初舞台の記憶②

 心臓がいやな感じにどきどきとして苦しいから、わたしは野菜の籠をしっかりと胸に抱えて足早に歩いた。

 玉ねぎの皮の乾いた匂いを嗅ぎながら思うのは、わたしはちゃんと分かっていなかったということ。歌姫ってどういう仕事なのか。おばさんたちがリディを見て嫌な顔をするのはどうしてか。歌姫が、あんな明け透けに品定めされる存在だったなんて。誓って後ろめたいことはしてないし、させてもないって、リディも子爵様も言ってたけど、でも、噂を止めることはできないのね。リディはあんなこと言われてるって知ってるのかしら。なのに、どうやったらあんなに堂々としていられるの?


 わたし、歌姫ってもっときらきらとした、輝かしいものだと思ってた。子供の頃に見たあの舞台みたいに。




 舞台といっても、大きな劇場でやるようなのじゃない。わたしたちにはそんな豪華な催しは無縁のものだったし。街角に木箱を積んで椅子を並べて、即席の舞台と客席を作るような、旅の芸人さんたちが来たことがあったから、その程度のこと。継ぎの当たった衣装に、お姫様役も王子様役もよく見ればかなり年がいっていた。即興の音楽も時々音を外してしまっていて、多分子供騙しのような幼稚な出し物に過ぎなかったのだろうけど。でも、子供だったわたしたちを夢中にさせるには十分だった。


 リディもわたしも、おとなしかったジャンだって。小さな拳を握りしめてお姫様と王子様を応援した。悪い魔女に引き裂かれた二人は、困難を越えて結ばれて、大団円に。最後は舞踏会での結婚式の場面で――その段になって、王子様はわたしたち観客に手招きした。


『さあ、皆も一緒に。祝っておくれ』


 わたしを始め、ほとんどの子たちはきゃあきゃあ言って顔を見合わせるだけだった。客席から見ているだけなら良いけれど、舞台に上げられるなんて恥ずかしい。間近に見た「王子様」も、汗でお化粧が滲んでちょっと怖かったし。子供心に、誰かが行かなきゃ収まりが悪いのは分かっていたけど、でも、思い切ることはできなくて。でも――


『おめでとう! あたしがお祝いしてあげる!』


 変な間が空きそうになったその瞬間、リディがわたしの隣からさっと立ち上がった。


『可愛いお嬢さん、貴女のお名前は?』


 役者たちもきっと安心したんだろう、「王子様」はお姫様にするみたいにリディの前に恭しく跪いて手を取った。くすくすと笑いながらそれに答えたあの子の声は澄んでよく通って、今思うとあの頃から歌姫の才能の片鱗を覗かせていたのかもしれない。


『リディよ』

『ではリディアーヌ姫。踊ってくださいますか?』

『ええ、喜んで!』


 ああ、そうだったわ。あれがリディアーヌの本当の初舞台。「王子様」の招待を受けたご褒美に頂いた煌びやかな名前が始まりだった。


 わたしたち下町の子供たち、恥ずかしがって立ち上がることも声を上げることもできなかった子たちをよそに、軽々と飛び立って行った綺麗な小鳥。輝くような笑顔で、知らないはずのステップをこなしてスカートの裾を翻してくるくると回っていた。あの子は昔から勇気があった。思い切って――たった一人でも――一歩を踏み出すことができる強さがあった。


 胸を刺す痛みが鋭くなって、わたしは俯きながらほとんど駆けていた。お芝居にはまだ続きがあったのを思い出して、その記憶に居たたまれなくなったから。


『貴女もいらして? お名前は?』


 「お姫様」はわたしにも呼び掛けてくれていた。リディの隣にいたから、同じくらい物怖じしない子供だと思われたのかもしれない。でも、わたしはもじもじするばかりで――だから、リディが助け舟を出してくれた。


『その子はローズよ』

『そう。ではロザモンド姫、ダンスはいかが?』


 ロザモンドも素敵な名前。きらきらしてお姫様みたい。そんな呼ばれ方をして、わたしだってときめいた。胸に薔薇が咲いたみたいな気分がした。リディがあんまり綺麗だったから、わたしだって、って思ったもの。


 でも、わたしはローズのままだった。リディと違って、どうしても立ち上がることはできなかった。他の子が代わりに呼ばれていったのだったかどうか、そこは覚えていないけど。とにかく、わたしとリディは違ったんだ。


 立ち上がることができなかったわたしが、リディみたいに、なんて思って良いはずがない。あの子はわたしよりも勇気がある。舞台に乗り込んで歌って踊ることができる。それができないくせに、あの子の髪や衣装を羨むなんてしちゃいけない。


 ああ、でも、ジャンだって客席に留まっていたはずなのに。それだけは確かに覚えてるのに。どうしてジャンはこちら側にいてはくれないのかしら。どうしてまだリディを想い続けているみたいなのかしら。


 どうして、リディを。わたしじゃなくて。


 答えなんて分からないから、わたしは歯を食いしばって足を動かすしかなかった。卵や野菜が転がり落ちることがないように、必死に籠を抱えながら。

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