動揺

ローズの予感①

 子供たちの笑い声がはじけるのが聞こえて、リディが来たのが分かった。いつもと同じ水曜日だ。今日もジャンは早起きだった。


 あれ、でも何だかおかしいわ。子供たちだけじゃない、何だか大人も騒いでる。男の人も女の人も、路地裏全体が煙で燻された蜂の巣みたいに浮き足立っているみたい。


 あんまり騒がしいから、わたしはやりかけの縫い物を置いて外へ出た。そして目に入った光景に息を呑む。


 馬車がいるのは、これはいつものことだ。リディだっていつも馬車で乗り付ける。でも、いつもだったら劇場の送迎の馬車のはず。馬を世話して御者をずっと雇っておけるのは、本当の大金持ちだけだから、劇場は何台か馬車を抱えてるんだって。リディは稼ぎ頭の歌姫だから、休演日は馬車を好きに使っても許されるって、いつか教えてもらったたことがある。


 でも、今日の馬車は劇場のものじゃない、と思う。


 いつもよりも大きくて、もっとずっと立派なような気がする。車の壁に飾られてるのは、紋章ってやつかしら。それならこれは、貴族の馬車ということかしら。

 何よりいつもと違うのは、リディが一人じゃないということだ。動きづらそうなドレスも、高く結った髪型も、薔薇色の頬も唇も、先週と同じ歌姫リディアーヌの姿なのに。なのに、隣にいる男の人のせいでいつもよりずっと綺麗に見える。


 男の人もとても綺麗な人だからだ。金色の髪に青い目。浮かべた晴れやかな微笑みも、彫刻みたいに整っている。背筋がすっと伸びていて、立ち方までそこらの人とは違うみたい。役者? いいえ、この馬車に乗って来たということは、貴族の偉い人なのかしら。リディのパトロン、それとも恋人? 綺麗な格好のリディには、とてもよく似合っているけれど。


 見蕩れているのか、驚いているのか、自分でも分からないままに二人の姿を見つめていると、リディがわたしに気付いたようだった。


「ローズ。母さんは起きてるかしら」

「ええ、起きてると思うけど……」


 こんなに素敵な人といるのに、リディはなぜか困ったように眉を顰めていた。それにおばさんのことを聞くなんて、どういう風の吹き回しだろう。どうせ会ってくれないからと、聞くだけ辛い思いをするからと、最近は家に上がろうともしていなかったのに。


「嫌がるだろうけどあたしが来たって伝えて。この人が会いたいんだって」


 リディが綺麗な男の人を見上げると、その人はわたしに向かって軽くお辞儀をした。下町の貧乏人だって、一目見たら分かるだろうに。なのに優雅な所作できちんと挨拶してくれた。どうしたら良いか分からなくて、くたびれた服が恥ずかしくて真っ直ぐに見返すできなくて、わたしは横を向いてしまった。礼儀知らずだと、思われてしまうのかしら。


「そう――なの。分かった、伝えるわ。お客様なら着替えなきゃね。少し待っててもらわなきゃかも」


 きまり悪さに顔が熱くなるのを感じながら、わたしはできるだけリディだけを見るようにして答えた。貴族らしい男の人は、わたしにはあまりにも眩しすぎるから。

 そうだわ、おばさんに伝えるなら聞いておかなくちゃいけないことがある。もう、わたしったら鈍くて嫌になるんだから。


「――それで、その方はどういう方なの?」


 やっとまともに頭が動いて、問いかけることができたわたしに、リディは答える。困ったような表情をそのままに、まるで他の人のことでも言うかのように。


「あのね、この人あたしと結婚するそうよ」


 リディの声は、囁き声でもよく通った。路地を埋め尽くすほどに詰め掛けていた野次馬たちにもきっと聞こえただろう。一瞬の沈黙が降りた後、花火が上がったようなどよめきが湧いた。




「まったく、あの子には驚かされるわ……!」


 おばさんは着替えて、家の中を大急ぎで片付けている。どうしてこんなに急に、なんて愚痴りながら。それでも今日はリディに会う気になったみたい。結婚するなんて言い出したから、さすがに聞かない訳にはいかないんだろう。どこかそわそわとして、嬉しそうですらあるかもしれない。


 その間外で待たされているリディは、何だか落ち着かない様子だった。せっかく整えた赤い爪を、口元に運んで噛んでしまっている。リディの婚約者だという綺麗な男の人は、路地裏の薄汚れた通り、あちこちに穴の開いた石畳や、煉瓦(れんが)のひび割れた建物を物珍しそうに見渡している。あんなにぴかぴかの靴なのに、こんな埃っぽいところに入ってきて平気なのかしら。それだけリディが好きだということなのかしら。


「あの男は誰だって?」

「さあ、金持ちか貴族か、いずれ劇場のパトロンだろう」

「リディを気に入っているようだ」

「結婚だなんて本当かねえ。お妾さんということではないの」

「リディはまだ子供なのに。騙されてるんじゃなきゃ良いけど」


 仕事の手を休めて見守るみんなが、そんなに潜めている訳でもない声で口々に言っている。リディにも聞こえているだろう。だから暗い顔をしているのかしら。そりゃあ、パトロンと浮名を流す歌姫は多いけど、結婚までこぎつけた話は聞いたことがない、と思う。でも、それならわざわざこんなところに足を運ぶ貴族のことだって誰も聞いたことがないでしょうに。みんな、好き勝手なことばかり言うんだから。


 みんな――とくに女の人は、羨ましくて仕方ないのだと思う。リディが綺麗な服を着て、綺麗な髪や綺麗な手をしているのも羨ましいけど、今だけのこと、そう長く続くはずがないことだとみんなどこかで思ってたんだ。だから今まで黙ってられた。

 歌姫が輝く時間は短い。いつまでも主役を張れるものじゃない。星はすぐに堕ちるもの。だからいずれリディもわたしたちよりもっと貧しい暮らしに落ちぶれると思ってたんだ。


 でも、もしこの男の人が本気なら、リディが貴族の奥様になるなら。リディは一生、わたしたちには手が届かない豊かで幸せな暮らしを送ることになると思う。


 みんなはそれを認めたくないんだろう。だから心配する振りで、わざと悪い方向に考えている。リディが騙されて泣いてるところを見たいんだろう。なんて、ひどい。


「ローズ? なんとか片付いたわ。お招きしてくれる、リディと――その人を?」

「ええ、おばさん」


 細く開いた扉の隙間から、リディのお母さんが呼びかけた。みんなの言葉が聞こえていなければ良いのだけれど。


 わたしはひどい噂に加わったりしない。思うことさえ絶対しない。わたしもジャンもずっとリディを心配してたんだから。確かに滅多に聞かない――聞いたことがない話ではあるけれど、下町生まれの女の子が貴族の奥様になるなんて素敵じゃない。リディが演じる舞台のお話みたいだわ。


 リディが幸せになったと分かったなら、ジャンも安心するに違いない。そうしたらもっとわたしを見てくれるはずじゃない?


「入って良いそうよ」

「ありがとう」


 わたしが告げると、リディは緊張した面持ちで頷いた。無理もないわ。何年か振りでお母さんと会うんだから。


「君が、ローズだね」


 一方、リディが連れてきた男の人は気負った様子もなくわたしに微笑みかけてくる。みんなの声が聞こえていないはずはないのに。リディの強ばった表情が見えていないはずはないのに。貴族の人には全てどうでも良いことなのかしら。


「義理の母になる人のことを、ずっと面倒を見てくれていたとか。リディ同様、私も君に感謝している」


 とても晴れやかで爽やかな、青空みたいな笑顔だった。そしてわたしがいいえとかそんなとか口ごもっている間に、リディとその人はわたしの横をすり抜けておばさんの――リディの――家へ入っていった。

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