いつもと違う水曜日 アラン②

「お疲れ様。とても、良かったよ」


 通し稽古が終わって楽屋まで迎えに行くと、リディは嬉しそうに微笑んだ。


「そう? ありがとう」


 稽古の後、公演の後。何度となく交わした会話だった。しかし、リディの表情が以前よりも硬いのは気のせいだろうか。素晴らしい歌と演技の余韻も、一瞬で醒めてしまった、その瞬間を捉えてしまったかのような。


 少なくとも歌姫の支援者、崇拝者としては認めてもらっていたと思うのだが、それすら怪しくなってきているのではないだろうか、とか。そんな邪推さえしてしまう。

 最近のリディは、私に会いたくないようだ。


 馬車に乗る際に――リディの住まいは劇場にほど近いとはいえ、歌姫を歩かせる訳にはいかない――手を差し出す時も、触れるのはほんの指先だけ。体重を預けて頼られることは決してない。


「今日はお母さんに会えなかったんだろう? 寂しいだろうね」


 短い間とはいえ、微妙なよそよそしさが漂っているとはいえ、リディと二人きりになれるのは貴重な時間だった。無駄にすまいと話しかけると、窓の外を眺めていたリディは私に視線を向けてくれた。


「ええ、でも会ってくれるようになったのはつい最近だし。ローズがちゃんと看てくれてるから心配はいらないのよ」


 ローズ「と」ジャンではないのだろうか。問いただしたい衝動を呑み込んで、私は穏やかに会話を繋いだ。


「お母さんと一緒に暮らせば良い。もっと大きな部屋を借りて、世話をする者を雇えば――」

「母さんが嫌がるわよ。ずっと暮らした家が良いに決まってるわ。それに今から引っ越すなんて面倒臭い」

「それでは私の屋敷に引き取ろうか。君もすぐに越すのだからちょうど良いだろう?」


 するとリディが驚いたように目を見開いた。私と共に暮らすことになるのだと、想像していなかったというのだろうか。それとも母親を人質に取られるとでも考えたのだろうか。


「そんな……悪いわ……」

「私たちは結婚するんだよ」


 念を押すつもりで言うと、リディは目を伏せて数秒唇を噛んで、考える素振りを見せた。


 馬車の振動を感じ、リディの睫毛が彼女の頬に影を落とすのを眺めながら、私はこの沈黙にはどういう意味があるのだろうかと考える。

 私との結婚に乗り気でないのは分かっているが、今更嫌だと言い出すだろうか。そうしたら私はリディに何を言ってしまうだろう。何をしてしまうだろう。

 少なくとも、決して激昂するようなことはしてはならない。そう自分に言い聞かせて、私は膝の上で手を組んで、待った。


「アラン」


 やがて、リディは思い切ったように真剣な眼差しで口を開いた。


「世間の人が歌姫をどう思うかは知っているでしょう。パトロンに――好きにさせて役を掴む、娼婦みたいなものだって」

「君はそういう類の女ではないだろう」


 私がリディの肉体を求めたことなど一度たりともない。そのことを思い出して欲しくて指摘したのだが、リディは頑なに首を振った。


「似たようなものよ。いいえ、もっと悪いかも。あたしはもらうばっかりで何も返せていないじゃない。これ以上してもらう訳にはいかないわ」

「私は見返りをもとめているのではない。君を愛しているというだけだ」


 リディが反論する勇気をかき集めるのに、また何秒か掛かった。


 目を伏せてはまた顔を上げて私の表情を窺い、早くアパルトマンに着かないかとでも思っているのか、視線を窓の外にさまよわせる。唇を舐める舌先も、頼りになるものを探すかのようにスカートの襞をなぞる手も。私には全て愛しいリディの姿だから、待つのは何も苦ではなかったが。


「でも、あたしは気持ちを返すことができないのよ」


 とうとうリディの唇が動いた。身を守るように胸の前で両手を握り締め、私からできるだけ離れようとするかのように壁際にぴったりとくっついて。私が襲いかかるとでも怖がっているのだろうか? おかしなことだ、リディの方こそあらゆる言葉とあらゆる仕草で私の心を抉っているのに。彼女よりよほど、私の方が痛みを感じてているだろうに。とてもおかしい――思わず笑い出してしまうほどに。


「リディ、君は自分を貶める振りで私を貶めているのに気付かないのか?」


 私が声を立てて笑ったからだろう、リディはこぼれ落ちそうなほど目を大きく見開いた。


「君の言葉は、私が娼婦を買う男の同類だと言っているも同然じゃないか。いや、僕こそもっと悪いのかな。金で愛を買おうというのは、単に身体を求めるよりもずっと傲慢で質が悪いに違いないからね」

「あたし、そんなつもりじゃ……」

「いいや、君は私を見下している」


 私は断じると、ぐいと身を乗り出してリディに顔を近づけた。もちろんこれ以上怖がらせないため、手は組んだままだ。爪が、手の甲に刺さる。自らを制するのに、それほどの力が必要だった。リディの髪に頬に細い手に、触れたくてたまらないとは思う。けれど、無理強いをしてはならない。それに、強ばった身体に拒絶されたら傷つくのは私の方だ。


「金も権力も汚いものだと思っているのだろう。絹や宝石や、舞台の主役。そのための伝手やら根回しやら。私が君に捧げたものは、あり余る財産のほんの一部、なくなっても惜しくないものだと思っているのだろう。そんな片手間に君の心を得ようとしていると、そんな安い女に見られているのかと、さぞや不本意に思っているのだろうね?」

「違うわ、アラン……そんなこと……」


 満面の笑顔を浮かべているはずなのに、リディは震えるように首を振りながら後ずさろうと身をよじった。狭い車内に逃げ場などないのに。


「君は私を誤解しているよ。さっきも言ったが、私は見返りを求めてしているのではないのだから。ジャンにはお母さんの面倒を見させているじゃないか。どうして私ではいけないんだ?」


 思わずジャンの名前がこぼれ落ちた。あんな男のこと、私の口からであってもリディに聞かせたくはなかったのに。あの男の名前を聞いて、リディの瞳が一層揺れるのを、間近に見ることになってしまったじゃないか。


「ジャンは……好きでやってくれてるもの。見返りなんて」


 こんなに怯えているのにジャンのことはかばうのか。まるで私が悪者じゃないか!


「私だってそうだ!」


 私はまた哄笑してリディを竦ませた。こんなことをしても何にもならないのは分かっているのに。怯えた顔なんか見たくないのに。なのに、心の中の嵐をぶちまけずにはいられなかった。ここ最近の私の鬱屈が、やっと言葉という形を取ったかのようだ。私は何が不満だったのか、自分でもようやく分かった気がしていた。


「リディ、本当なんだ、私は気持ちを伝えたいだけ、心からの愛を示したいだけだ。

 確かに君の愛は何より欲しいが、愛する人に愛されたいと願うのは人として当然のことだろう? 愛は取引でも商売でもない。もっと純粋な、心からのものじゃないのか?

 ジャンがすることは無償の愛で、私のは卑しい打算なのか? 宝石も主役も君に相応しいもので、私にはそれを手に入れる術があった、ただそれだけのことなのに。好きな人に自分のできることをしてあげたいと思ってはいけないのか?全てをなげうたなければ君には認めてもらえないのだろうか。

 ジャンが君に贈れるのは何だ? 素朴な銀の指輪、街角で買った小さな花束? 何てみすぼらしい。だが、彼から贈られたものならば君は喜んで受け取るに違いない! なぜなら君にとってはそれこそが愛だからだ!」


 叫ぶのと同時に馬車が止まった。リディのアパルトマンに着いたのだ。


 リディの表情が明るくなり、ついで私を見てまた曇る。輝く月が雲と風とに翻弄されるのを見るようだった。何を考えて怯えているのだろう。私が馬車から下ろさせないとか? 部屋に上がり込んで何かするとか? バカバカしくも悲しい妄想だ。私がリディを傷つけるはずなどないというのに。


 激情を吐きだしたからか、リディの怯えた目に覚めさせられたからか。私は幾分落ち着いた声を出すことができた。


「――着いたようだね。降りなさい、疲れただろうから今日はゆっくり休むと良い」

「アラン」


 扉を開けて外の空気に触れると、リディはほっとしたように表情を緩めた。だが、それでも私が差し出した手を取るのには随分と時間が掛かった。

 階段をのぼり、リディの部屋の前までたどり着いた。いつもなら別れのキスで挨拶をするところだ。


 リディの頬に手を添え、顔を上向かせる。いつものように。触れた瞬間にリディがぴくりと震えるのも、身体に力が入るのも、いつものことのはずだった。それに気づかない振りで口づけるのが私の毎度の儀式だった。だが、今日に限っては鈍感を貫くのがなぜか耐え難かった。


「キスはしないよ。嫌そうだからね」

「――え?」


 静かに告げると、覚悟を決めたように――リディにとってこれは苦行に過ぎないのだ! ――目を閉じて待っていたリディが、頼りなくため息のような声を漏らした。その目が開いて何か見たくない感情が見える前に、私は身を翻してその場を去った。


 彼女に愛してもらえないなら、無理に唇だけを奪っても何にもならない。

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