明暗
いつもと違う水曜日 アラン①
リディは
本番さながらの舞台装置を前に、衣装に見立てた――デザイナーがまだ最終案を固めていないので――白い布を身体に巻き付けて歌うリディは、まさしく異国の王女だった。先日の舞台と同じく情感のこもった、しかし先日とは打って変わって確かな音程の歌声が、灼熱の地の青い空と大地の赤を聞く者の脳裏に描き出す。
ペンキで描いたべったりとした背景や、作り物のナツメヤシの木など、リディの歌声の前には出来の悪い玩具にさえ見えた。
通し稽古の取材を許された記者たちが、つまらなそうな顔で手帳に何やら綴っている。リディが音を外した公演の翌日、劇場の質も落ちたものだと嬉しそうに書き立てていた連中だ。今日の出来を聞いて、記事の辻褄が合わなくなると内心頭を抱えているのかもしれない。初日の客の評判とあまりにずれた記事を書こうものなら、立場がなくなるのは彼らの方だ。
コーラスガールの列にも目を向ける。やはり衣装が間に合っていないので、異国の風景を背に、動きやすい練習着の少女たちがたむろしている様はいささか不思議な絵面ではあった。
動きを確認し合ったり上下左右を見渡して立ち位置の目印を探したりしている一群の中に、先日リディに食ってかかった娘もいた。客席からはろくに目も向けられないであろう端の端に並んでいるが、少なくとも不満を顔に出してはいない。それどころかリディの演技を熱心に見つめているようだった。あの娘が真面目だというリディの言葉は、かばいたい一心からの嘘ではないということだろうか。
それほどリディの歌は素晴らしいのだ。
私の目だけに見える幻ではなく、彼女を品定めしようとする者、彼女を――不当にも! ――蔑む者にさえ明らかなほどに。リディを愛し崇拝する者としては、喜ぶべきことなのだろうか? 自身の目と耳の確かさを誇り、満足すべきなのだろうか?
違う!
私を満たしているのは不審と苛立ちだけだった。リディの声に聞き惚れ、凛とした立ち姿から目を離すことができない一方で、不快な波が嵐のように私のうちで荒れ狂う。
リディは見事に不調から脱した。蝶が孵化するには蛹になることが必要なように、一時の不安定さは必然だったのかと思うほど、生まれ変わったかのように一段と深みの増した歌と演技を見せている。
だがなぜだ? なぜ彼女は生まれ変わった? いや、問いを間違えている。誰がリディを変身させた?
少なくとも私ではない。私に対するリディの態度は変わらない。私の方も、リディの心を動かす術を見つけることができていない。以前と同じ、不本意ながら金で彼女の負い目を買っている状況だ。リディの目には感謝と控えめな好意はあっても、そこには常に戸惑いが同居している。どうしてこんなに良くしてもらえるのだろう、このお芝居はいつまで続くのだろう、と。熱い愛を込めた眼差しが私に注がれることは、決してないのだ。
君はその目を誰に向けているんだ?
舞台の正面に陣取った私は、リディの視線を一人占めしている。恋人を想う王女の熱く切なげな眼差し。心動かされ、抱きしめたいと思わずにはいられないほど。しかし、彼女の視線の先にいるというだけで喜ぶつもりには決してなれない。彼女の目が実際に見ているのは私ではないからだ。まして彼女が演じる王女の想い人、あるいはそれを演じる役者でもない。
君はまだジャンを見ているのか? だが、何があって君はその歌声を手に入れた? ジャンと会う機会などろくにないはずではなかったか?
「リディアーヌは化けましたな、声も見た目も」
昏い嵐のような想いに揺さぶられていたので、私は声を掛けてきた支配人にまともに返事を返すことができなかった。愛想の良い受け答えではなく、不審な者を見る目つきを向けてしまったが、支配人は気にした様子もなく機嫌よく続けた。
「さすが、閣下はお目が高かった。あんな貧相な子供が歌姫になるなど、私どもの誰も、見抜くことがでいませんでした」
「そうだな……」
私も、思わなかった。こんなにも彼女に捕らわれるとは。昼も夜も、夢の中でさえ、どうすれば彼女の心を手に入れることができるか、あの切ない眼差しを私だけに向けてもらえるか考えている。
「初日には劇場中がリディアーヌに夢中になるに違いない。閣下には数多の恋敵ができることでしょう」
「――何?」
私はリディばかりを見ていたので、支配人の言葉はろくに耳に届いていなかった。ただ、恋敵、という単語だけを聞きとがめて、初めて支配人と真正面に顔を向けた。
どれほど険しい顔つきになってしまっていたのだろう、支配人の微笑みが鼻白むように引きつって、しかし次の瞬間にはまた慇懃なにこやかさを浮かべてへつらってくる。
「……もちろん、閣下がプロポーズされる場面を見れば、誰もが祝福する方に回るでしょうが」
「そうだろう」
私は支配人から目を逸らすと舞台の上のリディを再び見つめた。決して私に向けられるのではない微笑みを求めて。
よほど嫉妬深い狭量な男と思われたのだろうか。あるいは恋に溺れているとでも思われたのだろうか。支配人は一歩退くとそれ以上は話しかけてこなかった。
私は確かに嫉妬している。しかし、それは有象無象の観客などにではない。ただ一人、リディが視線も心も捧げる男に、だ。
「初日が待ち遠しいな」
呟いたのは誰にともなくだったが、支配人は勢い込んで頷いた。
「まったく。チケットは既に完売です。それでも、ひと目でもリディアーヌを見ようと劇場を群衆が囲むでしょう」
適当な相槌を打ちながら、私はずっとリディのことを考えていた。
初日が終わればリディは私のものになる。だが、それは形だけだ。私がリディの心を手に入れる日はいったいいつになるのだろうか
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