ローズの眼差し②
「マリー、あんた大きくなったわねえ!」
リディの声はよく通る。劇場の高い天井じゃなくても、小汚い建物が窮屈に並ぶこの路地でも、青空の下でも関係ない。偉い人やお金持ちを酔わせる声が、子供たちを魅了する一方で年配のおばさんたちの眉を顰めさせるとしても。別の名で呼んでも薔薇は芳しい。リディは前にそんな台詞を
「もっと大きくなったらリディみたいに舞台に立てる?」
「どうかしら? 歌が上手いってだけじゃダメなのよ。綺麗なだけでも。うんと練習しないと」
声だけじゃなくて、リディの姿も良く目立つ。熱いほど眩しいほどの照明がなくても、金の髪も青い目も昔よりもずっと輝いている。下町には似合わないその輝きも、子供たちの憧れの的だ。
「するわ! それでリディみたいに歌姫になるの。毎日お菓子を食べて綺麗なドレスを着れるんでしょう?」
「まあ頑張りなさい。あたしがそれまで歌姫だったら、あんたに口を利いてあげる」
野菜を洗うわたしの横で、マリーの母親が鼻を鳴らした。娘が今以上に手伝いを怠けるのではと、苛立っているみたい。
「大丈夫よ。マリーは良い子だもの」
わたしが慰めると、彼女は今度は溜息を吐いた。
「だと良いけど。まったく、見習うならあんたの方にして欲しいんだけどね、ローズ」
「じきに分かるわよ」
わたしが苦笑する間にも、リディはまた別の子に声をかける。
「それはあんたにあげるわ、エメ。あんたの髪は黒だから、
深い青色に、金色の糸で珍しい異国風の刺繍を施した布を、エメはスカートのように腰に巻きつけた。ドレスに見立ててくるくると回りながら、嬉しそうに声を立てて笑う。
「ほんと? 良いの!?」
「ええ。それはほんの端切れだもの。あたしの衣装を仕立てた残りってだけなのよ」
「でも素敵。宝物にするね! ありがとう!」
小さな子供たち、特に女の子たちを従えたリディは、わたしに目を留めると一際艶やかに微笑んだ。聖女の慈悲深い微笑みに見える、のかしら。でも聖女様ならこんな派手な衣装で描かれることはないわね。
リディは今日も綺麗な服を着ている。薔薇か血の色みたいに鮮やかな赤いの。
歌でお菓子を、笑顔で花をもらうなら、この服を手に入れるのにリディは何を売り渡しているのかしら?
「ローズ。ちょっと来てよ。そんなの後でも良いでしょう?」
そんなの、って言うのね、リディ。水汲み、洗濯、下拵え。
それでもわたしは手を休めて、おばさんたちに目で謝って、リディの傍へと歩み寄る。艶々として泥も埃も跳ね返すようなリディの服と違って、わたしのはツギだらけでくたびれている。わたしもリディも、そんなことを気にする素振りなんて見せないけれど。
「はい、今週の分。――母さんの具合は、どうかしら」
この一瞬だけは、リディ――リディアーヌも少しだけ申し訳なさそうな顔をする。病気のお母さんの薬代を、わたしに託す時だけは。おばさんも、リディと会おうとしないから。歌「姫」なんてとんでもない、娼婦みたいなものじゃない、って。
だから、リディがお母さんの様子を知るにはわたしに聞くより他にない。
「相変わらずよ。でも、最近は暖かいから」
まだマシよ、と教えてあげるとリディは昔みたいに幼い表情で頷いた。ほっとしたように。
「そう。――ジャンは、まだ仕事?」
でも一瞬の後にはまた薔薇の微笑みを浮かべてる。わたしには代わりに差し出せるものなんてないのに。
「ええ。彼、働き者だから」
「くだらないわ。朝から晩まで働いて、手元に残るのなんて雀の涙じゃない。あたしの付き人でもやった方が良いんじゃないかしら」
「ジャンはそういうの好きじゃないのよ」
「ええ、そうでしょうとも!」
何回もしたやり取りを、わたしたちはまた繰り返す。もしかしたらリディはわたしにそうね、って言って欲しいのかもしれない。ちまちまと真面目に働くのなんて辞めて、リディアーヌと同じ世界に来て欲しいのかも。わたしからそう勧めさせたいのかも。
それが、歌姫の微笑み、偉い貴族や大金持ちが大枚叩いて欲しがる笑みの代価に、リディがわたしに求めるものなのかもしれない。
「もう住む世界が違うのよ」
そう、わたしとリディは何もかも違う。綺麗な服と落ちない汚れに塗れた服。艶々とした髪とそうでない髪。ふっくらとした薔薇色の唇と、かさかさとしてひび割れたそれ。手の爪に至るまで、違う。リディの爪は先を尖らせて、それこそ薔薇みたいに真っ赤に塗られているけれど、わたしの爪はそうじゃない。手のひらを見たときに爪が覗くことのないように、短く整えられている。いえ、伸びる前に欠けてしまう。
でも、わたしはそれで良い。だってわたしがいるのはジャンと同じ世界だから。
リディ、あんたは何でも手に入れれば良い。富も名声も美しさも。着るもの食べるもの住む部屋だって最高のものを。もしかしたら貴族の恋人だってできるかも。
でもわたしは妬んだりしない。ジャンは、あんたが捨てていったものは、わたしにとってはどんな贅沢な暮らしよりも大事だから。
「そうね」
言いたいことはちゃんと伝わったのかしら。リディはつまらなそうに頷いた。そしてまた子供たちにお菓子を配り始めた。
そしてリディが帰る頃になっても、ジャンはやっぱり戻らなかった。いつもの水曜と同じだった。
「じゃあ、また来週ね」
「待ってるわ。子供たちも楽しみにしてるし」
衣装の端切れや小道具の余りの孔雀の羽根は、子供の格好の玩具だ。少し分を超えているかもしれないけれど。お菓子をくれるのも、チラシを指差しては文字を教えてくれるのも、おばさんたちだって全く感謝していないという訳じゃないんだ。
わたしも。綺麗になった幼馴染に会えるのは嬉しいことだ。
だから偽りじゃなく微笑むと、リディも高価なはずの笑顔をくれた。
「ええ。それと――これをジャンに渡してくれる?」
「ジャンに?」
リディが差し出したのは、劇場の紋章が入った封筒だった。上品な紫色の、しっかりとした厚紙で、良い香りさえ漂わせている。
いつもとは違うこと、今までにないことに首を傾げると、リディははにかんだような笑みを浮かべた。恋する乙女を演じる時は、こんな表情をするのかもしれない。そう思うと、わたしの肌の内側をざわりと虫が這ったような気がした。
「今度やる新作の、初日のチケットよ。ボックス席の五番。舞台がとても近くて――あたしが主役なの。見に来て欲しくて」
「そう。渡してはみるけど――」
ジャンは行かないと思う。リディが路地裏に来るのも会おうとしないんだから。「リディアーヌ」が綺麗な衣装で濃い舞台化粧で喝采を浴びるところなんて、見たくないに決まってる。
「渡すだけで良いの。来るかどうかは彼に任せるわ」
「それならやってみるわね」
ありがとう、と言ったリディの笑顔は薔薇のように華やかだった。劇場いっぱいの観客が見蕩れるのも無理はないと思うくらいに。
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