いつものような水曜日 ローズ②

 リディが帰った後、わたしはいつも通り大きい鍋で夕食を作り始めた。ジャンの家に分けるために。結局、塩漬け肉と豆の煮込みにすることにした。狭苦しい台所で汗をだらだらと流しながら鍋を見張るのは大変だけど、塩気と脂を吸って膨れた豆は極上の味になる。


 それに、オーブンで細やかな火加減を調整するのは、そうやって神経を使うのは、今のわたしにはできそうもなかった。


 どうしてジャンもリディもいつもと様子が違うんだろう。


 どんなに振り払おうとしても、その疑問が頭の中をぐるぐると回って出て行ってくれない。鍋をかき回す。スープに浮いた豆が渦に呑まれて浮き沈みする。それを見つめていると、わたしの頭の中にわたし自身が吸い込まれてしまいそうな気さえした。

 ジャンはリディが幸せになるから安心した。リディは結婚を意識して落ち着かない。それで説明がつくはずなのに、なぜかそれだけではない気がして考えるのを止められない。鍋の中に入らないように額に浮かんだ汗を拭うと、わたしはひっそりとため息を吐いた。


 ジャンは本当にリディを諦めたのかしら。リディは本当に幸せなのかしら。


 ……もしも違うというなら、どうなるのかしら。わたしはどうすれば良いのかしら。




 煮込みが出来上がったので、わたしは小鍋に移してジャンの家へ向かった。一人分には少し多いくらいの量を。帰りが遅いならジャンもお腹が空いているかもしれないし、明日の朝食のおかずが少し増えても問題ないだろう。ジャンには、温かいものを食べてもらいたいもの。出来合いの、買ってきた総菜なんかじゃなくて。


「いつもありがとう、ローズ。今日もとても美味そうだ!」

「良いのよおじさん、ご近所だもの」


 鍋を覗いたおじさんは、目尻を下げて大げさなくらいに喜んで見せた。わたしが苦笑してしまうほどに。本当に、大したことではないんだから。自分の家の分のついでに、ちょっと多めに作るだけ。お金だってリディがくれているんだから。


「本当に、ローズがいなかったらうちはどうなっていたか。ジャンの奴もローズの料理を逃してまでどこをほっつき歩いているんだ」

「仕事って言ってたわ。仕方ないわよ」


 それでも褒めてもらえるのがくすぐったくて、わたしは愚痴るような調子のおじさんを窘めた。ご近所にお裾分けするのもお手伝いも、当たり前のことではあるけど、やっぱりお礼を言われるのは嬉しいものだ。真面目にしていれば、きっと誰かが見ていてくれるのよ。そう、信じることができるから。


「また散らかってない? 上がって片付けちゃおうかな」

「いや、悪いよ――」

「良いから。おじさんは食べててよ」


 心が弾むまま、半ば強引にジャンの家に上がり込む。子供の頃から何度となく遊びに来た家だから、勝手はよく分かってる。ちょっと片付けや掃除をするのも、やっぱりよくあることだった。


 大丈夫、模様替えをしてしまうなんてことはしない。塵や埃をはらって出しっぱなしのものをしまうくらいだ。わたしはこの家の人間じゃない。ほんの少しお節介をするだけよ。


「さて、と」


 見知った部屋を見渡すと、男二人の暮らしだからか、どこか雑然とした雰囲気があった。もの自体は少ないけれど、隅の方や家具の隙間には埃が溜まってしまってる。おじさんたちは、きっと掃除をざっと済ませてしまうんだろう。


 わたしの家の仕事も残ってるから、本当に少しだけ、どうしても気になるところだけ綺麗にしよう。掃除道具の場所も知ってるわ。わたしが持ち込んだものだから。

 ひとつひとつの家事は手早く終わらせなくちゃ。おじさんが悪いと思ったりしない程度、それだけだもの。実際、片付けはすぐに終わった。


「次は……」


 軽く腰を叩いて呟きながら、わたしはこの後やるべきことを頭の中で並べてみる。まずはおじさんに挨拶をして。帰ってからは何をするんだったかしら。つい話し込んだりしないようにしないと。他所のおうちのことだけじゃなくて、我が家の仕事もまだまだ残ってるんだから。


 早く帰らなきゃ。そう、分かってはいたんだけど。


 わたしは戸棚の抽斗ひきだしを眺めた。なんとなく。ええ、特別な理由なんかない。わたしが触れて良いのは部屋の表面のものだけだ。抽斗の中まで見るなんて、いくらご近所でも幼馴染でもやってはいけない。大事なものが入っているに違いないんだから。


 今までなら、そんなこと考えもしなかった。でも、今日はジャンもリディもおかしかった。少なくとも、わたしにはそう見えた。だから――なのかしら。わたしもまたいつもと違う考えに捕らわれてしまう。ジャンの家の大事なものが入っているはずの抽斗。


 おじさんはまだ煮込みを食べてるみたい。隣の部屋から食器とカトラリーが触れ合う音が微かに聞こえる。じろじろ見られる方がやりづらいって分かってくれているから、わたしに気を遣ってくれているのね。お礼なら、口で何度も言うよりも力仕事を代わってくれたりする方が良いから。そうやってみんな助け合ってる。


 いいえ、それは今はどうでも良いこと。大事なのは、おじさんはわたしを見ていないってこと。今なら、気付かれずに済むかも。


 わたしは震える手で抽斗をそっと引いた。微かに木が擦れる音がしたけど、拍子抜けするほど抵抗もない。鍵がかかっていたら、諦めるしかなかったのに。

 掃除したばかりだというのに細かい塵が舞って、木と紙の古い匂いが鼻をくすぐる。抽斗の中に入っていたのは、何かの書類。どこかの鍵。おばさんの形見かもしれない装飾品。


 そんなものの間に、半分隠れる――隠す? ――ように、それはあった。わたしも一度は手にとったもの。間近に見たもの。忘れようもない。上品な紫色の封筒に、劇場の紋章。一点の曇りもなくぴしりとして綺麗な長方形。


「ああ――」


 わたしの喉が悲鳴のような泣き声のような音を立てた。


 ジャンはリディのチケットを返してはいなかったんだ。

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