アランの焦燥②
何度か、知り合いとすれ違いう度に適当な挨拶を交わす。私がリディを支援しているのは周知のことだから、先ほどの「無様な」歌に対して――もちろん彼らはあからさまに嘲ったりなどせず、無難な気休めや虚ろな賞賛を装ってはいるのだが――一通りあてこすりを聞かされる。
「リディアーヌは調子が悪いのかな。貴方も心配でしょう」
そんな中の一人は、一際嫌味ったらしい言い方で私の神経を逆なでた。
「まさか。今日も素晴らしかった。あの拍手を聞いたでしょう」
「おや、音を外していたのにお気づきでなかった? 恋は盲目と言いますが、耳まで塞ぐものでしたか」
「失礼、予定があるもので」
今度こそ人前で舌打ちしそうになったので、体面を守るためにも私は会話を打ち切った。何もかもが鬱陶しかった。
私が女に入れあげて下手な歌手を主役に仕立てたと言いたいのだろうか。彼らの愛人に出番を寄越せと言いたいのだろうか。
くだらない。私はリディの身体が目当てでもなければ、つれない彼女の気を惹くために大役を餌にしたのでもない。むしろ、私のすることは全て彼女には悪ふざけだと思われている。私は純粋に彼女のためにしているというのに。彼女に相応しいものを贈っているに過ぎないのに。
彼女に伝わらないならば、誰にどう思われても同じこと。とはいえリディのジャンへの想いを見せつけられているような今の気分では、普段なら気にも止めないはずの幼稚な皮肉がやけに気に障って仕方なかった。
これも全てジャンのせいだ。あるいは、あの男を想い続けるリディのせいだ。
何しろ私は、ジャンの人となりについて通り一遍の、調べて分かる程度のことしか知っていない。
リディとジャンの間には私の知らない何があるというのだろう。子供のころから知っているからか。母親の世話をしていたからか。私が訳もなくリディを好きになったように、そもそも運命のようなものだというのか。何も分からないからこそ、苛立ちも募るというものだった。
ジャンがリディをどう思っているかも気になって仕方ない。
名刺を渡したものの、ジャンが私に会いに来ることなどないだろう。普通の感覚を持ち合わせていれば、のこのこと恋敵の前に姿を見せられるはずがない。私の身なり、肩書き、言葉遣い、名刺に記した住所に至るまで、全てが彼との格の違いに見えたはず。ジャンがリディを愛していればなおのこと、私と張り合おうなど思えないはず。
そう、信じることができれば良かったのだが。いくら自分に言い聞かせてみても、どうにも不安が拭えなかった。
「信じられないっ!」
リディの楽屋の前に着くなり、甲高い声が耳に刺さって私は顔を顰めた。扉を隔ててもよく聞こえるこの声量は、舞台に立つべく訓練を受けた者の声に違いない。だがリディの声とはまるで違う、ただただうるさいだけの金切り声だった。
「あんな簡単な曲で音を外すなんて! もうすぐ結婚するからって浮かれてるの? 何をしても降ろされないとでも思ってるの? やる気がないなら、ある子に役を譲りなさいよ!」
ここでも、またか。
誰も彼もリディを責めているようで、嫌になる。私はうんざりとした気分とどろりとした怒りを同時に感じた。苛立ちが煮詰まってタールにでもなったようだった。
「あたしにやらせたのは支配人でしょ。文句があるならあっちに言って」
「実力だとでも言うつもり!? あんたの実力はコーラスガールがお似合いよ。あんたに主役が回ってくるのはあの子爵のおかげでしょ!」
「あたしが頼んだわけじゃないわ……!」
二人のソプラノは鋭く高い声で言い合っている。しかし、激昂している様子のもう一人の娘に比べて、リディの声はどこか弱々しく頼りなかった。
「あんた、ほんと上手くやったわ! 誰も何もしないで主役が手に入るなんて思わなかった。才能があるか練習するか、でなきゃ金持ちを捕まえるのよ。もったいぶって何もさせない方が良いなんて思ってもみなかった!」
「あたしは――」
直截な侮蔑を聞き流すことができなくて、私は礼儀を破って扉を開けた。まさかノックもしないで入室する者がいるとは思わなかったのだろう、二人の娘はぎょっとしたように私の姿を凝視した。
「失礼、外まで聞こえていたものだから」
とりわけリディを詰っていた娘には、脅しているように見えるであろう剣呑な笑みを作ってみせる。
私自身への嫌味ならどうでも良い。傍から見て恋人に便宜を図っているように見えるのは承知している。しかし、そのためにリディに悪意が向けられるようなら、恋人としても崇拝者としても、私が盾にならなければならない。今までもずっとしてきたように。
「リディ、大丈夫か?」
「え、ええ」
次いでリディを安心させるためいつもの笑顔を向けてみると、可哀想に、リディは真っ青な顔色だった。舞台化粧も汗で落ちかけて、汚い言葉を投げつけられて演技の笑顔もひび割れていた。まったく、こんな機会に彼女の素の表情を見られるとは。
「あら、子爵様。早速いらしたのね」
一方、私が名前を知らないソプラノは、狼狽を見せたのも一瞬のこと、気を取り直したように髪をいじると、悪びれずに顎を上げて笑った。何も恥じることなどないとでも言いたげな、自分こそが正しいと確信している者の笑い方だった。
「楽屋をいかがわしいことには使わないでくださいね。ああでも――」
彼女は唇の両端をつり上げて嘲りを露にした。
「あたしたちにはその方が良いかも。この
リディを娼婦のように揶揄する言い草に、思わず拳を握ってしまう。しかしもちろん子供のようなこの娘を相手にそれを振りかざすことはない。
「――出て行け。君の声は聞きたくない。もう二度と聞くことのないように手配しよう。ここでも舞台の上ででも」
代わりに鋭く告げると相手は表情を強ばらせたが、すぐに不敵な笑みを取り戻した。
「望むところよ。あたしはそういうやり方はしないことにしてるもの」
扉が閉まると、リディは私に駆け寄ってた。
「アラン。あの子にひどいことしたりしないで」
そして、縋りつくようにして訴える。濃いアイラインが汗で滲んで、黒い涙を流しているようだった。
「真面目な子なの。今日、あたしが音を外したのもほんとだし。あたし、全然気にしてないの」
リディが必死な瞳で見上げてくるのを嬉しく思うと同時に、悔しさも湧く。私の前で最初に口にするのが、あの無礼な女のことだとは。
「だが、彼女は君も、君への私の想いも侮辱した。到底許せるものじゃない」
肩を掴んで強く言うと、リディは悲しげな表情で首を振った。なぜだ。彼女には笑っていて欲しいのに、どうして私に見せるのはこんな表情ばかりなんだ。
「あの子は高音が得意だから、余計に怒ったのよ。あたしが悪かったのよ。ごめんなさい、アラン。せっかく役をくれたのに……」
「君まで依怙贔屓だと思っているのか? とんでもない! 確かに私も助力はしたが、君の成功は君自身の魅力によるものだ。君がそれを信じなくてどうする!?」
リディの言葉が、ずっとくすぶっていた私の苛立ちに火花を投じた。思わず声を荒げてしまい、リディが怯えた表情をしたのを見て瞬時にそれを後悔する。
「でも」
「そしてその魅力に、私も捕らわれているんだ。信じてくれ。私は純粋に君を愛している。それを汚されるようなことを言われては我慢できないんだ」
その場に跪き、私がリディを見上げる体勢を取る。女神を崇める信者のように。しかし女神が向けてくれたのは、困惑を包んだ曖昧な微笑でしかなかった。
「……ありがとう、アラン」
丁寧だが心のこもらない言葉で――愛を告白して礼を言われるとは! ――リディはまた私の心を踏みにじった。私に対する感情は愛や恋などではなく奇特な支援者に対する感謝に過ぎないのだと、愛を受け取るつもりはないのだと、リディはもう何度目かに私に思い知らせたのだ。
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