アランの焦燥①
リディが最後の一音を歌い上げた。オーケストラに負けじと張り上げた澄んだ声が劇場全体に響き渡る。
ふわりとした残響。彼女の息づかいさえ聞こえそうな一瞬の静寂。そして今度は万雷の拍手が客席から沸き起こる。
しかし私は手を叩く気にはなれなかった。代わりにオペラグラスを舞台ではなく――リディなら後で間近で見ることができる。何なら触れることだって――客席に向ける。見知った顔の評論家や新聞記者、彼らの表情を窺うのだ。ボックス席からは客の顔もよく見えた。
周りの客に倣って拍手をしている者も、いることはいる。しかし腕組みをしている者の方が遥かに多い。舞台に決して満足していないという意思表示だ。顔を寄せ合って皮肉げな笑いを浮かべている者、これみよがしに肩を竦めたり首を振ったりしているもいる。まるで一般の客に通ぶって見せつけようとしているみたいで吐き気がする。
明日の記事の見出しを話し合っているのだろう。連中がどう書き立てるか、ある程度の想像はつく。新人歌姫リディアーヌ、主役の重圧で音を外す! 譜面通りではないものの情感込めた好演だったと、控えめに書く者もいるだろうが、それはきっと少数派だろう。人は星が堕ちるのを好むもの、読者が求めるのは醜聞なのだ。
私は舌打ちをするとやや荒っぽく席を立った。多少品には欠けるがまあ良いだろう。このボックス席の中には誰も入れていないのだから。恋人――リディの歌を聞く一時に、他の人間のなど邪魔なだけだ。
この席の存在も、今となっては忌々しいが。
ボックスの五番。舞台を横から見ることになるからやや見づらいが、装置の造りや裏方の動きも見ることができるし、何より役者との距離が近い。実際、リディに聞いたところによると、客が入っているかどうかくらいは舞台からでも見て取れるそうだ。つまり、チケットを買った客を知っていれば、誰が来ているかリディにも分かる。今までであれば、それはほぼ私だったのに。次の大作の初日――その晴れがましい日に限っては、その栄誉は私ではない男に贈られるのだ。
リディは何を考えてジャンを初日に招いたのだろう。
プロポーズを受けるところを幼馴染に見せたいだとか、祝ってもらおうだとか、そんな風に都合良く考えることはできなかった。
今終わったばかりの公演で、リディの歌の音程が不安定だったのも、一方でこれまでになく情感たっぷりで観客の心を揺さぶったのも、いずれも本当のことだった。その事実が、私の疑いを加速させて膨れ上がらせる。
リディの役は恋する女のそれだった。彼方の恋人を想う役。まるでリディとジャンのようだとは、私の嫉妬心が思わせる邪推に過ぎないのだろうか? 自分の身と重ねたからこそ、真に迫った演技になったし、譜面通りに歌い上げることができなくて声が揺れてしまったのでは? 自問するまでもなく、それは真実のように思えてならなかった。
いったいなぜだ。なぜ私ではなくジャンなんだ。
楽屋に向かって足を急がせながらも、解けない疑問が私の心を悩ませ苛立たせる。
この前の水曜日、リディについて下町に行って、初めてジャンに会った。想像していたのとほぼ同じ、いかにも実直そうな青年だった。真面目すぎてつまらないという印象さえ受けるほど、どこにでもいる青年だ。そこら中に何十人といる職人見習い、日に灼け汗にまみれて一杯のワインに慰めを求めるただの貧しい若者だ。
だが、リディはジャンに会って心も表情も揺るがせていた。交わした言葉はほんのひとつふたつだが、ずっと彼を目で追っていた。
地位でも財産でも教養でも、私が劣るところなど何もない。誰に聞いても私の方がリディに相応しいと言うはずだ。
なのにリディは私の愛を受け取らないで、それどころか愛されていると信じることさえしないでジャンのことを想い続けている。一方、私に対しては、相変わらず親しさの演技を続けている。微笑んでくれるのもキスに応えてくれるのも、全てお芝居、見せかけの好意にしか過ぎないのだ。
下町に行った目的は、単にリディの母に会うためだけではなかった。もちろん結婚の許しはもらわなくてはならないし、いわば水商売の世界に身を置く娘を案じていた義母を、安心させなくてはならなかった。
しかし、最大の目的は、リディは私のものだとあの界隈に、何よりジャンに知らしめるためだった。住む世界が違うのだと明らかに見せつけて、彼女が帰ることはないのだと高らかに宣言したかった。
そしてその目的は、路地裏の住人に対しては成功した。
どうせ若い娘を騙して弄ぶ類の男だと思われていただろうから、結婚する気だとはっきりと告げた。気前の良さも感じの良さも見せてやった。酔っ払いの握手にも抱擁にも応えてやったし、女性たちの手にはキスをした。そんな器の広い男に選ばれたのだと、リディは幸せを掴んだのだと、誰の目にも分かるように。リディの母など、涙を流して喜んでいた。リディには指一本触れていないと、清い愛を捧げているのだと誓ったから。娘が身体を売った金で生き延びていたのではないと知らされて、あの女性は救われたようだった。
多少の妬みは受けつつも、路地裏全体に祝福されて彼女の覚悟も決まるだろうと思って私は安堵していた。あれだけの大ごとにされた後なら、やっぱり嫌だと言い出すことなどできないだろうと。
多分リディにも私の思惑が分かったと思う。だからこそリディは気落ちして見せ場で音を外すまでになってしまったのだろう。――でも、それだけだろうか。
古巣が懐かしいというだけなら、たまに顔を見せるのは続けても良い。結婚前に不安になる女性は多いというし、その不安を拭うほどに大切にする自信はある。リディを妻に迎える準備は整っているのに、形の上では彼女を手に入れるのに何の障害もないというのに。私の安堵はほんの一瞬しか続かなかった。彼女の心が今もジャンに向いていると、気付いてしまったから。
ぎり、と奥歯を噛み締め、胸の内で忌々しい問いを繰り返す。
彼女はどうしてそんなにジャンが好きなのか。この私ではダメなのか。
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