通う想い、すれ違う想い
バルコニーにて リディ①
化粧を落として部屋着に着替えると、あたしは鏡の中の自分自身をじっくりと眺めた。毎朝毎晩することだけど、その度自分に問いかけている。ここに映っている女は、リディなのかリディアーヌなのか。
リディアーヌに決まっているわ。
そう思う一方で、心の片隅が訴える。あたしはただのリディに戻りたい。あの路地裏に帰って、母さんやローズや――ジャンと一緒に暮らしたい。
舞台や夜会や社交に向けて厚い化粧を施す時なら、あたしはリディアーヌだと自分に思い込ませるのは簡単なこと。でも、夜になって全ての装飾をはぎとった「あたし」はいったい何者なんだろう。すっぴんになって簡素な寝巻きをまとったあたしは、普通の女の子のようにも見える。
いいえ、勘違いよ。それでもあたしはリディアーヌでしかない。今日の舞台で失敗したからって、弱気になっているだけ。あたしの居場所は劇場にしかないんだわ。
この前の水曜日、アランが手配した席で働いていたローズを思い出す。瓶が倒れたとかグラスが足りないとか、ローズはどうして振り向かないでも分かったんだろう。おばさんたちは、どうして何かとあの子を頼りにしてたんだろう。椅子やテーブルをどこに置こうとか、料理をどう並べようとか。きっと、あの子が働き者でしっかりしてるからよね。ローズは良い奥さんになって良いお母さんになるのね。旦那さんはジャンなのかしら。とても幸せな家族でしょうね。羨ましくなっちゃうくらい。
でも、あたしには無理だ。あたしはローズみたいにあちこち気が付いて気を働かせるなんてできそうにない。
なぜだか胸が痛くて首を振ると、ほどいた髪が肩から胸元へとこぼれ落ちた。本当に、どうしてかしら。幼馴染が幸せになるのは素敵なことよ。住む世界が違ってしまったとしても、喜ばなきゃいけないはずよ。あっちはあっち、あたしはあたしで――幸せに、なれるはずよ。
だって、あの夜思い知ったはずでしょう。
みんな、あたしとアランが結婚するのをあんなに祝ってくれたのよ。母さんだって喜んでいた。母さんが会ってくれなかったのは、あたしを軽蔑していたからじゃなくてずっと心配していたから――そう、知ることができて良かったじゃない。
でも、だからこそ今更辞めるなんて言い出せない。みんなにとって、もうあたしは近所の子じゃない。遠い世界に行ってしまった「リディアーヌ」なんだ。子爵夫人になれる幸運を、自ら手放すなんて言ったら――ダメだ、そんなことは言ってはいけない。アランにだって悪いじゃない。
鏡に映るあたしの顔の、頬の線を指先でなぞる。可愛くないとは言わないけれど、絶世の美女という訳でもない。もっと綺麗な子も、もっと歌の上手い子も劇場には幾らでもいるのに。
アランはどうしてあたしなんかが良いんだろう。あたしのどこが良いんだろう。
気まぐれでそのうち終わることならまだ良かった。それならその間だけ彼が望むリディアーヌを演じきって、できるだけ沢山のものをもらえるように良い気にさせようとさえ思ったかもしれない。歌姫とパトロンって、そういうもののはずだもの。いつも舞台でやってるお芝居を、楽屋や寝室でも続けるってだけだもの。
でも、彼があたしにくれるのはドレスや宝石だけじゃなかった。あまりに簡単に口にするからなかなか信じることができなかったけど、アランはあたしを愛している――みたい。さっきのアランの目、跪いてあたしを見上げる目は、確かに本気の人のものだった。さすがに、そろそろ認めない訳にはいかないんだろう。でも、あたしはそれを嬉しいと思うことがどうしてもできない。
アランを愛することができたらどんなにか良かっただろうと思う。それならあたしは誰よりも幸せな女の子だ。下町生まれの痩せっぽちが歌姫になって、貴族のお金持ちに見初められる。まるで舞台のお話みたい。あたしだって演じたことがない、綺麗な物語の素敵な役どころだ。きっと最後の場面では、あたしは頬を染めてアランの求婚を受け入れて、めでたしめでたしで終わるんだろう。
現実は、そう上手くはいかないだろうけど。あたしは礼儀作法とか貴族のしきたりについて沢山勉強しなきゃいけないし、色々言われることもあるんだろう。さっき楽屋で言われたよりも、もっとずっときついこととか。でも、アランを好きになれたなら、きっと大したことではないと思えるはずだ。
あたしはそっとため息をついて、鏡を曇らせた。
愛する人と手を取り合って世間に逆らって想いを貫く、なんて。それもまた、あたしにとっては夢物語だ。だってあたしはアランのことを愛してはいない。
確かに彼には返しきれない恩があるけど、だからといって好きにはならない。分不相応のことをしてもらってしまっているという、困惑混じりの感謝だけだ。感謝の気持ちは決して愛には変わらない。
気持ちを返すことができないのに、こんなにしてもらって良いのかしら。最近は、そんなことばかり考えている。
あたしは女優のはずなのに、演じることが苦しいと思ってしまっている。でも、だって一晩で終わる舞台とは違う話だもの。一生、アランの奥方を演じ続けられるかどうか。そんな役が務まるのかどうか。自信がなくて、怖気づいてしまっているんだ。
息が詰まるような苦しい気持ちをどうにか紛らわそうと、あたしは夜風を求めてバルコニーへ出た。劇場にほど近いアパルトマンは、やはりアランの手配で借りられたもの。今のあたしの何もかもは、アランのおかげなんだ。
真夜中を過ぎているのもあって、通りを見下ろすとさすがに人影はまばらだった。暖かくなって油断したのかもしれない、酔っぱらいが寝っ転がっているくらい。
これなら良いわね。
周りの住人を起こさないくらいの抑えた声で、あたしは新作のメロディーを口ずさんだ。
囚われの王女が故郷を想って歌うロマンツァだ。二度と見ることができない風や大地を思う繊細な調べ。あたしの故郷はすぐそばにあって、汚れてくたびれているけれど、帰れないと思うとこんなにも恋しい。
家を出たのは仕方ないことだったけど、もっと母さんの手伝いとかしてあげれば良かった。くだらない喧嘩も沢山したし。ジャンとだって。もっとちゃんと話してからお別れしていれば――
「リディ! 何やってるんだ!」
突然階下の通りから呼びかけられて、あたしは歌を途切れさせた。
「ジャン!?」
それは、思い描いていた人の声。会わない間に低くかすれたようになっていたけど、この前聞いたばかりの声。絶対に忘れちゃいけない声だから、聞き間違えるはずはない。
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