幕間
初舞台の記憶①
市場で買い物をした後、わたしは少し回り道をして劇場の方へ足を向けてみた。もちろん、普段なら真っ直ぐ帰って家事の続きをするところなんだけど。でも、最近は普段とは違うことが続いている。それなら、わたしだっていつも通りじゃない道を選んだって良いんじゃないかしら。
それに、リディと――それから、ジャンのことが気になってもいるし。今朝のジャンは、なんだか浮かない顔をしているみたいだったから。リディのことが心配なんだろうけれど。リディは、噂の新作の初日の後にあの子爵様と結婚するっていうことだし、その新作のポスターでも目にすることができたなら、少しは安心できるんじゃないかしら、って。そんな思いつきも、この寄り道の理由だった。
ああ、でも劇場の辺りまで来たなんてジャンには知られない方が良いわね。それならチケットを渡したのが何だか変な感じになってしまうもの。わたしから返してくれれば良かったのに、なんて言われても困ってしまう。いえ、今思えばわたしからそう言った方が良かったかしら。ジャンは、リディの家に行くと言っていたから。
二人きりで会うなんて良くないことだわ。そう、リディはもうすぐ結婚するんだから。変な噂が立つようなことはしちゃいけないはずよ。どうして朝は思いつかなかったんだろう。後でジャンに言ってあげなきゃ。マナー違反は止めてあげて、って。
言い訳のように、自分に言い聞かせるように。どこかくどくどと考えながら歩くうちに、すれ違う人の身なりが段々小綺麗になっていく。足元の舗装もより滑らかで通りも広くて、歩きやすくなっているはずなのに、わたしの足取りは重い。
劇場に足を運ぶような人は、子爵様みたいな貴族じゃなくても裕福な人ばかり。そもそも劇場が位置しているのだって、街の中心に近い大通りだ。分かっていたことではあるんだけど、野菜の詰まった籠を抱えて擦り切れた服で歩いていると、少し居心地が悪くなってしまう。どうせ誰もわたしなんて見てないんだから、気にしすぎだとは分かってるんだけど。それでも、俯きがちになってしまうのは止められない。
「リディ……」
だから、ふと顔を上げた瞬間に大きな「リディアーヌ」のポスターと目が合って、わたしは思わず喘いでいた。新作のポスター、ではないと思う。だってそこに描かれているのは異国の風景なんかじゃないし、リディアーヌが纏っているのも普通の――といっても、下町暮らしのわたしたちには縁がないのは変わらないけど――ドレス。多分、今やっているお芝居もリディが主役なんだろう。前の水曜日にそんなことも言ってたかしら。女の子たちなら、あの子の話をもっと夢中になって聞いていたのもしれないけれど、わたしは、もしかしたらリディアーヌの話なんて聞きたくなかったのかしら。ううん、きっと忙しかったのよ。何か、やらなくちゃいけないことで頭がいっぱいだったんだわ。
ああ、でも、リディアーヌはやっぱり綺麗。金色の巻き毛は、きっと
「リディアーヌは乗ってるね。例の新作――えらく力が入ってるというアレも、彼女が主役なんだろう?」
「ああ。こんなに売れるとは正直思ってなかったな」
とても図々しい空想を広げていると、すぐ後ろから笑い声がした。わたしはびっくりして恥ずかしくて、小さく跳び上がってしまう。といっても、わたしに言った言葉じゃないのはすぐに分かった。リディアーヌのポスターを見ている紳士たちが、噂話をしているようだった。
「そうかい? リディアーヌの初舞台を見たことあるがね、結構目を惹く娘だったよ」
「へえ。どの話のどの役で?」
「『伯爵令嬢』だったかな……ほんの小間使いの役だったが、目がきらきらしていて可愛かったっけ」
鼻先をくすぐる香水の匂いは、あの子爵様を思い出させる上流の匂いだった。その人たちの言葉遣いも、わたしたちのものとは違う。聞こえてしまうやり取りからも、頻繁に劇場に通うことができる階級と収入の人だとすぐ分かる。わたしなんかをいちいち目に留めるような人たちでは、ない。だから、わたしが聞き耳を立てていることにも、気付かれてはいないだろう。
それにしても、本当にお芝居が好きな人たちなのね。リディの初舞台を覚えてるなんて。
男の人たちが話している演目のことを、わたしもちゃんと覚えてた。リディがすごく嬉しそうに教えてくれたから。やっと舞台に上げてもらえるのよ、って。お給料ももらえるようになるから、母さんの薬も買えるわ、ジャンにも言ってやってよ、って。それこそ歌うような軽やかな声で笑ってた。
『でも、
唇に手をあてて小首を傾げたリディの仕草も、まるで昨日のことのよう。そう、それにパンフレットにはリディアーヌって載せてもらうの、とも言ってたわ。ただのリディじゃ格好悪いから、なんて言って。そうだわ、リディは急に歌姫リディアーヌになったんじゃなかった。小さな役も幾つもやって、オーディションも何度も落ちたって――悔しがるのを慰めたこともあったのに。わたし、どうして忘れてしまっていたのかしら。あの子が、頑張っていたことを。
「それならパトロンになれば良かったのに。逃がした魚は大きかった……?」
「いや、そこまでの冒険はねえ。今でもちょっと細すぎるし」
「そういえば君の好みは豊満な女性だったな」
なのに、どうしてこの人たち、わたしの後ろでリディアーヌのポスターを眺めているらしい人たちは、勝手なことばかり言うのかしら。あの子のことは何も知らないのに、あの子の見た目ばかりあげつらって。歌姫は歌とお芝居で評価されるのではないのかしら。おばさんたちは、歌姫なんて娼婦みたいなものだと言っていた――それは、こういうことだったの?
紳士たちの話題は、もっと具体的で厭らしいことに進んでいくようだった。わたしにはよく意味が分からなかったけど。でも、とても聞いていることはできなくて、わたしは足早にその場を離れた。
リディにも、悪いような気がして仕方なかったから。
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