ローズの予感②

「今日はお菓子はないのかなあ……」

「さあ、大事な話があるみたいだから」


 唇を尖らせる子供たちをなだめながら、手だけはどうにかいつも通りに動かして仕事を片付けながら、わたしはリディの家を、閉ざされた扉を気にしていた。リディとあの人はおばさんにどんな話をしてるんだろう。結婚の話って、そんなに時間がかかるものなのかなあ。おばさんが反対しているのかしら。ああ、早くしないとジャンが帰ってきちゃう。ジャンとリディが顔を合わせてしまうじゃない。


 通りの人たちもみんな、わたしと同じような顔をしている。普段と一緒を装って、リディの家を気にしてる。それに気づいていないのは子供たちだけ。リディのお土産はひとまず諦め、手伝いをしたり遊んだり。建物が寄り集まって薄暗い路地に朗らかな声を響かせている。


 それでもとうとう扉が開く。もう日差しが傾いて、夕暮れの気配が漂い始めた頃。みんな、外での仕事をどうにか探して、いつその時が来ても良いように待っていたのだ。


「あ――」


 そう呟いたのが誰だったかは分からない。もしかしたらわたしかも。それが誰でも良くなるくらい、みんなリディたちが出てくるのを固唾を呑んで見守っていた。


「皆さん、今日はお騒がせして申し訳ありませんでした!」


 最初に出てきたのはあの綺麗な男の人だった。歌姫のリディと同じくらい、よく通る朗々とした声だった。リディの相手役の役者なのかしら? こんなに自信たっぷりに話す人、この辺りでは絶対いない。――と、思っていると、その人は自ら名前と身分を明かしてくれた。わたしたちが気になって仕方のなかったこと、リディとの関係も。


「私はファルマン子爵アランといいます。リディ――リディアーヌの最初のファンで、崇拝者で、ずっと彼女を支えてきました」


 リディに支えられて、おばさんも出てきた。目を赤く腫らしているけど、それは嬉し涙だろう。何年もリディに会おうとしなかったのに、今はリディの手を握りしめて涙を流しながら笑ってる。

 それを見て、近所の人たちもやっと良い報せだと認めたようだった。さざなみのようなざわめきはやまないけれど、とにかく男の人――アランに注目している。


「そして、いつしか私は彼女の声だけでなく彼女自身を愛するようになっていました。今日ここへ来たのは、母君に結婚の許しをいただくためだったのです」


 身分を知った上でもなお、アランという人の喋り方はお芝居の台詞のように聞こえた。絶妙な抑揚と大げさすぎない身振り手振りでわたしたちの目と耳を惹きつけている。


「正式な発表は次の舞台の初日が終わってからになりますが――『義母』には無事に結婚を認めていただくことができました!」


 拍手が起こった。さっきまで疑わしそうに目を細めていたおばさんたちも、訳知り顔で醒めたことを言っていたおじさんたちも。よく分かっていないであろう子供たちでさえ。最高の歌を聞いた後の観客が多分するであろうように、激しく手を叩いていた。この人の堂々とした語り方にはそれだけの力があった。


「この場にいる皆さんには、ぜひ私の喜びを分かち合っていただきたい。ささやかではありますが、酒肴を用意しました。どうか共に祝ってください!」


 わっと耳をふさぐほどの歓声が起きた。今度こそ、この綺麗な貴族の人の演技めいた言葉に乗せられたのでない、みんなの心からの歓声だ。お酒とご馳走はとっても分かりやすいことだから。アランの馬車も身なりも立派だから、きっととても良いワインが飲める。


 みんなは浮かれて騒いでいたし、おばさんはハンカチで涙を拭いていた。だから、アランという人の陰に隠れるように立っていたリディの表情に目を留めたのは、多分わたしだけだっただろう。


 他のみんなは笑っているのに、リディは笑っていなかった。おばさんを待っていた時と同じ、戸惑ったような落ち着かない表情をしていた。


 そして笑っていないのはリディだけではない。わたしもだった。わたしは、そろそろジャンが帰ってくる時間なのを気にしていた。




 路地裏は即席の宴会場に仕立てあげられた。


 通りに面した家からは、椅子とテーブルが運び出された。足りない分はアランがどこかから手配したようだった。それにワインや料理や、子供のためにはお菓子を何種類も。季節が夏で良かったと思う。日が長くて、色んなものが行ったり来たりするのに足元が危ないなんてことがないから。アランが高らかに乾杯を宣言した時も、空の色はまだすみれ色で、真っ暗にはなっていなかった。


 勧められるままにワインを飲んだり、誰かがこぼしたのを拭いたりしながら、でも、わたしは料理の味を楽しむどころじゃなかった。それどころか不安で気が気じゃなかった。どうしてリディは浮かない顔なんだろう。ジャンはいつ帰ってくるんだろう。……二人が会ったら、何が起きてしまうんだろう。




 どんなに来て欲しくないと思っていても、嫌な予感がしていても、その時はやってきてしまう。


 空いた瓶を下げようとしていたわたしの腕が、横からぐいと掴まれた。


「おい、いったい何が起きてるんだよ」

「ジャン……!」


 顔を見なくても声だけで分かっていた。それでも振り向いて彼の顔を見ると、わたしは言葉を失ってしまう。眉を寄せて、困ったような怒ったような顔をした彼に、どう説明したら良いかと迷ってしまったのだ。


「リディが結婚するってさ」

「大金持ちの貴族さまだ」

「俺たちにもお祝いを恵んでくれたんだ」


 わたしが言葉に迷っている間に、周りから次々と声が掛かる。お酒が入って陽気になった人ばかりだ。ジャンが尋ねたのはわたしに対してだったのに、親切に丁寧にアランの訪れを、その目的を説明されてしまった。


「リディが結婚……」

「え、ええ。とても素敵な紳士だったわ。礼儀正しくて、親切で――」


 ジャンがますます顔を顰めたのが怖いと思って、わたしは必死に言い立てた。おばさんも安心したみたい。アランもきちんとした人で、少しも偉ぶってなんかなかった。だからおめでたいことだと思う。


 でもわたしが言うべきことを全て吐き出してしまった後でも、ジャンの表情が晴れることはなかった。


「リディはまだいるのか」

「……ええ」


 わたしの視線でジャンはリディの居場所を察したらしい。多分わたしがいなくても分かっただろうけど。このお祭り騒ぎの中心なんだから。


「待ってよ、ジャン」


 足早にリディの方へと向かうジャンの背中をわたしは追いかけた。なぜか二人が会うのがすごく嫌なことだと思ったから。心臓をどきどきさせながら足を急がせて、そして――だから、わたしは見てしまった。


「――ジャン?」


 ジャンの姿を見て、リディが掛けていた椅子から立ち上がるのを。そして、今にも泣き出しそうに目を揺らがせるのを。


「リディ。久しぶり」


 ジャンも。たったの一言の挨拶なのに、どうしてこんなに声が震えているんだろう。彼のこんな声だって、聞きたくなかった。


 わたしはお芝居をちゃんと見たことはない。少なくとも劇場では。リディが駆け出しの頃に何度か誘ってくれたけど、チケットを譲ってくれると言ったけど、仕事を放り出して楽しむためだけに何時間も過ごすなんて、後ろめたくてできなかった。

 わたしが知ってるお芝居と言ったら、お祭りなんかの時に広場でやってる大道芸、子供向けの単純な筋書きがいくつかだけだ。そんなのを並んで見物したのも、リディとジャンとの大事な思い出。みんな子供で、何の区別もなかったあの頃は、なんて懐かしいのかしら。


 そんなとりとめもない記憶がぎったのは、まるでお芝居だわ、と思ったからだ。


 今の二人は、ジャンとリディは、まるでお芝居の主役みたい。わたしだけを客席に置き去りにして、二人だけに照明が当たっているみたい。


 これが舞台だったなら、周りの脇役は動きを止めて、ヴァイオリンやフルートは感傷的なメロディを奏で、二人が見つめ合うのを盛り上げるんだろう。そして二人は手を取って――いいえ、今この場ではできるはずがない。でも、できないからこそ二人の瞳に宿る想いが一層熱く燃えていた。わたしの目にはそう見えた。


 わたしはそっとため息を吐いた。泣きたくなるほど胸が苦しかった。


 何年も会っていなかったのに、結婚の話をしていたところなのに、ジャンとリディはまだお互いが好きなんだ。

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