木曜日のアラン②

 曲が終わると、演出家の指示の元、裏方たちが大道具や照明の調整に走り回る。

 手持ち無沙汰になったらしいリディは、私の姿を見て微笑んだ。そして汗の雫を真珠と散らして駆け寄ってきてくれる。歌に夢中で、私のことなどやはり見えていなかったようだ。


「アラン、来てたのね。どうだった?」

「素晴らしかった。将軍が敵国の王女きみのために祖国を裏切るのも無理はない」

「本当かしら」


 駆け出しの少女から布を受け取って汗を拭くリディは、そう言いながらも嬉しそうに笑った。歌と演技については私の目にも耳にも間違いはないと、認めてくれる程度の仲にはなれた。だが、それ以上が、難しい。


「今日は夜公演ソワレには出ないのだったね。この後食事でもどうだろう」

「でもあたし、明日の昼公演マチネには幕開けから出番があるのよ」


 砕けた言葉遣いは、私への親愛を示すものではない。そのままの君が好きだと言ったのを、生意気な態度が好みなのだろうと曲解されたものだ。

 私が欲しいのは、ただ彼女からの愛、打算ではない純粋な好意だけだというのに、リディにはいまだに信じてもらえていないのだ。


「真夜中前には帰すから。それに、リディアーヌの姿を見せれば宣伝になる」

「……仕方ないわね」


 その証拠に、リディが私の誘いを本当に断ることはない。あくまで我が儘な女優を演じているに過ぎなくて、パトロンわたしの言葉には逆らわないのだ。それを利用して連れ回す自分自身にもうんざりするが、一度で良いから本気で抗って手を焼かせて欲しいものだとも思う。そうすれば、リディが何をしても何を言っても私の愛は変わらないのだと示すことができるのに。


 私が求めているのは、パトロンへの敬意や感謝ではなく、一人の男への愛なのだ。




 私はワインで、リディは果汁で乾杯すると、私は料理を味わうのもそこそこにリディに話しかけた。二人きりの時に、私だけに向けられる彼女の声。ひと言でも聞き漏らすまい、ひと言でも多く引き出そうと躍起になって。


「昨日の休演日は何をしていたの? またあそこへ行っていた?」

「ええ。いつも通りよ」


 一方のリディは淡々と食事を口に運ぶ。私は彼女といられて嬉しくて仕方ないのに、リディにとってはこれは付き合いにすぎないのだ。だから、もっと私を見て欲しくて、彼女の視線も心も独占したくて、私はさらに言葉を重ねる。食事なんて口実だ。どうすればリディの愛を得ることができるのだろう。


「母が感心していたよ。病気の親のために働いて、下町の子供たちへの慈善も欠かさない。それでいて吹聴しないのは出来た娘だと」

「あなたが上手く言っただけでしょ」


 リディがカトラリーを置いて私を見上げ、困ったように微笑んだ。大きな青い目に私の姿が映るのが見えて心が躍る。少なくともこの瞬間は、リディは私だけを見つめてる。


 リディは私のことを信じていない。何を贈っても、どこへ連れて行っても。虐めや嫌がらせから守っても、演技に役立てられるようにとマナーや歴史を教えても。

 全て金持ちの道楽、貴族の気まぐれだと思っている。全て、私には簡単にできることだからだ。やっても惜しくないものを、戯れに投げ与えているだけだと思っているんだ。


「あたしがあそこに行くのは見せびらかすためよ。言いふらさないのは、さすがに人聞きが悪いって分かってるってだけなのよ」

「でも、実際子供たちの相手はしてやっているんだろう。お母さんにも薬代を渡しているし。母は君のことが気に入ったようだよ」

「そりゃ、面と向かって売女だなんて言わないでしょうよ」

「本当だって。君は私の妻になるんだ」


 リディに求婚したのは私の本気を伝えるためのつもりだった。決して遊びではないし、愛人で終わらせるつもりでもないと。だが、リディはまだ大掛かりな悪ふざけだと思っている節がある。両親に会わせたのさえ、その一環に過ぎないと。

 求婚を受け入れてくれたからとキスをねだったのがいけなかったのだろうか。結局身体目当てだと思われてしまったのだろうか。しかし、笑顔で頷いたリディを前に、想いが通じたと思って舞い上がってしまったのは仕方ないことなのではないだろうか。


 天にも上る心地で唇を重ねて――なのに、彼女の口づけのぎこちなさ、唇の固さに、すぐにリディは女優だったと気付かされて絶望させられた。舞台は客席から見るもので、客は役者に触れるものではない。触れてしまえば、演技の笑顔はすぐ分かる。礼儀として喜んだ振りをしてみせただけで、リディは気まぐれなパトロンが飽きるのを待っているんだ。長い芝居を続けているつもりなんだ。


 そんなことにはならないと、どうにか分かってもらわなくては。そのためなら手段を選んではいられない。


「リディ、君は本当に親孝行だが、同時にとんでもない不孝者だ。君のお母さんなら私の親も同じこと。もっと早く私に頼れば良かったんだ」

「そんなの、悪いわ。大体、あなたからもらった宝石をお金にうすることだってあるのよ。同じことじゃない」


 ああ、何て悲しくなるほど他人行儀な言葉なんだろう。それに、彼女の笑顔の素っ気なさ! あなたなんて他人じゃない、とでも言っているかのようじゃないか。その形ばかりの微笑みで、謙虚を装った断りで、どれだけ私の心が引き裂かれるか。リディはまだ気づいていない。


「来週の水曜日には私も君について行く。未来の義母に挨拶しなくては。君をいただくことになったと、許しをもらいに行きたいんだ」


 それでも恨み言は笑顔の陰に呑み込んで、私はリディに宣言した。するとリディは細く整えられた眉をひそめた。


「汚いところよ。あなたみたいな人が来るところじゃないわ」


 来る。行くではなくて来る、と言った。リディにとって、あの路地裏はまだふるさとなんだろうか。飛び出してもう何年も経っているというのに、まだ私の世界に来てくれる気はないようだ。そんな言葉尻ひとつでも、彼女は私を傷つけることができるのだ。


「構わないさ。君は毎週行っているんだろう? それに、お母さんをいつまでもそんなところにいさせてはダメだ」


 胸の痛みを無視して。重ねて朗らかに、しかし強くきっぱりと言うと、リディは困り顔のまま黙り込んだ。そして果汁を一口飲んでから笑顔を貼り付けて頷いた。


「ありがとう、アラン。あたしのために沢山のことをしてくれて、いつも本当に感謝してるわ」


 そんなことないよ、と言いながら、私の心はもう一度抉られる。リディはまた私に逆らわなかった。私はまたリディの遠慮を利用した。


 だが、もうすぐこんな気持ちを抱かなくても済むはずだ。


 リディの身の上は調べ上げた。路地裏に帰る理由も知った。病気の母親は、もちろん最大の理由だろうが、彼女があの場所にこだわる理由はそれだけじゃない。

 ジャンとかいう男。リディの幼馴染みだとかいう男。もう何年もリディとは会っていないというが、二人はいずれ結婚するのだろうと、周りの者は思っていたということだ。


 ジャンがリディに未練があるとしたら。あるいはリディがジャンを忘れられないとしたら。

 諦めてもらわなくてはならない。リディの心に他の男が居座り続けるなんて許せない。


 ジャンは貧しい職人に過ぎないとか。私との結婚を知ったなら、リディに相応しくないと身を引く気にもなるだろう。


 そして、路地裏の者たちには証人になってもらうのだ。リディは私と共に生きるのだと、自分たちのもとに帰ることはないのだと。リディが帰るのは私のもとだけで十分だ。古巣のことなど一日も早く忘れさせなくては。

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