ジャンの思索②
「あとね、リディがこれ渡して、って」
「何?」
砂の味の食事をやっと終えると、ローズが封筒を差し出してきた。薄暗い家には似合わない、輝くように艶々とした封筒に、俺は顔を顰める。綺麗なもの整ったものは何もかもリディに繋がっているようで、近寄りがたい。
「新作のチケットだって。――行かないよね?」
どこか窺うような表情のローズを不思議に思いながら封筒を開けると、中のチケットは何週間か後の木曜日の日付を示していた。ポスターで見た演目の、初日ではなかっただろうか。遠い国の動物を、剥製じゃない本物のやつを舞台に上げる、見世物も兼ねた大掛かりな公演だと評判だった。象や獅子を従えて歌うのは、もちろん「リディアーヌ」だ。何年か前まで一緒に路地裏で遊んでいたリディが、今度は王女になるらしい。
俺はもう何年もリディの顔を見ていない。それでも、リディアーヌの姿なら至るところで目にしている。売り出し中の歌姫だから、あらゆる街角や飲み屋の壁で、着飾った彼女のポスターが微笑んでいる。
今日もそんな中の一枚を通り過ぎるとき、すれ違う奴らが話すのが聞こえた。
リディアーヌが主役か。まだ若いのに。
若すぎる。それに彼女は下町の出だ。王女役ならアレクサンドラの方が似合うだろう。
パトロンと寝てるのさ。言うだけ野暮ってもんだ。
演技力はともかくとして、リディアーヌは声も顔も可愛いからな。ベッドではどんな歌を歌うのか――
その続きは聞こえなかった。下品な笑い声にかき消されたし、俺も足早にその場を離れたから。振り向いてそいつらの顔を見ようものなら、殴りかからない自信はなかった。
「ジャン? 行きたいの?」
懐かしい記憶と、つい先程のむかつく記憶と、後ろめたい想像と。それらの間で引き裂かれていた俺は、ローズの心配そうな顔にしばらく気付かなかった。いつの間にか俺のすぐ傍に来て、すがるような目で見上げている。ローズは俺に行って欲しくないんだろう。
「いや。無理だろう。着ていく服もないし」
「そうよね。次の日だって早いんだし」
諸々の邪念を振り払うつもりで首を振ると、ローズはほっとしたように微笑んだ。リディが出ていこうとした時、こいつも懸命に止めていた。俺と同じように、今のリディを観るのが辛いんだろうと思う。
子供の頃は、ずっと一緒にいられると思っていたのに。それが当たり前だと思っていたのに。いつの間にかリディは遠いところへ行ってしまった。
水曜日が来るたびにそれを思い知らされる。子供たちには待ち遠しい日も、俺にとっては忌まわしい日だ。リディとは住む世界が違うと痛感する日。
あの時もっと止めていれば良かったと、後悔する日だ。
ローズも路地裏のみんなも知らないことがある。
リディの母さんはリディが出て行ったから身体を悪くしたんじゃない。母さんが病気になったからリディは出て行こうと決めたんだ。
あたしが朝から晩まで働いたとして、稼げるお金なんてたかが知れてるわ。食べてくだけで精一杯。薬代なんて到底無理よ。
あいつの声が今も耳によみがえる。
まともに働いて無理なんだったら、まともじゃないやり方じゃなきゃ。劇場の歌姫なんてどうかしら? 毎日綺麗な服を着て、沢山の人に囲まれて。それでお金がもらえるなんて最高じゃない?
夜の街頭に立つと言い出さなかっただけマシなんだろうか。確かにあいつは可愛くて、声も通ってひばりのようだった。でも、俺には街娼も歌姫も同じに思えた。だからあんなに止めたのに。一緒におばさんを支えるために、必死で働くと言ったのに。
母さんのことは関係ないわ。あたしは華やかな暮らしがしたいのよ。絹と宝石、シャンパンと薔薇。毎日違うドレスを着て、伯爵様と踊るのよ。どんな貴族も大金持ちも、あたしのために膝をつくの。あんたがそんな暮らしをさせてくれる? 無理でしょう? たかだか家具職人の、それも、見習いの癖に!
俺が反論を一つ考える間に、あいつはそれこそ歌うように、十も百もまくし立てた。しかも俺だけでなくて路地裏全体に向かって。俺が違うと言うよりも、みんながあいつを嫌う方が早かった。本心なんかじゃ決してない、あいつが思い切るためだと分かっていたのに。でも、俺にはどうしようもできなかった。
気付いた時には、リディは病気の母親を見捨てた薄情な娘になっていた。おばさんがどんなにリディをかばっても、逆にたしなめられるようになっていた。あの子はあんたを捨てて出て行ったんだ。下町であくせく働くよりも、華やかな暮らしがしたかったんだ。親不孝の浮ついた子だ、ローズやジャンがあんたの子なら良かったのに――
おばさんがリディと会おうとしないのは、会ったら泣いてしまうからだ。歌姫なんて辞めて帰って来いと言ってしまいそうになるからだ。でも母娘二人じゃ暮らしていけないのが分かっているから、言ってはいけないと思ってるんだ。
娘が身を削っているのに何もできないと、おばさんは俺によくこぼす。多分ローズには言えないんだろう。女の方がリディに厳しいのは、見ているだけでも何となく分かる。
おばさんを慰めようとしても、俺もかける言葉がない。痩せた背中を撫でるだけだ。そんな時はもっと金も力もある男だったら、とぼんやり思う。そうだったらリディとは会えなかった訳だけど。
すぐに捨てれば良かったのに、俺はリディがくれたチケットを大事にしまいこんだ。
どうしてなのかは自分でも分からない。「リディアーヌ」なんて見たくないのに。
リディはいつも強がりだった。あんたなんていなくても大丈夫なのよ、とあらゆる手段で伝えてくる。直接会うのはまだ避けることができても、チラシでポスターで、何より水曜ごとの訪れで。リディアーヌはいつも勝ち誇って笑っている。
それが本当であって欲しいのか、実は嘘であってほしいのか。それもまた、俺には分からないことだ。
本当ならリディは完全に俺から離れたということだし――嘘だったら。あいつは実は泣いているんじゃないだろうか。なのにそれを誰にも見せられないでいるんじゃないだろうか。初めて寄越したチケットは、一体何を意味しているのか。何か助けを求めているんじゃないだろうか?
そこまで考えて、俺はやはり首を振る。
俺に何ができるっていうんだ?
俺はしがない職人だ。リディアーヌに宝石やドレスを贈ることも、おばさんを助けることさえ独りではできない。できたらリディを止められていた。
あれから何年か経って、少しは腕が上がって常客がついても、劇場の歌姫の稼ぎには遠く及ばない。そんな俺が、リディのために何ができる? 何もできないなら、何も知らない方が良い。リディの本心なんか知ってはいけない。そもそも、あいつが俺を頼るはずがない。
水曜日は、俺の無力を思い知らされる日だ。
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