バルコニーにて リディ②
何でだか自分でも分からないけどそうしなければいけない気がして、あたしはその場にしゃがみこんだ。バルコニーの柵の内側に身体を隠すように。今のは幻? いもしない人の声が聞こえるくらいに、あたしはジャンを恋しく想っているということなの?
「リディ、早まるな!」
「な、何のことよ!?」
違うわ、これは本当に聞こえる声、彼がす下に来ているのよ。柵の陰に隠れるように体を丸めながら、あたしは叫び返した。昔のように、遠慮も何もない口調で。
「今にも飛び降りそうな顔をしていた!」
続けて下の方から叫ばれたことに、あたしは思わず笑ってしまう。やっぱりジャンはジャンだった。心配性でおせっかいなジャン。昔と全然変わっていない。だから、あたしも昔のように遠慮なく怒鳴り返すことができた。
「新作の練習をしていただけよ!」
「だってお前、泣いてるじゃないか!」
言われて慌てて頬に触れると、確かに濡れていた。やだ、全然気付かなかった。だけどジャンもどうかしている。暗い夜の中、あたしの顔をどれだけ凝視していたのだろう。どうやったら涙の煌きが見えるんだろう。星と街灯の灯りだけで。
「や、役に入り込んでいたのよ!」
苦し紛れの言い訳は、いかにも疑わしげな声で答えられた。
「――本当に?」
「本当よっ!」
乱暴に目と頬をこすってから、あたしは恐る恐るバルコニーの柵から顔を覗かせて通りを見下ろした。
街灯の光なんて頼りないもの。蝋燭の街灯しかない田舎よりはマシなんだろうけど、ガスの灯だって風が吹けば不安定に揺らめくものだ。中には故障してしまったものもあるし。そんなほのかな灯りの下、ぼんやりと浮き上がるように見えるのは確かにジャンの姿だった。暗い中でも彼だと分かることが、なぜか無性に嬉しかった。
この前変わらないなんて言ったのは、少なくとも見た目に関しては嘘だった。ジャンは背も伸びて、身体つきもがっしりしてるし、顎にはヒゲまで生えるようになっていた。それでもそう言ったのは、日に灼けた肌やごつごつした手指も同時に目に入って、こいつは前と変わらず働き者なんだと思ったからだ。「リディアーヌ」が住む世界とはまるで別の世界の人間で、例えばそう、ローズなんかがお似合いなんだろうと思ったからだ。ジャンにとって、遊び好きの浮ついたリディアーヌなんて見るのも嫌だろうと思ったんだ。
なのにどうしてこんなに気軽に話しているのかしら。でも、あまりに懐かしくて態度も言葉遣いも昔のままに戻ってしまう。
「何よ。何しに来たのよ」
リディか、リディアーヌか。どちらで接すれば良いか分からないまま問いかけると、ジャンは爆弾を投げ返してきた。
「用があって。――上がって良いか?」
上がる? 上がるってこの部屋に?
高鳴る心臓を抑えながら、あたしはすばやく計算した。ジャンがいる場所と、この部屋までの階段の段数。アランに馬車で送ってもらう時以外は、毎朝毎晩辿る道だ。着替えは無理でも、ガウンを取り出して羽織る時間は十分にある。
「ええ。良いわよ」
「――ありがとう!」
ジャンの表情は暗くて見えないはずだった。でも、許しを与えると、彼が破顔するのが太陽の下であるかのようにはっきりと見える気がした。
あたしが予想していたよりもずっと早く、扉はノックされた。あたしが踵の高い靴で上るよりも、ジャンの逞しくて長い脚の方がずっと楽に階段を上がれるのかしら。これも、会わない間に彼が変わったことのひとつかしら。
「入って」
ガウンの前を掻き合わせながら招き入れると、ジャンは戸惑った表情をした。
「え? でも」
「入ってよ。見られた方が面倒なの」
頬が赤くなっているのを見られないように、顔を背けてあたしは急かした。まともな女の子がすることじゃないって分かってる。きっと夜中に男を連れ込むような女だと思われるに違いない。でも、人に見られたくないのも本当だった。おかしな噂になったりしたら――特にアランに知られたらいけない。リディアーヌがここに住んでるって、他の住人達も知ってるんだもの。
「――で、用って何?」
恥ずかしさを押し隠して、あたしはなるべくふてぶてしく聞こえるように、ぶっきらぼうに問いかけた。ジャンが部屋中を物珍しそうに見渡しているのには気付かない振りで。
凝った模様の壁紙に、広いソファはベルベット張り。艶やかな輝きのくるみ材でできたキャビネットには、宝石を散りばめた猫の置物が座ってる。来客用のテーブルの脚は、最近流行りの優美な曲線の造りのもの。ランプのシェードはガラスを幾重にも重ねて油絵のように奥行きのある風景を描いている。
全て、あたしみたいな小娘には不釣り合いなものばかり。ジャンの目にはいったいどう映るのだろう。娼婦のような女だと思われた? そんなことはしてないって言った方が良い? いいえ、ジャンは信じないに決まってる。それに考えようによってはあたしは娼婦よりも質が悪い。あの職業の女たちはお金と引き換えに身体を売るけど、あたしはアランの愛に対して何も返してあげられてない。ただただ差し出されたのを受け取るだけだ。そんなの、泥棒みたいなものじゃない。
「ああ、そうだった……」
声をかけられてやっと我に返ったように、ジャンは真っ直ぐにあたしを見た。あたしに媚びたり、あたしを品定めしたりなんかしない、まともに働いてる人の目。あたしを落ち着かなくさせる目だ。
「これ――チケット。返さなきゃと思って」
そして差し出された封筒を見て、あたしはああ、と相槌にも似たため息を吐いた。
「……そっか。そうよね」
あたしはジャンに嫌われてると思っていたのは当たってたみたい。でも良かった。初日まで変に期待を持ち続けるより、ばっさり切り捨ててくれた方が良い。
「迷惑だったよね。ごめんね、勝手に押し付けて」
どうすれば自然に見えるだろう。全然気にしてないわ、って風で笑って見せれば良いだろうか。そう、舞台の上だと思えば良いのよ。そうすれば可愛く笑えるはずよ。
「見たくなかったんだ、リディアーヌなんて」
だけどジャンが顔を顰めるので、あたしの笑顔もひび割れそうになってしまう。しっかりしなさい、リディアーヌ。何千という観客を酔わせるあんたじゃないの。たった一人の男くらい、騙し通してやらなくちゃ。
「分かってた、ごめんってば。元々来てくれるなんて思ってなかった」
「じゃあなんで渡したんだよ!?」
「それは――」
上手い言い訳は幾らでもあるはずだった。余りものだとか、たまたま持っていたからだとか。何も特別なことじゃないって言わなくちゃ。なのにジャンの言葉も視線も鋭くて、あたしは何も言えなくなってしまう。初舞台でもこんなにみっともないことはなかったのに。
「お前がプロポーズされるとこなんて見たくなかった。リディがリディアーヌになっちまったのも、ずっと受け入れたくなかったんだ。でも、あの子爵は金持ちだし、祝福してやらなくちゃとも思った。良い話に決まってるんだから」
絶句するあたしを無視してまくしたて、そしてジャンはため息を吐いた。さっきのあたしよりも、なお、深く。
「プロポーズされるのを直接見るなんてできないけど、お前が幸せになるならそれで良かった。離れていてもお前が笑っていると信じられるなら。――なのにどうしてお前は全然嬉しそうじゃないんだよ。どうして泣いていたんだよ!?」
ジャンはやっぱり変わっていない。繰り返しそう思う。誰よりもあたしを心配して、誰よりあたしのために怒ってくれる。うるさいようで、いつもジャンは正しいことを言っていた。
「あたし……あたしは――」
それを言ってはいけない。言っても仕方ない。どうしようもない。
そう、分かっていたけれど。でも、あたしの口はあたしの意志に反して勝手に動いていた。涙と一緒に言葉がこぼれ落ちる。
「あたしは、あの人と結婚なんてしたくない。出来ることなら戻りたいの。路地裏でみんなと一緒の方が良かった。あんたと一緒が良かったの」
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