未来へと続く道 リディ①

 ジャンの姿を人ごみの中に見つけて、あたしは彼の斜め後ろから近づいた。そっと、息を潜めて。いきなり声をかけて、驚かせてやろうと。でも――


「リディ」


 声を掛けようとしたのとほぼ同時にジャンが振り向き、夜だというのに太陽が輝くような笑顔を見せてくれる。背中をつつこうと持ち上げた手は、無駄になってしまった。


「驚かせようと、思ったのに」

「ごめん。でも、見えたから」


 唇を尖らせて見せるけど、本当は、あたしの胸は喜びではち切れそうだった。心臓がうるさいくらいにどきどきしてしまって、ジャンにも聞こえてしまうんじゃないかしら。真後ろに隠れなかったのは、ジャンの視界の端には入るように近づいたのは、あたしに気づいて欲しかったからだ。


 歌姫のリディアーヌではない、あたし自身に。


 星が輝き涼しい風が暑気を払う夏の心地よい夜だから、大通りは沢山の人が行き交っている。劇場に足を運んだことのある人も多いだろうし、リディアーヌのポスターに至っては見たことのない人の方が珍しいんじゃないかしら。


 でも誰もあたしには気づかなかった。化粧は白粉おしろいを軽くはたいただけ。髪も、凝った巻き髪ではなくて緩く編んで垂らしただけ。艶やかな絹ではなくてさらりとした麻の服。宝石だって、もちろんひとつもつけてない。そんな娘が「リディアーヌ」だなんて、すれ違う誰も夢にも思ってはいないようだった。ジャンの、ほかには。そう思うと、あたしの頬は自然に緩んだ。


「よく分かったわね」

「そりゃあ、リディだからな」


 ああ、ジャンにとって、あたしはただのリディなんだ。ドレスを着て路地裏を訪ねた時も、部屋着姿で泣いてた時も。どんな格好をしていても、あたしを見間違えたりしない。見た目に惑わされたりしないで、本当のあたしを見てくれるんだ。

 頬が赤くなったのが分かって、気恥ずかしくなる。暗いから見えていないと良いんだけど。


「今日はどこへ行こうか。行きたいところはある?」

「そうね――夜の河が見たいわ。岸辺の灯りと星明かりが水面に映ってとても綺麗なんですって」

「そうか。楽しみだな」


 あたしに手を差し出すジャンの動きはまだぎこちない。女の子と歩く時には手を取るものなのよって教えたのはついこの間のことだった。でも、その拙い動きからも彼にはあたししかいないと感じられて、嬉しくなってしまう。あたしはダンスはそんなに得意じゃないけれど、今ならエトワールみたいに軽々と宙高く飛べるんじゃないかしら。自分の身体が羽根になったみたい。そよ風が吹いただけで舞い上がってしまいそう。


「ええ、とても」


 浮き立つ気持ちに操られるように、あたしはためらわずにジャンの手を取った。舞台のこと、母さんのこと、アランのこと。考えることは沢山あるのにどうしたら良いかなんて分からない。一人で部屋にいると全ての道がふさがってしまっているようにさえ思う。

 でも、お互いの手を握っていると束の間でも不安は消える。ジャンと一緒ならどこまででも行ける気がする。


 だから、ジャンの手の温かさがあたしにはひたすら愛おしかった。




 あの晩、ジャンが訪ねてきてお互いの想いを伝えてから、あたしたちは度々夜に会うようになった。昼間だとジャンには仕事が、あたしには公演や稽古があるから。暗くなってからも夜公演がある日は会えないし、アランに食事に誘われたら断れないから、満足にはほど遠いのだけど。ジャンの方だって、帰りが遅れればお父さんが不審に思うでしょうし。


 街を出歩くような服だって持っていなかったから、新入りの子に頼んで絹の新しいドレスとその子の普段着を交換してもらった。街に降りてリディアーヌの評判を自分の耳で聞きたいの、って。もっともらしい嘘を吐いて。心配されると面倒だから、他の人には内緒にして欲しいと頼み込んで。


 歌姫の気まぐれも我が儘もいつものことだから、その子は流行りのドレスを手に入れる機会に喜んで飛びついてくれた。言ったのがただの口実だなんて考えもしないで。……だから、あたしがジャンと会っていることは誰にも知られていないはずだ。

 お互いの都合をすり合わせて、隙間のような時間に会うだけの日々。それだってアランのことを考えると後ろめたさは拭えない。アランは愛は取引ではないと言ったけれど、あたしから見れば彼との関係は取引に過ぎない。それも、あたしばかりに負債がある。


 どう頑張っても後ろめたさを感じることしかできないのだから、やっぱりあたしとアランの間にあるのは愛なんかではないんだわ。

 愛する人に愛されたいのが自然な感情なら、好きでない人を愛せないのも自然なことのはずなのに。どうしたらアランにそれを分かってもらえるだろう。そして、分かってもらったとして――どうしたら今までにもらったモノや気持ちを返せるだろう。


「どうした? 疲れてるのか?」


 歩みの遅いあたしに、ジャンが振り返って気遣うように尋ねた。いけない、さっきのことを思い出してうつむきがちになってしまってた。アランのあの鋭い目が、まだあたしに突き刺さっているみたいに、ずっと胸が痛かったから。


「少しね。でも大丈夫」


 ジャンに笑顔で答えると、あたしは数歩小走りして彼に追いついた。きっとジャンにはバレてしまっているだろうけど。表面だけの、作った笑みに過ぎないと。ジャンはあたしをとてもよく知っているから。

 あたしのこれからはジャンのこれからでもある。だから、あとでちゃんと話さなければいけないけれど。


 でも、今のこの時だけは何もない普通の恋人たちのように手をつないで笑っていたかった。




 大事なことは何も言わないまま、肩を寄せ合って他愛のないお喋りだけをして。人波の中を泳ぐように掻き分けて。あたしとジャンはとある大きな橋に辿り着いた。欄干は石の彫刻に飾られて、恋人たちが夜の涼風を楽しむのに最適の場所なんだって。コーラスガールたちの噂に上がっていた場所を、あたしが訪ねることができるなんて思ってもみなかった。それも、ジャンと――好きな人と、一緒に。


 花の都とも光の都とも呼ばれるこの街は、この河から始まったという。いつかアランが教えてくれた。


 ゆったりと蛇行しながら街の中心を流れ、人々の生活を支える母なる河。両岸には大聖堂や王家の離宮なんかの歴史ある建物や貴族の邸宅――アランの屋敷もこの中にあるのかも――が並ぶ。少し下れば、目が眩むようなきらきらしい品々を並べた高級店が軒を連ねるし、あたしが馴染んだ劇場もある。昼もきっと壮観なんだろうけど、夜は岸辺を彩る灯りがまた美しい。静かな水面は黒い鏡のようで、地上の灯と天上の星を映して水中にも街があるようにさえ見せている。


「綺麗ね……」

「ああ」


 星明かりの下、橋の欄干から川面を望みながら、あたしとジャンは道中買ったワインで乾杯をした。お酒は喉に良くないけれど、ジャンとの特別な時間を祝いたかった。それに、お酒よりも彼といることそれ自体に、あたしはもう酔ってしまっているだろう。

 周りには似たような恋人たちが身を寄せ合っている。あたしが、歌姫のリディアーヌとも呼ばれているこのあたしが、その辺りに幾らでもいる恋人たちの中に紛れられているということは、とても不思議で、同時にとても素敵なことに思えた。


「寒くないか?」


 水の上を渡る風が冷たいからだろう、ジャンが肩を抱き寄せてくれた。


「ありがとう」


 滅多に飲まないワインは身体を火照らせてくれたし、それに何よりジャンが隣にいるから寒いなんてことはなかった。でもあたしは大人しくジャンの肩に頭を預けた。お腹の仲が熱く、燃えるような感覚さえけれど、ジャンの温もりから感じるのは暑苦しさなんかではなくて、守られているという安心感だけだった。

 今ならやっと口に出せる。ジャンと話さなければいけないことを。ジャンがすぐ傍にいて、守ってもらえている今なら。


「――今日も言えなかったわ。結婚なんてしない、って」

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