いつものような水曜日 ローズ①

 いつもの水曜日の朝だった。他の曜日と同じ、他の水曜日と同じ朝。


 肩を寄せ合うように密集した建物の、屋根の間から覗く空の色は、青。ちぎった綿のような雲の白が、ほんのひとひら。


 日陰が多い路地裏で、暗いところはいつもじめじめとしているけれど、日向では雑草とはいえ花も咲いて、猫が寝そべっていたりする。そんな爽やかで穏やかな、いつもの初夏の朝だった。


「おはよう、ジャン。いってらっしゃい」

「ああ、おはよう」


 そしてやっぱりいつものように、ジャンは仕事に出かけていく。お決まりの挨拶をしながら、でも、わたしは何かおかしいわ、と思った。何かいつもと違う気がする。

 変なの、こんなに何でもない朝なのに。晴れやかで気持ち良くて、歌い出したって良いくらい。もちろん、私の歌なんて誰に聞かせられるものでもないんだけど。


 不思議な違和感があった。少しだけ、嫌な感じ。それに蓋をするように、わたしはジャンに微笑みかけた。


「今日もご飯を作っておくわ。何が良いかしら。鴨のローストとか……兎でも良いけど。それともまた牛肉にする?」


 晩ごはんを作ってあげるのも、献立を聞くのも、これまたよくあることだった。それでも違和感が拭えなくて、どうしてかしらと考えて、わたしはやっと気づいた。

 ジャンが、穏やかな表情をしている。いつもと違うのはそこだった。


 いつもの水曜日なら、ジャンはもっとむっつりとして俯き加減で仕事に向かうはず。水曜はリディが来る日だから。


 今日に限って違うのは――リディが結婚するからかしら。


 リディの婚約者だという子爵様はとても素敵な人だった。わたしやリディのとこのおばさんみたいな貧乏人にも優しく礼儀正しく接してくれたし、何よりリディとやましいことはしてないらしい。だからわたしもおばさんも安心したし、それはジャンも同じはずだ。リディが主演のチケットだって返しに行ったらしいし、想いを振り切ったということかしら。だから、こんな顔をしているの? あの日、数年ぶりに会ったジャンとリディは、とても熱い目で見つめ合っていたけれど。


 いいえ。あれは気のせいよ。


 わたしは心の中で首を振った。リディの結婚は喜ばしいことのはず。幼馴染として、リディの幸せを邪魔するなんてあり得ない。ジャンがリディをどう思っていたとしても、それはもう過去のことのはず。叶わない想いは諦めたはず。だからさっき思ったことがあっているはずよ。ジャンは、安心しただけなの。


 ……本当に?


「やっぱり魚の方が良いかしら。暑くなってきたけど煮込みも良いわね」


 心の声が囁くのを無視して、わたしはもう一度ジャンに尋ねた。いつもと変わらない朝なのだと、自分に言い聞かせるように。お芝居の台本をなぞるみたいに、頑なに。気にしすぎているだけだと、信じたいから。


「今日は、いらないよ」

「え」


 でも、ジャンの答えは台本通りでは――いつも通りでは、なかった。目を瞠ったわたしに、ジャンは微笑んだ。彼にしてはとても珍しい、晴れやかな顔で。


「遅くなると思うから。あ、余り物があるなら親父は喜ぶだろうけど」

「……仕事?」

「まあ、そんなとこ」

「ふうん」


 笑顔を曇らせてしまったわたしを他所に、ジャンはじゃあ、と片手を掲げてから去っていった。そんな軽やかな仕草も足取りも、まったくジャンらしくない。

 だから私の心はどういう訳か沈んでしまった。




 そしてしばらく後、昼近くになってから。リディはいつも通りに綺麗な格好で、お菓子や小物を山ほど携えてやって来た。


「新作は外国の話なの。だから本物の動物を舞台に乗せるのよ。あたし、ライオンをあんなに近くで見たのは初めてだった! 口がこんなに大きくて、欠伸をしたところなんか牙がずらっと並んでて、怖いったらなかったわ!」


 身振り手振りを交えてそんなことを語るリディに今日は男の子までも目を輝かせて群がっていた。でも、これはいつもと同じこと。だからわたしも微笑ましく見守ることができる。


 おばさんたちもいつものように遠巻きに見ていて、でもいつもよりはちょっと目線が柔らかい。……これは、ちゃんとした人と結婚するって分かったからね。だから不思議なことじゃない。全然、おかしくなんてないことよ。


 そうよ、確かにジャンも少し様子が違ったけれど、明るい顔をしてたんだから良いじゃない。リディの結婚を祝おうって気になっただけよ。何も不審に思うことなんてない。もしもまだ二人が好き合っているというなら、リディが他の人と結婚してしまうのにあんな穏やかな笑顔になるはずがないわ。


 なのにどうして何だか嫌な感じがするのかしら。


「ね、ローズ」

「……何、リディ?」


 ずっと違和感の原因を探っていたわたしは、だからリディの呼びかけに気づくのが遅れてしまった。わたしはきっとぽかんとした間抜けな顔をしていたんだろう。リディはどうしたのよ、と言って澄んだ声で軽やかに笑った。


「あたし、しばらく水曜日でもここには来られないかも」

「そう、なの」


 そう言われてもまだ、わたしはまだぼんやりとしていた。リディの言葉の意味を呑み込んだのは、何秒か経ってからだった。


「どうして?」


 またいつもと違うことだわ、と思う。リディがリディアーヌとして成功してから、水曜日に路地裏を訪ねなかったことなんてなかった。どうしてだろう。どうして変わったことが続くんだろう。ジャンの変化とリディの変化、何か関係があるのかしら。


「新作の初日が近いでしょ。休演日に大道具をみんな組んで通し稽古をするのよ。本番ではどこをどう動くかとか、どこからけるかとか、実際やってみないと分からないから。……だから、しばらく会えないわね」

「そうなの」


 リディの説明は筋が通っていた。もちろんわたしには劇場のことなんか分からないから、もっともらしく聞こえるというだけだったけど。でも、リディがわたしに嘘を吐くなんてあり得ないはずだった。


 だから、わたしは相槌を打つだけじゃなくて付け足した。


「寂しいわね」


 当分リディと会えないなんて。それに、初日の後であの子爵はリディアーヌにプロポーズするとか言ってたわ。結婚が正式に発表されたら、もっと会いにくくなるんじゃないかしら。リディは、貴族の奥様になるんだもの。


「そうね」


 リディも真面目な顔で頷いた。そして一転して薔薇が綻ぶような笑顔で子供たちを見渡した。


「お菓子はちゃんといつも通りに持ってこさせるから安心してね」


 子供たちの沸き立つような歓声を聞きながら、わたしはまたひとつリディの変化に気がついていた。


 子供たちを眺めるリディの目が、とても優しい。小さい子を愛おしむ、まるで母親のような顔。リディは話が上手で子供の相手が得意だけど、こんな穏やかな表情で目を細めるなんてことがあったかしら。今のリディの表情なら、教会に飾られている聖母様の絵に顔を当てはめても、ぴったり嵌ってしまうんじゃないかしら。

 でも、それだって別におかしなことじゃない。だってリディは結婚を控えてるんだもの。それはつまり近いうちに子供を持つかもしれないってことで、そう意識することで子供たちを見る目が変わってきたのかもしれない。


 そう、考えるのが自然なはずよ。


 自分にそう言い聞かせてもなぜだか気持ちが落ち着かなくて、わたしは確かめるようにリディに言った。


「結婚の準備もあるでしょう。忙しくて大変ね」


 あんたは結婚するのよね。あの子爵様と、ジャンとは違う男の人と。


「……そうね。そっちはあまり進んでないの。まだちゃんと発表もしてないし、アランに任せることになるでしょうし。ほら、しきたりとか色々あるんですって。あと、親戚づきあいとかも」

「ああ、貴族のお家だものね」


 リディの表情が陰って、わたしの心にも影を落とす。それでも彼女が語ったことはわたしを少しは安心させてくれた。しきたりとか親戚づきあいとか、わたしたちには無縁の、遠い世界の話だ。リディは遠い世界に行ってしまって、この辺りと関わることもなくなるはず。浮かない顔は、不安や寂しさの現れだろう。でも、あの子爵様ならきっとリディを幸せにしてくれる。この前劇場の前で噂話してた紳士たちとは違う。あの人は、リディを厭らしい目で見たりなんかしてなかった。だからきっと、大丈夫。


「リディの花嫁姿が見たいな。とても綺麗なドレスでしょうね」


 式にはわたしも招いてくれるのかしら、貧乏人なんか入れてくれないかしら。あの子爵様とリディとだったら、人形みたいに素敵な一対になるでしょうに。わたしも見てみたいわ。……できれば、ジャンと一緒に。


 夢見るような目になったわたしや女の子たちに、リディはくすりと笑う。さっき表情を曇らせたのは見間違いだったかと思うくらい、いたずらっぽく楽しそうに。


「あら、あたしは舞台で王妃にも女王にもなるのよ。派手さ豪華さで言ったら衣装の方が断然上よ」


 すると、バカにされたと思ったのか、小さい女の子の一人がムキになったように訴えた。


「でもやっぱり違うわ。花嫁のドレスは特別よ!」

「そうかしら?」


 リディが少しかがんでその子と目線を合わせる。歌姫の強い眼差しに見つめられても、その子は怯んだりなんかしなかった。むしろいっそ得意げに、腰に手をあてて胸を張る。


「好きな人のために着るのでしょう? どんな宝石も金銀の刺繍も、ただの純白には適わないのよ!」


 リディが小さい女の子に言い負かされたのを見るなんて、とても貴重な瞬間だったかもしれない。リディは真っ赤な唇を軽く開いて絶句して、さっきのわたしみたいな――多分――ぽかんとした表情をした。


 そして降参とでもいうように大げさに肩を竦めて苦笑した。


「好きな人のために。ええ、それはとても晴らしいことね」


 女の子たちが黄色い声で囃し立てるのを聞きながら、わたしはリディに声に出さずに問いかけた。


 あんたの好きな人って誰のことなの?


 わたしはその答えを知っている気がした。

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