ジャンの未練①
最初、曲がる角を間違えたのかと思った。家への道を選んだつもりが、どこかの酒場か何かの催し物の会場に行き着いたのかと思ってしまった。それくらい、路地裏はいつもと違う空気に包まれていた。
どこからか椅子やテーブルが運び込まれて、持ち運び式のガス灯が――これがあるから催し物かと思ったんだ――、いつもは暗い路地裏を昼間のように照らしていた。
夜だというのに子供たちがはしゃいでいて、大人たちは酒に酔って騒いでいる。それでもみんな見知った近所の顔だったから、道を間違えた訳ではないとやっと知ることができた。それでも、どうしてこんなお祭り騒ぎが、という疑問は解けないままだったけど。
そしていつものように甲斐甲斐しく働いていたローズを見つけたので、どいいうことか聞こうとして――彼女の代わりに周りの酔っぱらいから事の次第を知らされた。
リディがパトロンの貴族と結婚することになったという。もうおばさんも許していて、みんなに祝いの酒が振舞われているところだという。
祝いだって?
笑顔で語るみんなを前に、俺は一人眉を寄せた。みんなが笑顔で語った報せを聞いて、俺は真っ先に嫌だ、と思ってしまったのだ。どうしてだかは、分からないけど。
確かに、リディがパトロンを称する連中の毒牙にかかりはしないかと、俺もローズもおばさんも、ずっと気を揉んできた。歌姫も一生続けられる仕事じゃないし、いつ捨てられるか分からない愛人と違って、正式な奥様になれるなら願ってもない話のはずだ。そうだ、ただの妾になんて、そんな話だったらおばさんが頷くはずはない。
だったらどうして俺は嫌だなんて思ったのだろう。不快な気分に駆り立てられるように、俺は足を動かした。差し出されるワインも断って、ローズにまでも背を向けて、リディを探そうと、バカ騒ぎの中心の方へ。
耳によみがえるのは、先日街角で耳に挟んだ不快な噂だ。リディアーヌが主役を射止めたのはパトロンと寝たからだ、という。
また後ろめたい想像が頭をよぎって、それを振り払うように足を早める。
噂の相手、そのパトロンと結婚させられるというのだろうか。いや、させられるというのは俺の早合点かもしれない。リディとその男がそもそも恋人同士だったら、男が彼女のために便宜を図るのは、褒められたことではないかもしれないが自然なことだ。わざわざこんな下町まで足を運ぶ男なら、ただの遊びじゃないかもしれない。本気でリディを好きなのかもしれない。
男が手配したというワインに酔うみんなの顔は朗らかだ。リディが歌姫になったのを、特におばさんたちは苦々しく思っていたはず。おじさんたちだって、厳しい人は感心しない風に語っていたのを知っている。みんなの明るい顔と声は、単にただ酒にありつけたからというだけじゃないはずだ。貴族とはいえ、胡散臭い相手だったら施しなんて受け取らない。みんな、その程度には誇りを持ってるはずだった。――そう、心から信じることができれば良いのに。
リディの顔が見たい。
本当に好きで結婚するなら、無理強いされてじゃないというなら、リディは笑っているはずだ。貴族の奥様になることができれば、おばさんの病気だって心配いらない。歌姫としての人気が褪せても生活に困ることはないだろう。
リディが幸せになるならそれで良い。それさえ確かめられれば祝えるはずだ。祈る思いで、俺は人垣を掻き分けた。でも――
「――ジャン?」
リディは笑ってはいなかった。この路地裏を飛び出した時と同じ、不安を隠して強がる色の瞳をしていた。
「リディ。久しぶり」
いったいどういうことなのだろう。やはり望んでの結婚ではないのだろうか。周囲の喧騒や酒の匂いも手伝って、疑問に頭が眩むようで、声が震えてしまうのが分かる。
それに、リディに見蕩れてしまった。
リディと会うのはいったい何年ぶりだっただろう。
ポスターなんかで様子を知ってると思っていたのは間違いだった。舞台化粧で艶然と微笑む「リディアーヌ」は誰か知らない遠い世界の女だったけど、今目の前にいるのは間違いなく俺の幼馴染のリディだった。それに何より、ポスターの絵と違って生きて呼吸をしている。すぐ、目の前にいる。
だけど前と全く一緒ではない。とても綺麗になっている。痩せた野良猫のようだったのが、手足もすらりと伸びて、頬もふっくらとして、咲初めの薔薇のような生命力と美しさに溢れている。ああ、でも意志の強い大きな目は昔のリディと変わっていない。懐かしさに、何か胸が熱くなる。会いたかった、と。危うく口から溢れるところだった。
でも、そんなことは言って良いはずがない。リディの結婚を祝う席で、婚約者だという男の前で、昔の知り合い程度が出しゃばってはいけないだろう。そもそも、ずっと会おうとしなかったのは俺の方だっていうのに、今さらだ。
だから俺は言いたいことは呑み込んで、渦巻くような複雑な想いを何でもないはずの一言にこめた。
「……変わったな」
するとリディは苦笑のような笑みを浮かべた。
「あんたは変わらないね」
「そうか?」
リディはいったいどういう意味で言ったのだろう。俺だって身長も手足も伸びたし体つきもがっしりしたはず。ヒゲだって生えてきた。見た目で言ったらリディよりも変わっただろう。
なのに変わっていないだって?
確かに俺は前と変わらずこの路地裏から出られないでいる。そのことを指して言ったんだろうか? 違う世界に行ったリディと、いつまでもここでくすぶってる俺と。変わっていないというのは皮肉か嘲りなんだろうか。
声をかけたのは良いけれど、次に何を言ったら良いか分からない。結婚するというのは本当なのか、それで良いのか聞きたかったはずなのに。出会い頭をくじかれて、俺は言葉を失ってしまう。これでは前とおんなじだ。リディを止められなかったあの時と。変わらないってそう言う意味か? それなら、俺は変わらなきゃいけない。言いづらくても、言う資格がなくても聞いてやらないと。お前はどうして笑ってないんだよ、って。
「リディ、お前は――」
「リディ、こちらは? 紹介してもらえるかな」
だけど、俺はやっぱりのろまだった。横から割って入った男の声は、発音も抑揚も俺が今まで聞いたことがない、素晴らしく品の良いものだった。俺の不器用な言葉を、あっさりと掻き消してしまうほどに。
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