ジャンの未練②

 リディにばかり目を向けていたので、当然彼女の隣にいるはずの男、彼女に結婚を申し込んだという男のことは視界に入っていなかった。入れたくなかったのかもしれない。


「アラン」


 それでも、呟いた彼女につられるようにその男へ目を向けると、嫌でも見ることになってしまう。


 俺とは全然違う男だ。それが最初の印象だった。夜の闇の中でも輝くような金色の髪。象牙のように滑らかな肌が、額に汗して働く必要のない階級だと教えている。服装も身のこなしも洗練されていて、リディの肩に手を置いているのも見事に様になっている。俺は、ほんの小さい頃を除いては、リディに触れたことなんてなかったのに。


 リディは男の方を振り向いて、それからまた俺を見て、心元なげに呟くように問いに答えた。


「これがジャンよ。あたしの昔の――友だち。ローズと一緒よ、母さんの面倒を見てくれてたの」

「なるほど、彼が」


 アランと呼ばれた男が俺を見て笑った。意味ありげな、口元だけの微笑みに俺は居心地の悪さを感じて、意味もなく辺りの酔っぱらいがバカ笑いするのを眺めた。何がなるほど、なんだろう。リディはこいつに俺の何を話したのだろう。


「私はファルマン子爵という。君のことはから聞いていたよ。とても世話になったのだと」

「妻?」


 男があまりに無造作に手を差し出すので、握手を求められていると気付くのに数秒かかった。そして気付いてなお、あまりに白く滑らかな手を、俺の仕事の後で汚れた手で触れて良いのかためらってしまう。何よりリディを妻と呼んだのが引っかかった。


 整った身なりの男は、俺の無作法を咎めずすっと手を引いた。礼儀知らずに礼儀を求めたりはしない、と。暗に言われたような気がしてしまう。きっと呆れられただろうと思うと身体の芯が羞恥でカッと熱くなった。


「気が早いけれどね。もうすぐ発表するのだから良いだろう。今度の新作はリディが主役だ。ポスターは見てくれたかな? 初日の後に公にする予定なんだ」


 新作の初日の公演。俺は大事にしまいこんだボックス席のチケットを思い浮かべた。


 リディの気持ちがまた更に分からなくなった。子爵だというこの男から彼女が求婚されるのを、特等席で見せようというのだろうか。俺に祝って欲しいのだろうか。それとも見せつけるつもりだろうか。俺が止めたのは間違いだったと、自分自身の力と幸運で、幸せな人生を掴み取ったのだと。


 それならどうしてお前はそんなに不安そうな顔をしている?


 どんなに見つめてもリディは俺の疑問には答えてくれない。それどころか、この話はしたくないとでも言いたげに、上目遣いで訴えてくる。婚約者に話しかけられてしまっては、さすがに面と向かって乗り気じゃないのか、なんて尋ねることもできないじゃないか。


「ジャン、ローズがまた働き詰めよ。ほかの人にやらせておけば良いのに、あちこち手伝ってくれてるの。ねえ、落ち着いて食べたり飲んだりしてって言ってやって。たまには羽目を外したって良いじゃない」

「そう、そうだな……」


 リディの視線を追えば、ローズは実際忙しそうに立ち回っていた。家族を世話して、俺や親父やリディの母さんを気遣って、あいつはいつも働いている。たまには休んでも良いだろうに。まして幼馴染の祝いの席なんだから、料理を味わってやった方が良いはずだ。


 だからリディの言うのは至極もっともなことなのだが、なぜか俺は面白くなかった。まるでどこかへ行けと言われたようで。

 ずっと避けていた癖に、いざ顔を合わせるともっとリディの声が聞きたくなってしまう。会わなかった年月の分だけ話がしたくなってしまう。


 リディはそうではないのだろうか。俺と話すことはもうないのか。婚約者がいるからそれはできないというのだろうか。


「邪魔、したな。――おめでとう、幸せになれそうで良かった」


 ――聞くまでもないことだ。アランとかいう子爵様を見ればすぐ分かる。こんな路地裏の職人風情が知り合いなどと、リディは隠しておきたいに違いない。友だちと呼んでくれただけまだ情があったということだろう。これ以上馴れ馴れしく話しかけたら迷惑がるに違いない。リディはもうリディアーヌになったのだから。貴族の奥様になるのだから。


「ジャンっ!」


 背中にリディの声が刺さったが、俺はそれ以上何も言わずにその場を去った。そしてみんなに混ざって珍しく浴びるほどワインを呑んだ。相変わらず喉に刺さる味がしたけど。




 即席の宴会は真夜中過ぎまで続いた。割れた瓶や食べこぼしの散らばった通りは、いつもよりも荒れ果てて場末の酒場のように見えた。朝の光の下で見たらきっと更にそうだろう。だがまあ夜も遅いので、掃除は明日ということになった。


「楽しんでいただけたようで良かった。片付けには人を寄越しますから」


 酒が進むうちにみんなとも打ち解けたらしいアランが朗らかに言った。それなりに杯を重ねたはずなのに、全く乱れたところも見苦しさもない。造り物の人形のようでさえある。生まれも育ちも、人としての芯から俺たちとは違うのだと見せつけられるようだった。


「ジャン」


 いとも気安く呼びかけられるのは、そう愉快な気分ではなかった。とはいえ無視する訳にもいかず、アランの方へ歩み寄る。傍で見れば見るほど、冷たそうで整っていて、同じ人間とは思えなかった。俺とは違う、リディアーヌと同じ世界の人間だ。


「私の連絡先だ。義母のことで何かあったら言ってくれ」


 笑顔とともに差し出されたのは、精緻な模様で縁どられた名刺だった。金押しの細い線がガス灯の柔らかい光で煌めいている。住所を見れば――当たり前のことだが――俺は足を踏み入れたこともない貴族街が記されていた。


「ありがとう、ございます。でも、今までも大丈夫だったから――」

「ああ、そんな堅苦しい言葉遣いはやめてくれ。リディの友人なら私の友人も同じこと。もっと楽にしてくれて良い」


 アランは強引に名刺を受け取らせると、俺の肩を軽く叩いた。なんて寛大なお言葉だろう。貴族様が貧乏人にお情けをくれた。口では友人と言いながら、はるかな上から見下ろして、恐れ多くも認めてやったのだと俺に思い知らせているようだ。


「君たちが義母のために苦労することなんてないんだ。私が何もかも良いようにしよう」


 晴れやかで自身に満ちた笑顔を、頼もしいと思って良いはずだった。傍らのリディが微笑んでさえいたならば。


 お前は本当に幸せなのか?


 俺はリディに尋ねたかった。だが、アランの笑顔に阻まれて、どうしても口に出すことができなかった。


 だが、それで良かったはずだ。リディが幸せじゃないはずがない。笑ってないのも、緊張しているだけかもしれない。貴族の奥様に望まれて不満じゃないかなんて、俺が僻んでいるから思うだけだ。だからやっぱり、余計なことは言わない方が良いんだろう。




 翌朝、昨夜のバカ騒ぎのつけが回って路地裏はどこか倦んだような気配が漂っていた。大雑把に脇に避けただけの空き瓶やらのせいかもしれない。

 眠い目をこすりながら仕事へ向かう道すがら、俺は目当ての人を見つけて近づいた。


「ローズ、おはよう」

「ジャン。昨日の今日でも早いのね」


 ローズこそ、いつもと全く同じ様子で髪をきっちりとまとめていた。腕まくりをして、これから通りの掃除をしようとでもいうような格好だ。アランの手配に任せるんじゃなくて、自分でやらずにはいれらないんだろうか。こいつは昔から変わらない。いつも誰よりしっかりしていてお手本のような女の子だった。


 そんなローズの手の中へ、俺は昨日もらった名刺を押し付けた。


「これ、ローズが持っててくれ」

「え? でも――」

「俺があの人を訪ねることはないから」


 目を丸くしたローズに、俺は精一杯強がった笑顔を作る。リディのことなんて全然気にしてないと見せかけて。


「ローズの方がおばさんといる時間が長いだろ。急に具合が悪くなるかもしれないし、すぐに――リディに、知らせられた方が良い」


 しまった。リディの名前を言う時に一瞬だけど間を空けてしまった。ローズに気づかれてしまっただろうか。


「そう、ね。そういうことなら……私が預かるわ」


 ローズが気付いたかどうかはその表情からは分からなかった。もしかしたら気を使って知らない振りをしてくれたのかもしれないし、意外と俺は普通の態度ができていたのかもしれない。


「ああ、頼む」


 そしてもう一つ、持っていたくないものがあったのを思い出す。

 あのチケットだ。リディが主役の新作の、初日のボックス席。どんな筋かは聞かなかった。だが、何よりの見せ場はリディへのプロポーズなのだろう。リディがあの男のものになる瞬間なんて見たくなかった。


「リディの住所を知らないか? あのチケットを返したいんだ」

「え? 楽屋に届ければ良いんじゃない? 劇場の人に言えば分かるんじゃないかしら」


 リディの家を気にしたことなど初めてだったからだろう。ローズは目を丸くした怪訝そうな顔で問い返し、俺も確かにそうだと気付いた。


「いや、仕事の後だと遅くなるから。家に行った方が良いかと思って」


 だが俺の舌は滑らかに嘘を紡いだ。そう、嘘だ。どうせ行く気がないならローズに頼んで返すことだってできるんだから。だが、せめて最後に直接リディに会いたかった。


 これは、俺の情けない未練だ。

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