リディの呟き②
あたしの姿をひと目見て、アランはにっこりと微笑んだ。蜂蜜みたいな笑顔だといつも思う。髪の色と同じに濁りなくきらきらとして、とろけそうなほどひたすら甘い。何も嫌なことなんて知らないみたい。貴族様だから当然だけど。
「可愛いよ、リディ」
「可愛いんじゃ困るわ。あたしは灼熱の国の王女なのよ? 気高く美しく見えなくては」
「他の皆にはそう見えるだろうから大丈夫。私にとっては君はいつでも可愛らしい」
「そう」
エスコートの手を取る間にそんな言葉を交わす。アランは声も、語ることまで甘ったるい。役者になれば良かったのに、と言ったこともあるくらい。許されないよと首を振っていたけれど。貴族も色々大変なのかしら、って同情したのはほんの一瞬だけだった。役者になったらあたしが歌うのを集中して聞けないし、だなんて言い出したから。あたしは
「本番も白い衣装なんだろう? 最高だ、花嫁衣装のようだからね」
アランがそう囁いたのは会場に入る直前だったから、あたしは何も返事をすることができなかった。煌く絹や宝石の輝きに目が眩んで、波のように押し寄せる人声に耳を塞がれて、一瞬頭がぼうっとしてしまったから。アランの言葉をどこまで本気にすれば良いのかは、いつまで経っても分かりやしない。
アランはあたしの最初のパトロンで、ついでに身分でも財産でも、劇場についてるファンの中では指折りの名士だった。何とかいう子爵なんだって。ジャンやローズはあたしを娼婦の同類だと、そうでなければ下町生まれの小娘が歌姫になんてなれっこないと思ってるかもしれないけど、少なくとも今のところはそんなことはしていない。あたしの初めてはアランがとっくの昔に売約済みだからだ。
路地裏のドブ鼠を歌姫に仕立てるまで見守って、頂点に登り詰めたところで美味しくいただくのが貴族の遊び。誰もが羨む、歌姫を連れ回すことができるという権利。社交界の噂の的になる――名誉? それに、歌姫自身からは献身への感謝。それらを、手に入れる。でも、血腥い狩りなんかとは違う。むしろ薔薇を育て上げてから摘み取るような。うん、とっても優雅な趣味だわ。
アランは見た目も悪くないし、立ち居振る舞いは当然のように洗練されている。遊び慣れてもいるはずだから、誰彼構わず寝るよりは、アランだけのものになるのは悪い話じゃないと思ってた。今までしてもらったことに対して、恩返しもしなきゃいけないしね。
そう、思っていたのに。なのに、アランはあたしに正式にプロポーズした。反対する親兄弟を押し切って。あたしを新作の主役に押し込んで。初日のカーテンコールの後に、大々的に発表するつもりだと、得意げに打ち明けてくれた。貴族の遊びって、あまりに大掛かりで全く意味が分からない。
「初日のボックスの五番は誰にあげたの? 良い席じゃないか。誰か知らないが幸せな男だ」
一通り名士に挨拶して、新作の宣伝をして。好奇の目線や下世話な質問にさらされて。ようやく一息ついてバルコニーに逃れると、アランはあたしにグラスを差し出した。喉に悪いからと、あたしが決してお酒は飲まないのを知っているからだろう、金色の葡萄の果汁を選んでくれた。ただし少しだけ発酵していて細かい泡が立ち上っている。甘くて爽やかな、初夏の名物だった。
「どうして男って分かるの?」
「恋する男の勘だよ。
「ただの昔の知り合いよ。大体、あなたの方が特等席じゃない」
アランは初日の公演を舞台袖で観る予定になっている。そして最後に舞台に上がって、あたしに跪いて紅い薔薇を渡すんだとか。劇場全体を巻き込んだ、贅沢な趣向っていうのかしら。これも、パトロンだからこそできること。あたしは上客を捕まえたって、自慢に思えば良いのかしら。
「ただの知り合いだろうと、君の視線を奪う男は許せない」
「照明の逆光でろくに顔なんか見えないわよ。来るかどうかも分からないし。――来て、くれないんじゃないかしら」
あたしは貴族のアランに対しても口の利き方を変えない。身の程知らずで生意気で高慢な歌姫の像を、きっとこの人は望んでいるだろうから。案の定というか、それで怒られたこともない。それどころかあたしが蓮っ葉な物言いをするほどアランは嬉しそうにさえする。
「まさか。美しいリディアーヌの招待なのに」
今も、アランはわざとらしく芝居がかって――この
「そういうの、興味ない人なのよ」
答えながら、あたしは思う。ジャンにとって、あたしは幼馴染のリディなのかしら。それとも歌姫のリディアーヌ? 彼とは違う世界に住む、宝石と醜聞に塗れた女? リディアーヌなら、彼とは縁のない女のはず。でも、もしもまだ「リディ」だったら?
答えを見つけられないでいるうちに、アランは一層笑うとあたしの腰に手を回して抱き寄せた。
「君には残念なのかな。でもそれを聞いて安心したよ」
彼の唇を待つ数秒の間、また意味のない問いが頭をよぎる。あたしがまだ誰とも「してない」って言ったら、ジャンやローズは信じるかしら。
愚問だわ。
オルタンスやアレクサンドラが王女役じゃないのはおかしいって、みんな言ってる。ちょっと人気があるからって、経験でも声でも一番じゃないあたしが主役を張れるのはアランのおかげ。なのに何にもないだなんて、人に言ったらあり得ないと思われるに決まってる。図々しい嘘だって。
おばさんたちの目つきやローズの曖昧な微笑、何よりジャンと母さんが会ってくれないことで分かりきってることじゃない?
あの人たちがあたしを睨むのは、あたしを羨んでいるからじゃない。蔑んでいるからだ。まともに働いていたら絶対に手に入らないものをあたしは持っている。つまり、あたしはまともじゃないことをしたと思われている。
水曜日は確かめる日だ。
あたしとあの人たちでは住む世界が違うのだと。
料理も裁縫も洗濯も、まともな女の子がする仕事を、あたしはもう何年もやってない。今更あの人たちの世界には戻れない。リディという娘の居場所は、もうこの世のどこにもない。あたしはここで「リディアーヌ」を演じ続けるしかない。舞台の上でも、下りた後でも。
あたしは、娼婦なのかしら。
「愛してるよ、リディ」
キスの合間に囁かれるうちに答えは分かる。
歌うこと以外で唇を使ってしまったら、胸を張って歌姫だと言えるはずがない。
ジャンが娼婦のために劇場に来ることはないだろう。空のボックス席が見えたなら、未練なくリディという子をいなかったことにできるだろう。リディアーヌを演じ続ける覚悟を決めることができるだろう。
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