喝采を浴びるリディアーヌ

悠井すみれ

それぞれの水曜日

ローズの眼差し①

 水曜日は子供たちの機嫌が良い日だ。




 みんな朝からそわそわとして、いつもと同じように水を汲んだり鶏に餌をやったりしながら、横目で通りの入口をちらちらと気にしている。今にも綺麗な馬車の影が見えるのではないか、ぱりっとした服の御者が振るう鞭の音や、馬の蹄が舗装されていない道を踏みしめるぬかるんだ音、馬具が擦れ合う音が聞こえるのではないかと、目と耳を研ぎ澄ませている。


 水曜日は劇場の休演日だからだ。


 チケット売り場が閉ざされていて客席が空だからといって、劇場が完全に休むことなんてない。客が入らないからこそ、無数の客席やシャンデリアが輝くホールや床の繊細なモザイク模様を磨き上げるのだろうし、大道具小道具の手入れや、ほつれた衣装を繕うのに裏方は忙しいのだろう。

 それでも主役の可憐な歌姫ソプラノから色男の相手役テノール、端役の踊り子に至るまで、役者は一日休みになる。舞台では目を釣り上げた派手な化粧に黒っぽい口紅をほどこす悪女役アルトだって、この日ばかりは普段は客席にいる紳士淑女に紛れてカフェに座っているかもしれない。

 役者の休日の過ごし方は様々だろう。薄暗い部屋で一日喉を休めているかもしれないし、より良い役を射止めようと練習に励む者もいるかもしれない。パトロンと連れ立って遊び回って、社交界に華と噂を提供するのも良いだろう。それは本気の恋かもしれないし、名優の隣に並ぶ栄誉と貴族の財産を売買する、高度な取引かもしれない。


 でも、リディの水曜日の過ごし方はそのどれとも違う。


 リディ。昔から歌が上手くて可愛い子だった。でも怠け者で夢見がちだった。水仕事であかぎれだらけの手を見下ろしては整った顔を顰めていた。綺麗な声が囀っていたのが、今もはっきりと耳に蘇る。こんなに白くて綺麗な手なのに、ここにいてはどんどん汚くなってしまう。あたしはこんなところで母さんみたいにくたびれてくのはゴメンだわ。


 リディ。そんな名前の子はもういない。女優になって華やかな暮らしをするのだと、男爵様や伯爵様もひざまずかせるのだと、このゴミ溜めのような路地から飛び出して行ってしまった。ジャンやわたしは止めたのに。だって、そんなに上手くいくはずないと思ったもの。


 すぐに泣いて帰ってくると思ったのに。虐められたり騙されたり、もっと悪いことになりはしないかと気を揉んでいたのに、リディは帰ってこなかった。病気になってしまったお母さんを放ったらかして、ジャンとわたしに世話させて、あの子は劇場の歌姫にまで登りつめた。

 リディという子はもういない。そんなありきたりの名前じゃ歌姫に相応しくない。ポスターを彩る悲劇の姫君、遠い国の残酷な皇女、恋に生きる奔放な女。豪華な繊細な重たげな、時には際どい衣装を纏って微笑むその女は、今はもっと気取ってリディアーヌと名乗っている。




 薄汚れた路地裏から飛び立ったリディという白鳥は、それでも古巣を忘れていない。だから毎週の休演日にはかならずこの路地を訪れる。煌びやかなポスターやチラシ、ファンからもらったお菓子や花束、時にはちょっとしたアクセサリーなんかを携えて。


 だから子供たちは水曜日が、リディが来るのを楽しみにしている。


 そして水曜日はジャンの機嫌が悪い日でもある。


 火曜日の公演が終わった後、明け方近くまでパトロンたちに囲まれる「リディアーヌ」は、昼前に起きることはない。だからジャンは決して彼女と会うことがないように、いつも以上に早起きをして仕事場の工房へ向かうのだ。

 わたしも朝は早いから、毎日洗濯しながらジャンを見送る。そして水曜日には、彼がほかの曜日よりもうつむきがちに、唇を曲げて歩いていくのを見て満足する。ジャンがリディに会おうとしないのに安心する。

 甘い声と引き換えに甘いお菓子を。薔薇のような微笑みと引き換えに、本物の紅い薔薇の花束を。

 そんな実のない取引じゃなくて、ジャンはまともに働く方が好きなのだと確かめられる。


 だから、熱気に息が詰まるような夏の日も、水が氷の刃のような冬の日も。肌が荒れても髪が乱れてぼさぼさでも。リディみたいな綺麗な服じゃなくたって。


 わたしは笑って働ける。




 水曜日は子供たちの機嫌が良い日。

 水曜日はジャンの機嫌が悪い日。

 そして、そんなジャンを見てわたしの機嫌が良くなる日。

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