未来へと続く道 リディ②

 あたしの肩を抱くジャンの手に力が篭った。


「そうか」

「言おうとはしたんだけど。でも、聞いてくれなくて」


 そしてあたしはさっきの一幕をジャンに語った。通し稽古の後、アパルトマンまで送ってもらう馬車の中でのアランとの会話を。あたしは彼を愛せないから結婚できないと言おうとしたのに、アランは気持ちを分かって欲しいとしか言わなかった。分かっては、いるのに。その上で、受け入れられないから申し訳ないと思うのに。どうしても無理だということを、彼は頑なに聞き入れてはくれなかった。


「そうか」


 ジャンは呟くとあたしの髪を撫でた。ジャンはあたしの髪の感触が好きだって褒めてくれる。艶やかで良い香りがするからと。褒めてくれるのはアランも同じだけど。ただ、例えるのがどこか知らない産地の絹だったり、香水の名前を当ててはあれの方が似合うとか言ったりもするからどう答えたら良いか分からない時もある。そういう洒落たやり取りよりも、あたしはジャンの素朴な褒め言葉の方が嬉しかった。


 そういうことも、改めてジャンに言った方が良いかしら。とても上手くいった今日の稽古――あんな歌を歌えたのも、ジャンのお陰だってことも。愛すること、誰かを想うことがどういうことか、ジャンが教えてくれた、って。


 そうだ、それに今日はアランとキスをしなくて済んだ。そう伝えたらジャンは喜んでくれるかもしれない。それとも比べられているようで嫌になる? いつもはキスをしてるのかって、軽蔑されてしまうかしら? やっぱりわざわざ言うことじゃないかしら。


「――俺から言うよ」

「え?」


 あたしが考えている間に、ジャンも何かしら心を決めたようだった。とても力強く宣言された言葉の意味を量りかねて、あたしは思わずジャンの顔を見上げた。


「俺たち二人のことだろう。リディだけに任せることはできない」

「ダメよ!」


 ジャンが言ったことに頷くなんて、到底できなかった。昼間聞いたアランの声、狂気さえ帯びた笑い声が蘇って、あたしの肌が粟立つ。あの人はあたしには何もしなかったけど、それでもとても怖かった。ジャンを、あの人に会わせてはいけない。その一心で、あたしは必死にジャンの胸に縋りながら訴えた。


「ダメよ、そんなこと……! あたしが何も考えないでプロポーズを受けてしまったの、あたしが悪いのよ。だからあたしがちゃんと断らなくちゃ」


 それに、アランはジャンの名前を口にしていた。路地裏の馴染みのことなら、それに母さんの世話をしているというなら、ローズについて話したことの方が多いはずなのに。ジャンと会ったのはたったの一度のはずなのに。なぜかアランは知っている。ジャンはあたしにとって特別なのだと。


 ジャンをアランに会わせたら、何をされるか分からない。


「あの子爵にしてみれば、訳も分からず――その、花嫁に、避けられていることになるんだ。聞く耳持たないのも当然だ」

「それは……」


 ジャンは花嫁、という言葉をひどく嫌そうに吐き捨てた。アランの花嫁になることを思うと、確かにあたしも震えてしまうけど。ジャンと結婚することを想像したら、天にも昇る心地になれるのに。あたしが甘い夢に浸り切るのは、なんて難しいことなのかしら。


「だから、はっきり言った方が良い。俺も、リディを愛してるって言ってやりたい」

「愛してる……?」

「うん、愛してる」


 爆弾みたいな台詞をさらりと繰り返してあたしの頬に火をつけてから、ジャンはまたあたしの髪を梳いた。くすぐったいような、だけど安心する感覚のはずなのに、恐怖がどうしても去ってくれない。この瞬間が幸せな分、それを失うことを想像すると心臓が破れそうになる。何も考えずに頷いてしまいそうになるのに必死に抗って、あたしはどうにか首を振った。


「でも、ダメなの。あたしがどうにかするわ……!」

「どうにかって? リディは会うたび顔色が悪くなってるじゃないか。どうにもならないんじゃないのか?」


 きっぱりと言ったはずなのに間髪入れずに問い返されて、あたしは言葉を失ってしまう。分かってはいるんだ、アランがあたしを逃がすはずがないって。でも、ジャンを諦めることもできない。


 でも、とか。だって、とか。意味のない言葉を発しては続きを訴えることができないあたしを、ジャンは優しく抱き締めた。


「じゃあ――逃げる、か?」

「逃げる」


 耳元で囁かれた一言は、とても不思議な響きをしていた。怖いような、それでいてとても甘美で縋ってしまいそうな。そうだ、頭のどこかではずっと考えていたような気さえする。歌姫なんて、主役なんてどうでも良い。ただ、ジャンと一緒にいられさえしたら……。


「二人で遠いところに行こう。どこかの田舎で小さな家を借りて。職人の仕事はどこにでもあるだろうし。……苦労をさせることになるけど。貴族や金持ちに褒めそやされることはなくなる。流行りの服や宝石なんかあげられないし、この手も荒れてしまう。この肌も、日に焼けてしまうだろうけど」


 あたしの心が揺れた隙に、ジャンは更に誘惑を仕掛ける。ああ、ジャンはあたしを試しているつもりなのかしら。でも、それならなんて見くびられたものかしら。アランの気持ちが、少し、ほんの少しだけ分かった気がした。愛を疑われることは、確かに悔しくて悲しいものなのね。


 ジャンが挙げたことはみんな、あたしには大したことには思えなかった。名声やお金。一時のものでしかない美しさ。そんなものために愛する人と離れるなんて、できるはずがないじゃない。


「――構わないわ! そんなの、どうでも良い!」


 それでも叫んだ後で心配になって、小さな声で付け加える。ジャンだって、沢山のものを捨てていくことになるんだから。本当にあたしで良いのかしら。


「あたしこそ、料理も掃除も下手なのよ? 嫌になったりしないかしら。ローズみたいにはできないのよ」

「全然。リディがいてくれるだけで嬉しい」

「……あたしも。ジャンがいれば良いの」


 あたしたちは顔を近づけ、額をくっつけるようにして、やっと笑った。そして自然に唇が重なる。


 唇を離すと、ジャンは真剣な表情になった。声もぐっと低められて、雑踏のざわめきの中では耳に全ての神経を傾けないと聞こえないくらい。


「出て行くなら、いつが良い? 準備もいるだろう」

「そうね――」


 つられるような囁き声でジャンに答えると、あたしは頭の中で暦を思い浮かべ、公演や稽古の予定を書き込んでいった。ああ、嫌になるほど時間がない。それなら、いっそ――


「初日の後は? それまでに荷物を纏めるわ」

「でも、プロポーズされるんだろう? それに主役がいなくなるなんて……」

「いなくなるならいつでも一緒よ。代役なんて誰でも良いの」

 心配そうな表情で顔を顰めたジャンに、あたしは強く言い切った。


 消えた歌姫はきっと話題になるだろう。醜聞好きの客が劇場に押しかけるなら、支配人は文句を言わないはずだ。代役を勝ち取る機会を得る子たちだって喜ぶわ。どうせみんな、いつお呼びがかかっても良いように王女の歌をさらってるはず。あたしなんて――リディアーヌなんて、いなくて良いの。多分、きっと。でも、「リディ」ならジャンに求められてる。


「それに、終演後は祝宴になるの。みんな夜通し飲んで騒いだら、朝には誰も起きてないわ」


 重ねて言うと、ジャンも納得したようだった。


「夜明け前に、闇に紛れて街を出る……」

「誰にも気づかれないうちに」

「気づく頃には」

「あたしたちは遠くの街にいる」


 キスをするくらいの距離でささやき合う。まるでデュエットのように。あたしと、ジャンと。定められた台本を読み上げるように、お互いの考えが通じ合っているようだった。


 もう一度、今度は頬にキスをすると、ジャンは晴れやかに笑った。


「じゃあやっぱり初日は劇場に行こう。一度くらいはリディアーヌを見てみたい。劇場中から喝采を浴びる、お前の晴れの姿を」

「リディアーヌの最後の姿ね」


 その後あたしが歌うとしたら、ジャンのため。それから、ジャンとの間に生まれるかもしれない子供のためだけだ。男の子か女の子か、そもそも子供を授かるかも分からないけど、その光景を思い浮かべるだけで自然と顔が綻んだ。本当に、そんな幸せが手に入るなら歌姫の地位なんて投げ捨てても全然惜しくなんかない。劇場一杯の観客が聞きほれた歌を、子供たちだけに聞かせてあげるの。たとえ貧しい暮らしになったとしても、そこだけは贅沢させてあげられるわね。


「そして終演後は劇場の傍に潜んでいよう。そうすれば、早い」

「ええ。あたしもできるだけ早く行くわ」


 ジャンと指を絡め合って、あたしは夜の河を眺めた。無数の灯火に彩られた黒い流れは海へと続いているという。それは、あたしたちの未来へと続いているようにも思えた。


 ジャンと二人の、幸せな未来へと。

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