幕間
歌姫の楽屋にて①
歌姫の広い楽屋には、いつも贈り物が溢れている。下町の子供たち――特に女の子たちが見たら絶対に大喜びするであろう、夢の世界だ。
鏡台には過去の有名な作品を思わせる細やかな意匠が施されて、まるでお姫様の部屋みたい。草花や空想の中の鳥や動物たち、異国風の模様が物語を織りなして。そんな細工に飾られた大きな鏡は、さらに本物の花や宝石で半分近くが見えなくなってしまっている。磨いた木や銀色の彫刻が生き生きと色づいて浮かび上がってきたかのような、造り物と本物が溶け合う様は、おとぎ話のようにも思えるだろう。
花も宝石も、劇場のファンやパトロンが歌姫にぜひ、と贈ってきたものだ。あまりにも量が多いから、新入りの子たちや下町に配ったりもして、それでも楽屋が狭くなってしまうんじゃないかって思うくらいの彩りと煌きと華やかさ。温室で育てた珍しい花に、流行りのお菓子、シフォンやレースを使った髪飾り、宝石でできた蝶やトンボやカゲロウのブローチ。
まだ舞台に上がることもできなかった新入りの頃は、歌姫の楽屋が羨ましくて仕方なかった。あまりに眩しくて、何もかもに溢れていて。荷物を届けるためとか、人を案内するためとか、少しでも入れる用事があると、できるだけ長く留まって中の様子を目に焼き付けようとしたものだった。あんな素敵な、綺麗な部屋を使いたい。あたしだけのお城を持ちたい。そんな気持ちも、あたしが劇場で頑張り続けることができた理由のひとつだったと思う。嫌な子や仲の悪い子とも一緒くたにされる大部屋は居心地が悪いったらなかったし。何がなくなったとか
でも、いざ自分だけの楽屋をもらってみると、ここだって別に楽園って訳じゃなかった。舞台の華やかさだって張りぼてなのに、まして楽屋はその裏側だ。だから、当たり前のことなのかもしれないけれど。
「新作への意気込みを教えてくださいよ、リディアーヌ」
あたしの
「色んな人にもう何度も話したわ」
「ええ、だから誰にも話していないようなことをお願いします」
約束もないのに押しかけて不躾なことを聞いてくるそいつを、あたしはきっと
「どうして貴方に言わなきゃいけないのかしら」
「大手が聞きづらいことを聞くのが我々の義務なので」
義務ですって! 誰に対しての義務なのかしら。公演に新作の稽古に忙しい歌姫を煩わせるなんて、マナー違反も良いところなのに。歌姫を気分良く歌わせておくことこそ、劇場の義務だしあたしの権利じゃないのかしら。
「――誰もしてないような質問をしてくれるんでしょうね?」
「もちろん」
今日は水曜日で、劇場は休演日ではあったけど、この後は例の新作の通し稽古が待っている。オーケストラも入れて、今までは脚本で見るだけだった役者や大道具の出入りも本番さながらにやってみる。実際やってみたら移動や着替えが間に合わないところも出てくるかもしれないし、初日の前に舞台装置に慣れておける、貴重な機会でもある。だから気を張り詰めていなきゃいけないのに、招かれざる客の相手をしなければいけないなんて!
追い出したいのは山々だけど、この記者は目ざとく楽屋にあたししかいない時を狙って来ていた。人を呼ぶにもこいつの横をすり抜けなきゃいけないし、声を上げて大ごとにするのも癪だった。みんな、忙しくしているはずだったし。だからあたしは、顎とつんと持ち上げて、歓迎していないのよ、って態度で示してやった。
「あら、そうなの? 何を聞かれるか楽しみだわ」
今日の通し稽古では、衣装はまだ間に合っていない。だから化粧も、必ずしも役に合わせなくても良いはずなんだけど、あたしは気分を盛り上げるために肌をオリーブ色に塗っているところだった。更に、色濃く強調した目に、真っ赤な唇。そんな迫力ある顔に間近で睨まれるのはきっと怖いだろうに、そいつは何も堪えていないかのようにへらへらと笑っている。
手帳を左手に、鉛筆を右手に。鋭く尖らせた鉛筆の先を舌でぺろりと舐めてから、その記者は厭な上目遣いで質問とやらを口にした。
「貴女は下町の出身で、新作の主役は王女役だ。気品とか威厳とかをどう出していくつもりですか? 国を背負う立場と恋に揺れる想い――そんな役どころを作り上げる自信のほどは? 他の歌姫たちを差し置いての抜擢に、どう答えるか……というか、答えられると思っていますか?」
ああ、そういうこと。あたしを怒らせて悪口を書き立てたいってことね。
闖入者の意図が分かって、あたしは小さく唇を噛んだ。通し稽古には、大手のところの記者はちゃんと呼んでるはずだもの。席をもらえなかったようなヤツがしそうなことだわ。誰も聞こうとしなかったような失礼なことを聞いて、あたしの口を滑らせようだなんて。
「本当に、そんなことを聞かれるのは初めてよ。驚いちゃった」
「でも、観客が知りたいことでもありますからねえ」
つまり、みんながあたしには王女役は相応しくないと思ってるって言いたいのね。さぞ痛いところを突いたと思ってるんだろう、にやにやと笑う記者を張り倒してやりたいという衝動と戦うのは結構大変なことだった。劇場と「リディアーヌ」の評判のためにもそんなことはしないけど。
「どうなんですか、リディアーヌ?」
きっとこいつも、最近のあたしの舞台の評判を聞いてるのね。主役の重圧で振るわない、って。必ずしも本当じゃないけれど、傍からはそう見えてしまうのは分かってる。お金を払ってくれる観客の期待に応えられる出来じゃないのは、実際いけないことだもの。だから、悔しいけどここで腹を立てちゃ駄目。そう、自分に言い聞かせて、どう答えるべきかを考える。
本当のところ、こういう時にどうやって答えれば良いかはちゃんと支配人やアランから教えられている。記者の質は選ぶけど、どこで何があるか分からないから、って。
アランが手伝ってくれてるから大丈夫よ、って言えば良いはずだった。本来ならあたしとは縁がないはずの、高貴な人たちとの社交界でのやり取りや、贅沢な食事や衣装、それを扱うお店。歴史の授業もしてもらってる。最初は台本を読むことにも苦労していたあたしには、アランが教えてくれる知識はこの上ない助けになってる。それは、事実だし感謝もしているんだけど。でも──
「下町には何もないと思ってるのね。それなら、間違いだと教えてあげるわ」
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