歌姫の楽屋にて②
「……は?」
言われてる通りに答えれば、丸く収まるし、アランが――子爵様があたしを後援しているという仄めかすことにもなる。初日の後のプロポーズが、世間様に受け入れられやすくもなるはず。そう、分かってはいても、あたしはなぜかそう答えるのが嫌だった。そんなことはできないと、思ってしまった。この前の晩、ジャンに触れてもらった髪や肌や唇が熱くて。綺麗ごとで済ませるのは、彼への裏切りのように思えてしまって。
だから、なのかしら。あたしの口は勝手に動いて捲し立てていた。
「確かにあたしは王女じゃないわ。でも、それならオルタンスやアレクサンドラも一緒でしょ。王族の気品がなきゃ王女役ができないなら、本物の王女様に舞台に上がっていただくしかなくなるじゃない?」
唇に弧を描かせて笑って見せると、既に塗りたくった白粉(ドーラン)が少し引き攣るのが感じられた。嫌だわ、後でちゃんと直さなきゃ。でも、化粧がみっともなく撚(よ)れるのが分かっていても、なぜか笑いたくなる衝動を抑えることはできなかった。だって、この記者はとても簡単なことも分かっていないみたいなんだもの。
「王女様に……? いや、それは挑戦的な発想ですね……」
さっきまでの不躾さはどこへやら、記者がいかにも常識人ぶって眉を顰めるのもおかしくて、あたしはまた声を立てて笑う。フルートのトリルみたいな軽やかな声で。この国に舞台に上がれるようなお歳の王女様って、そういえばいらっしゃったかしら。小さい方でもおばあちゃまでも、とんでもない不敬ってやつになっちゃうのかしら。でも、そもそもはこいつが言い出したことよ。王族じゃない歌姫が不満って、裏を返せばそういうことになっちゃうじゃない。
「それにね、お客が見たいのは王女じゃないでしょ? そりゃ、豪華な衣装も装置も売りではあるんでしょうけど。何よりも大事なのは――どれだけ心を動かされるか、身体が芯から震えて熱くなるような思いを味わえるか、そういうことじゃないかしら」
「歌で観客を感動させてみせる、と?」
気を取り直したように、記者の目がぎらりと光った気がした。下町出の小娘が、調子に乗っているとでも思って食いついたのね。別にそれでも良いけれど。あたしだってちょっと頭に来てるもの。下町のことを、何か隠したい汚点みたいに言われるのはもううんざり。確かに、あたしだって綺麗なものが着たいとか美味しいものが食べたいとかは思うけど。昔の暮らしに戻りたいとは思わないけど。でも、他の人に言われるのは全く別のこと。
――アランだって。あたしにしてくれたこと、かけてくれたお金と手間暇には感謝してるけど、あの人はあたしの救世主って訳じゃない。あたしは、そんなに哀れまれるような存在じゃない。あたしは、リディアーヌになって初めて生まれたんじゃない。リディだって、あたしなんだ。
「ええ!」
そうよ。ジャンはあたしを抱きしめてくれたもの。心臓が燃えるような感覚に駆り立てられて、あたしは高らかに宣言していた。
「確かにあたしには教養ってやつはないわ。でも、代わりに色んなものを見てきたの。偉い方たちが見ない振りをしている下町で。苦しいことや悲しいことならあっちの方が多いんだもの。あたしだからこそ歌えるもの、演じられるものがあるはずよ」
「飢えや貧しさは舞台の華やかさとは無縁では?」
「でも、みんな同じ人間よ。愛するのも恋するのも、同じ」
別に、深く考えて言ったことじゃなかった。でも、あたしの口から勝手に零れた言葉が、あたしの胸にかかる雲を晴らしていったような気がした。
ジャンが来てくれたあの夜、バルコニーで歌っていた時の気分を思い出した。故郷に帰れない王女と、下町を懐かしむあたしは似ていると思ったんじゃなかったかしら。それに、あたしを抱きしめたジャンの腕、あたしに口づけたジャンの唇といったら! あんな風に身体中の血が熱くなって燃えてしまうんじゃないかと思ったことはなかった。
愛のことを歌い、恋する詩を舌に乗せたことは数え切れないほどあるけれど、あたしは愛のことも恋のこともずっと知らなかった。アランに愛していると言われてキスをされても分からなかった。愛することの喜び、でも堂々と結ばれることはできない悲しさ――それを教えてくれたのは、ほかならぬジャンだ。劇場に出入りする人なら、誰も見向きもしないような彼が、あたしにとってはたった一人の大切な人。
「とにかく――あたしは王女役を演じ切って見せるわ。記事には初日が楽しみだとでも書きなさいな」
ああ、この気持ちさえ分かれば、もっと上手く歌えるわ。いいえ、この気持ちを歌にしなきゃ。皆に聞かせてあげなくちゃ。まずはこの後の通し稽古ね。不安、苛立ち、軽蔑――最近のあたしを誰がどう思っていようと、絶対に驚かせてやるんだから。
どの詞をどんな風に発音しよう。どこで盛り上げて、どこで声を弱めよう、高めよう、震わせよう。囁くような歌い方も入れて、
「さあ、もう十分でしょう。帰ってちょうだい」
そんな風に歌とお芝居のことで頭がいっぱいになったから、あたしは失礼な記者を有無を言わせぬ微笑みで追い出した。
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