ジャンの思索①

 水曜日の夕食はいつもよりも豪華だ。


 リディが置いていく金は、どう考えてもおばさん――あいつの母さんの薬代には多すぎる。おばさんの暮らしを賄ってもまだ余るから、ローズは手間賃のつもりなんでしょう、と溜息を吐くのが常だった。彼女の困ったような顔と声は、いつでも俺の頭に思い描くことができるほどだ。


 おばさんはあの子に会おうとしないから、リディだって会わせる顔がないだろうから、わたしたちに世話を頼んだつもりなんでしょう。お金なんてもらわなくてもそのつもりなのに、律儀というか水臭いというか。


 ローズは余った金をきっちり等分して俺に渡してくれている。おばさんの家のちょっとした手入れとか、力仕事を手伝っているからと。でも俺はそれに手をつける気にはなれない。それはリディの金だから。工房で木材と向き合うことしか知らない俺には分からない、窺い知ることのできないことをして稼いだ金なんて、使って良いものとは思えなかった。

 ローズは俺よりは割り切っていて、使ったほうがリディも気が楽でしょうと言っている。あの子意地っ張りだから。ただで何かをしてもらうってのが嫌なのよ。お金を払ってちゃんとしたつもりなんでしょう、って。


 それは、その通りだとは思う。俺の知るリディはそういう奴だった。そして、だからこそ絶対にあの金は使わないと心に決めた。金で使われる関係になんてなるものか。俺はあいつの昔馴染みだから、だからおばさんの面倒を見て何かと気にかけているんだ。「リディアーヌ」にそんなつもりはないとしても、俺はリディの友だちなんだ。




「どう、美味しい?」


 ローズにはそんな俺が呆れるほどの頑固者に見えるらしい。ローズの家の方が男手が少なくて余裕がないからかもしれないけれど、リディの心遣いはありがたいと素直に言っている。自分でもバカさ加減は分かっているから、ローズのすることに口出しする気も批判する気もさらさらない。


「うん。いつも悪い」


 水曜日ごとにうちに来て、夕食を作ってくれるのなんか、ありがたいとしか言いようがない。母さんはずっと昔に亡くなったから、親父と二人だけのこの家ではローズがいなければ献立はそれは悲惨なことになっていたに違いない。


「良いのよ。作らないとロクなもの食べないんだから」


 ローズもそれを知っているから、テーブル越しに微笑む顔はいたずらっぽい。こいつが面倒を見ているのはリディのおばさんだけじゃない。作りすぎたからと言ってはちょくちょく惣菜なんかを持ってきてくれるのを、親父はとても楽しみにしている。近所でも評判の働き者で、リディとは全然違う意味で自慢の幼馴染だ。リディは金で、ローズは世話で。分不相応なほど俺に良くしてくれるのも同じ、かもしれない。


 今日の食卓に並ぶのは、いつもより良い肉。いつもより良いワイン。いつもより白くて柔らかいパン。普段だったら買うのを躊躇うもの、リディの金がなければ手が届かないものだ。


 決してリディの金を使おうとしない俺に、ローズはこういう形で取り分を渡しているつもりなんだろう。

 金を使わなくても、金で買ったものを食うなら何の違いがあるのか。果たして俺は節を曲げていないのか。分からないが――作ってもらったものを突き返すことはできないから、ローズの方が一枚上手なのかもしれない。


「いっぱい食べてね」

「ああ。ありがとう」


 母さんみたいに優しく微笑むローズは、俺の気持ちには気付いていないだろう。口で言うことはもちろん、悟られることだってあってはならないからこれで良い。

 いつも分けてもらう惣菜と違って、水曜日の料理は何の味もしない。ワインも。美味いどころか何故か尖った苦さがあって舌と喉に突き刺さる。せっかく作ってもらったものを味わうことができていないなんて、ローズに言えるはずがない。




 水曜日に仕事から帰ると、子供たちは上機嫌だ。甘いお菓子に大輪の花。別世界を描いたような、色鮮やかなチラシやパンフレット。そしてそこに描かれた歌姫が、目の前で華やかな舞台のことを語ってくれる。子供が夢を見るには十分だ。

 歌姫と目が合わせられる良席になんて縁がない男たちはリディアーヌを間近に見られて浮き立つし、眉を顰めるおばさんたちだってリディのドレスからは目を離せない。劇場の舞台装置がなくたって、リディはそこにいるだけで星のように輝いている。


 でも、俺にはその全てが忌々しく苦々しい。


 この路地裏をかき回すことの全ては、今のリディが、リディアーヌが持っているもののほんの一部だ。俺がどれだけ働いても、残りの一生かかっても手に入らないものを、あいつは容易くばらまいている。

 そのためにあいつが何をしているか、俺は知らない。知りたくないし、想像さえもしたくない。


 よく煮込まれた牛肉を口に運ぶ。やはり味がしないそれを、ローズからは美味そうに見えるように必死に呑み込む。毎週水曜日だけ、俺は柄にもなく演技をすることになる。これがリディアーヌだったら、もっと器用にもっと優雅に、何の呵責もなくカトラリーを操るのだろうか。


 パンは主の肉でワインは主の血だと教えられた。でも、俺にとってはリディの血肉だ。リディが身体を削って得た金を、俺は今噛み砕いて飲み下している。俺はリディを食い物にしている。


 罪悪感を覚えながら、リディの身体を思い浮かべると血が熱くなるのが分かる。そんな自分に嫌になって、ワインが余計に悪酔いさせる。

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