リディの呟き①

 あたしが水曜日をどう思っているか、一言で言うのは難しい。


 他の日のように拍手や賞賛を浴びることがないのは、寂しいというか物足りないのかもしれない。


 でも、重いかつらも厚い化粧も、どう考えても美容に良いものではないから、髪や肌を休められる歓迎すべき日ではあるかも。そう、それに鬱陶しい嫌がらせや陰口に煩わされないのもきっと良いこと。下町育ちの癖に主役だなんて、って。聞こえるだけなら無視できるけど、衣装に針が仕込まれてたりしないかと気を張るのは面倒くさい。


 いいえ、それもやっぱりどうでも良いこと。あたしにとっては、水曜日は何と言ってもあそこに行く日だ。

 あたしが生まれた路地裏へ。いつも暗くて汚くて。貧乏人が肩を寄せ合って暮らす場所。朝から晩まで働いて、髪も手も荒れ放題。お洒落なんかとんでもない。良い思い出なんかひとつもない。


 ううん、そう言ったら嘘になる。楽しいこともちゃんとあった。


 母さんがたまに作ってくれたお菓子とか。今ならもっと甘くてふわふわのを毎日でも食べられるけど、苦しい中であたしのために切り詰めてくれたと知っていたから、今よりずっと大事に食べてた。

 ローズもいたし。料理でも裁縫でもあの子の方が絶対上手で、比べられるばっかりで、あたしはよくむくれてたけど。働くのが好きだなんて、信じられないと思ってたけど。でも、あの子と一緒だったら水仕事だってそんなに苦痛じゃなかった気がする。


 何より、あの頃はジャンがいた。口うるさくて、ローズと同じ働き者の良い子ちゃん。ジャンの家、あたしの家、ローズの家。三件並んだ幼馴染だったから、あたしは毎朝二人に叩き起されて嫌々仕事を始めてた。


 あれ、おかしいわ。やっぱり嫌な思い出ばかりじゃない。早起きも真冬の洗濯も、あたしは大嫌いだったはずなのに。どうして懐かしいなんて思うのかしら。

 あたしが毎週あの路地に行くのは、見せびらかすためのはずなのに。今のあたしをご覧なさいな、って。


 子供たちが目を輝かせるお菓子だって。あそこのお店のが気になるわ、って呟くだけで良い。そうすれば、ファンたちが気を回してくれて、ひと月かかっても食べきれないくらいの量が楽屋に届く。配っているのはほんの余り物だけよ。

 もう少し年上の女の子は競い合って衣装の端切れや飾り羽根、ビーズなんかを持っていく。リボンにでも仕立てて髪型だけでもお姫様気分を味わうのかしら。それとも人形にお姫様の格好をさせる? バカバカしい、あたしだったら毎晩だって「自分が」そんな格好をできるのに。


 子供のいるおばさんや、あたしと同じ年頃の女が睨んでくるのはもっと可笑しい。歌姫になるって言い出した時、みんな、あたしを止めたものね! 絶対に無理だって、バカな夢は見るんじゃないって。いかにも世の中を分かってる、みたいな顔をしてさあ。


 それがどう? 見てよ、みんなが「まともに」働いてくたびれていく間に、あたしは庶民の女としては最高の地位に登りつめた! みんなが羨ましそうに見つめている服だって、ほんの普段着なんだから。お洒落はみんなにとっては手の届かない贅沢でしょうけど、あたしにとっては義務なのよ、観客の憧れとしての。出掛けるたびに着飾るのが面倒でたまらないわ、なんて言ったら、みんなどんな顔をするかしら?

 そうだわ、水曜日はあたしにとって確かめる日よ。あたしはあの人たちとは違うのだと。全然違う世界に住んでいるのだと。

 みんな本当は働きたくないくせに、真面目にしてても良いことなんてあるはずないと、口にはしなくても知ってるはずなのに。なのにあたしが楽して稼いでいると責めるのよ。だから教えてあげるのよ。結局あたしの方が正しかったでしょう、って。





「今日もジャンはいなかったな……」


 夜会のための衣装に着替えながらあたしは呟いた。あたしがあの路地を飛び出そうとした時に、一番うるさかったのがジャンだった。


 歌姫になれる娘はほんのひと握り。夢破れて帰って来るなら良い方で、劇場の支配人や貴族の客に弄ばれるのが関の山だって。酒や薬に溺れさせられて、若さも健康も、命さえもなくしてしまうって、顔を真っ赤にして怒ってた。

 だから、今のあたしを見るのはジャンにとって嫌なものに違いない。彼の言う通りにならなかったと、そのの愚直さを嗤われるようで。あたしの存在を許せないに違いない。


 水曜日はそれを確かめる日でもある。ジャンはあたしを嫌っていると。


 鏡の中のあたしは、肌を濃い目のオリーブ色に塗って、大ぶりな金の環の冠と耳飾りをつけている。目蓋を青く彩って、目の周りに金粉を散らして。ドレスは肌の色が映えるように真っ白なものを。きっと白粉ドーランで汚れて一度で捨てることになってしまうわね。


 まあ仕方ないことよ。これも一種の宣伝だもの。


 次の舞台、あたしが主役を射止めた公演で、あたしは灼熱の国の王女になる。国よりも恋を選んで死ぬ女。その情熱に相応しい、熱く焼けた肌の色。高貴な生まれを思わせる強い眼差しを装って、異国風のドレスと飾りを身につける。役を思わせる扮装で夜会に出るあたしは、生きた広告でポスターだ。支配人にもそうするように命じられた。今夜の主催は芸術を愛する貴族様だ。招かれた客にも、劇場のパトロンが多い。新作への期待を、高めておかなくちゃいけない。


「さあリディアーヌ、行きましょうか」


 化粧を終えると、下町生まれのリディはどこにもいなくなってしまった。鏡の中にいるのは歌姫のリディアーヌに他ならない。別人になるのに、舞台用の大仰な鬘や衣装なんて必要なかった。路地裏を訪ねた後だから尚更だ。リディなんて娘は、もうこの世のどこにもないんだから。これでもう何度目か、自分で確かめてきたんだから。

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