衝動 ジャン②
「そんなことはない……」
部屋中を埋める豪華な家具や装飾が、急に色あせて見えてきた。どれほど高価なものだろうと、リディに安らぎを与えないならゴミと一緒だ。
「そうでしょ。分かってるわ」
さっきは抱きしめて欲しいと言っていたのに、リディは身体を捩って俺の腕から逃れようとした。自分が汚いものだと思っているかのように。でも、逃げるなんて許さない。しっかりと抱え直してから、リディの耳元で、囁く。
「俺がお前を避けていたのは、何もしてやれないと思ってたからだ」
「――え?」
リディが大きく目を瞠った。涙の雫がこぼれ落ちそうに目の淵に留まっている。拭ってやりたい気持ちと、宝石のように輝くそれをいつまでも見ていたい気持ちに挟まれて、俺は結局またリディを抱きしめることにした。
リディの顔はあまりに滑らかで、気軽に触ってはいけない気がした。その一方で、今のこいつに必要なのは人の温もりだろうという確信があった。言葉だけでは足りない。嫌われてる訳でも蔑まれている訳でもないと、言葉によってだけでなく示してやりたかった。
「だってそうだろう。俺には金も力もない。ましてあの頃は、おばさんを助けることはもちろん、リディの食い扶持まで稼ぐこともできなかった」
今度はリディの身体の柔らかさやしなやかさに怯むことはしない。ただ、俺の想いを伝えたかった。
「そんな俺がお前に口出ししてはいけないし、助けになってもやれないと思ってた。だから目と耳を塞いでお前から顔を背けてた。お前の気持ちなんて考えないで」
「ジャン、そんな――」
リディが何か言いかけて声を詰まらせた。俺を慰めようとしてくれるのか。こんなに弱々しく震えているくせに。
俺はリディの髪をそっと梳いた。絹糸なんて縁はないが、きっとこんな感触なのだろう。リディの髪も肌も、どこまでも滑らかで傷一つなく、良い香りを漂わせている。今まで避けていた理由がまた一つ分かった。女になったリディに会ったら、触れたくなるに決まってるから。思い切り強く抱きしめたくなるに決まっているからでもあった。
「でも、それは間違っていたんだな。ちゃんとお前と話していれば、お前が傷ついているのを知れたはずなのに。――すまなかった」
「良いのよ、ジャン。良いの」
ああ、なんでリディはまた涙声になっているんだ。俺が泣かせてしまっているのか? まだ信じてもらえていないのだろうか。
「ずっと、好きだった。結婚するって聞いて、嫌だと思ってしまった」
リディが息を呑む音が聞こえ、俺の腕の中で身体を竦ませるのが分かった。言ってしまった、と思う。後悔すると同時に、妙な安堵も感じた。長い間胸を塞いでいた想いの正体が、不意に明らかになったからだ。そして同時に、俺を潰してしまいそうだった思慕を、やっとこいつに伝えることができた。
こんな時になって、もう遅いけど。こいつには迷惑でしかないだろうけど。
「ジャン……」
「――悪い。そんなつもりじゃなかった」
自分自身を引き裂くような辛さを覚えながらもリディを離そうとする――が、細い腕に阻まれた。俺の力なら容易く引き剥がせるか弱さのはずが、なぜかそうできそうにない。まるで蜘蛛の糸に捕らわれたようだった。蝶のように綺麗な癖に、リディは俺を絡め取る蜘蛛でもあった。
「離さないで。……このままでいたい」
必死な瞳が俺を見上げて訴えている。あまりにも都合の良い言葉は、本当に俺に向けられたものなのか。本当にリディの声なのか。リディのことを考えすぎて、夢でも見ているのではないだろうか。
戸惑う間に、化粧を落としているのだろうに紅い唇が動くのに魅入られた。
「あたしも、あんたが好きだったの。もし何もなかったら、あたしが今でも路地裏にいたら、きっと――」
きっと、どうだったというのだろう。最後まで聞くことができなかった。紅い唇が美味そうだと思って、つい――本当に、つい――キスで塞いでしまったからだ。
「ん……」
漏れた吐息はどちらのものだったか。どこまでが俺でどこまでがリディか分からない。それに、とても柔らかくて熱い。
言葉だけでは足りなかった。抱きしめてもまだ遠かった。このキスを通して初めて、お互いの心を繋げられたような気がした。
どちらからともなく唇を離すと、とんでもないことをしてしまったと気付いた。さっきまで熱く燃えるようだった血が、一気に冷えて青ざめる。
「このことは――」
忘れよう。なかったことにしよう。そんな言葉は出てこなかった。そうすべきだと理性は囁いているのに、感情が絶対に嫌だと叫んでいた。
「やめて!」
リディも激しく首を振った。俺が何を言おうとしているか悟ってなお、それを聞きたくないのだろう。
「でも、お前にはあの子爵がいる」
「アランなんて関係ないわ」
分別ぶって言い聞かせようとするが、我ながら全く気持ちが入っていなかった。取り繕おうとしているだけだと、リディにも分かってしまうのだろう。心にもないことは言うなと、噛み付くようなキスで叱られた。
「ひどい女だと思うわ。でもこんな気持ちを知ったら、こんなキスを知ったらあの人と結婚なんてできない。でもそれだと母さんが……!」
ああ、リディが困っている。俺のせいで揺れている。あの子爵とおばさんと、そしてこの俺と。どちらを選べば良いかで悩んでしまった。また泣き出しそうに瞳が潤んできてしまった。
「俺が、助けてやる」
支えてやらなければ、という愛しさと、リディにとってそれだけ大事な存在になれた、という誇らしさ。二つの思いに駆られて、俺はそう口走っていた。
「お前を泣かせるのが良い結婚なはずがない。わざわざ不幸にならなくても良いんだ。あの子爵に縋らなくても。俺が、お前を助ける」
「でも、そんなこと……」
「できる。考えよう。ずっと一緒にいられるように」
「できたら良いけど。無理よ……」
「やる前から諦めるな。止めても飛び出していったお前じゃないか。歌姫になれるはずなんてないと、誰が言っても聞かなかっただろう? それが今じゃどうだ!?」
目を伏せて首を振ろうとしたリディは、まるでらしくなかった。悲しげで弱気な表情を見ているだけで胸が痛くなって、、俺はリディの肩を掴んで揺さぶった。こいつは生意気で強気なのが似合うんだ。涙で潤んだ目なんて――たとえ息を呑むほど綺麗でも――見たくない。
「そうね……あたしはやったわね……」
身ひとつ、声ひとつで成り上がった記憶を蘇らせてくれたのだろう、リディの瞳にわずかながら輝きが灯った。きっと楽しいことだけではなかっただろうけど、自信は取り戻してくれたようだった。柔らかさを確かめたばかりの唇が微笑みに綻んで、リディの身体からも力が緩んだ。
「ああ、まして俺もいるんだから。だから、今度も――」
「うん……!」
リディを再び腕の中に感じて、俺はもう引き返せないと思った。でも、この温もりを、この柔らかさ、愛しさを、決して手放せないとも思った。金のこと、劇場のこと、あの子爵のこと――そんなこと、リディを諦める理由になんかなるもんか。
だから俺は、リディと一緒にいるために何でもしようと心に決めた。
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