さに溜息を吐いた。

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