衝動 ジャン①
ぽろぽろと涙を流すリディを前に、俺は途方に暮れていた。リディ。そうだ、ここにいるのはリディだ。とうにいなくなってしまったと思っていたリディが、確かにここにいて泣いている。その訳が分からなくて、口も手足も言うことを聞いてくれないのだ。いや、まず頭が働いていないのだからどうしようもない。
どうしてだろう。「リディアーヌ」にチケットを返して、リディのことはきっぱり忘れようと思ってここに来たのに。この前不安そうに見えたのは気のせいで、きっと結婚を控えて幸せそうだろうと、そんな姿を見たら諦めもつくと思ったのに。
招かれた部屋は歌姫リディアーヌに似合いのものだった。くたびれた身なりで足を踏み入れるのが気後れするほど何もかもがきらきらして整っている。舞台の上の彼女と一緒だ。違う世界、俺がいるべきでない世界に入り込んでしまったかのようだ。
この部屋にあるものは全て、きっとあの子爵も含めたパトロンから贈られたものだろうと思うと、また変な苦しさを覚えた。リディの金で飲み食いしている時と同じ種類の痛みだった。――これだけの暮らしを手に入れるのに、リディはいったい何をしてきたのだろうか。
だけど、部屋の真ん中でしゃくり上げるリディは、輝く歌姫なんかじゃなくて、ただの怯える女の子だった。着ているのだって上等な絹のガウンなのに、違う世界の女だとは思えなかった。
なぜか思い出したのは、子供の時に見たお芝居のことだ。役者に手招きされたリディは、他の子たちを振り切るように舞台に上がってしまった。その大胆さに呆れながら、軽やかに踊るリディの笑顔には見蕩れずにいられなかった。俺は多分、あの時からリディに惹かれていた。客席で馬鹿みたいに口を開けて見ていることしかできなかったけど、一緒に並びたいと、心のどこかで思っていたんだろうと思う。
あの時、俺も舞台に飛び出すことができていたら、何か変わっていただろうか。リディは泣いたりしてなかっただろうか。アランが来た夜のことだって。俺は、あの場ではっきり聞いておくべきじゃなかったんだろうか。下町のみんながいる前で、リディの本音を吐き出させなきゃいけなかったんじゃないだろうか。
「リディ? 俺はどうしたら良い?」
でも、それはもう過ぎたことだ。ここにいるのも昔のままのリディじゃない。そうだったら話はもっと簡単だっただろうけど。迷わず手を差し伸べることができただろうけど。
よそ行きの服に泥を撥ねさせてしまった時。お気に入りのガラス細工を壊してしまった時。子供のリディが泣いた時、落ち着くまで抱きしめたり家まで手を繋いだりしたことは何度もあった。そして特別何も思わなかった。ただの友だち、ただの近所の仲間だったから。でも今は違う。俺は男になって、リディは女になってしまった。そうだ、それにこいつは結婚するんじゃなかったか。部屋に上げたのだけだって人聞きの悪いことだった。誰も他に見ていないとはいえ、そういうことはしてはいけない。そのはずだ。
でも、リディは濡れた目で俺を見上げて呟いた。
「……ぎゅってして。昔みたいに」
雷に打たれてもこんな風にはならないだろう。俺は瞬きするのも忘れてリディを凝視した。
リディの縋るような目、震える細い肩、髪の流れる白い首筋。何もかもがか弱く見えて俺の腕を待っている。
ダメだ、という自制の声は、慰めてやらなければという衝動の前にあまりにも小さかった。今こそ、俺が一歩を踏み出す時だ。リディと並んでやらなくちゃいけない。そう、神様か何かに命じられたようだった。
「リディ」
「――ジャン!」
腕の中にすっぽりと収まる小さい身体は、それでも子供の頃とは全然違っていた。柔らかさも、ガウンの下の滑らかな曲線も。髪から香る良い香りに酔ってしまいそうで、とんでもないことをしでかしそうで、俺は必死に壁の模様を見つめて気を紛らわせた。
これ以上は、いけない。
そう思って手に力を込めまいとするのに、リディは嗚咽を漏らしながら俺の胸に縋り付いて熱と柔らかさを押し付けてくる。
「ジャンの匂い、昔と変わらないね。木と土とお日様の匂い。働き者の――前は嫌だったのに、今は懐かしい……」
俺を見上げるリディ。泣くような笑うような吐息が俺の喉元をくすぐり、俺の理性を吹き飛ばす。薔薇か蘭か、何の花かは知らないが、とにかく甘く心を奪う香りがした。
「リディ!」
「……あっ」
叫んで抱きしめるとリディは頼りなくよろめいた。でもそのまま倒れるなんてことはさせない。ほとんどリディの爪先が浮くくらいに、強く強く抱いてやる。そのまま、耳に口を寄せて囁く。俺の胸にずっと
「お前は幸せになるんじゃないのか? 子爵夫人だろう? 何が嫌なんだ?」
俺に何かできることはないか?
最後の問いは辛うじて口の中で噛み殺した。俺にできることなんてあるはずがない。あのアランとかいう子爵はリディに何もかも与えられる。この部屋を見ればよく分かる。あの男にもリディを幸せにできないというなら、俺なんてお呼びじゃないはずだった。
「分からないわ……」
俺の胸に額をつけて、うつむいたままでリディは答えた。あかぎれひとつない白い指先が、俺のシャツを掴んで深い皺を作る。
「アランを好きになれば良いのは分かっているの。貴族で、お金持ちで、顔も身なりも良いじゃない。あたしの歌を好きだって言ってくれるのよ。母さんだって助かるのに……」
「そうだな」
リディが挙げることひとつひとつに胸を抉られたが、とにかく俺は頷いた。俺とあの男とでは、持っているものが違いすぎる。ひと目見た時から分かっていたことのはずだろう。
「でも好きじゃないの……! こんなにしてもらって恩知らずだとは思うわ、でも人を好きになるって貸し借りや義理の問題なの!? 母さんの面倒を引き受けてもらったら、その代わりに結婚しなきゃいけないの? あんたやローズだったらお金がなくても母さんを見捨てたりしなかったでしょう……!?」
「ああ、もちろんだ。俺は金なんかのためじゃない、リディのためにおばさんを看てた。お前がリディアーヌじゃなくても、金をもらわなくても同じことだ」
リディの頭を撫でながら、俺はできるだけ優しく囁いた。リディとあの男の間に何があるのか、全てを知った訳ではないし、こうしているのが間違っているのも分かっている。ただ、泣きながら訴えるリディを放っておくことはできなかった。どうにか落ち着かせて、できれば笑ったところを見てから帰りたかった。
「本当? あたしを、リディとして見てくれる? リディアーヌなんかじゃなくて」
「ああ、俺はお前の――友だちのつもりだった。ずっと、変わらずに」
目を合わせて言い聞かせると、リディはやっと安心したように少ししだけ微笑んだ。
「あたし、あんたに嫌われてると思ってたの」
「なんで!?」
心底驚いたのが伝わったのだろう、リディはもっと自然にくすりと笑った。いたずらっぽくて生意気な、昔のリディに近づいていく。そして俺の背に腕を回して、ぎゅうと力を込めて抱きついた。
「リディ」
「ほんとだ、突き放したりしないんだね。変に力も入ってないし」
「からかうなよ」
「からかってないよ」
顔を上げたリディは先ほどの笑顔から一転して真剣な眼差しをしていた。目が潤んでいるのでまた泣き出すのかと俺は腕に力を込める。しかし、リディはそっと腕を突っ張って俺から離れようとした。
「だって、歌姫なんて娼婦と似たようなものじゃない。路地裏のみんなだって、面と向かっては言わなくても心の中ではそう思ってる。あたしに拍手して花束なんかをくれる人たちだって、陰では色々言ってるの。分かってるのよ。どうせそう見えるでしょうし。
そんな女、軽蔑されて当然でしょ? 顔も見たくないから避けられてると思ってた。だから、あんたが初日に来なければ、もう絶対に会えないんだ、って諦められると思ったんだ」
諦める。さっきまでの俺と一緒の言葉が、リディの口から出るなんて。
俺は、ずっと間違っていたのかもしれない。
俺にできることなんてないから、リディには会わない方が良いと思ってた。贅沢も名声も与えてやれないから、俺なんてリディの人生にいない方が良いと思ってた。
でも、今リディが言ったのが本当なら、こいつは幸せどころかずっと引け目を感じてたんじゃないか。自分のことを蔑んで、望んでもいない結婚を受け入れようとしていたんじゃないか。
それも、俺のせいで。俺が勝手に負い目を感じてこいつを避けていたせいで。こいつは何も悪くないのに、悪いと言うなら何もできなかった俺なのに。いや、しようとしなかった。
金も身分も関係なかった。もっと早く会ってやれば良かった。リディの心が折れそうな時に寄り添って、迷った時には支えになる。生まれた時からこいつを知ってる俺にしかできないことがあったはずだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます